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スウェーデン生活+その後

2010-2013年スウェーデンに在住し帰国。雑記、鳥・植物の写真
*海外情報はその当時のもの。
*禁無断転載

スペイン旅行その16 グエル公園

2011-11-10 19:21:11 | 旅行(スペイン・バルセロナ2011)
ガウディだけでなく、グエルも結構なロマンチストであった様で、ここに自然と調和した人間の暮らしを実現しようとした。だが当時これが理解されず、結局60戸建てられる予定だった住宅も売れたのは2戸のみ(うち1つを買ったのはガウディ本人)で、グエルの死後に計画は中止となってしまう。だが起伏に富んだ丘の上にあることが幸いし、その後都市公園として生まれ変わる事になる。何よりギリシャ劇場に出れば、バルセロナの街が一望でき、景色が抜群なのだ。
上写真はギリシャ劇場の少し上から撮った景色。中央にサグラダファミリア、奥に地中海が見える。下の左から1枚目は側面から見たギリシャ劇場。2枚目は公園の管理棟。まるでお菓子の家の様な雰囲気である。3枚目はギリシャ劇場のベンチの裏側。モザイクの中心に穴があいているのが分かるだろうか。ベンチに降った雨水はこの穴を通って外の雨どいに流れ、最終的に市場の下にある貯水槽に貯められる設計になっていた。4枚目は市場、5枚目は市場の天井にあるモザイク。そして6枚目はギリシャ劇場のベンチである。人間工学に基づいた設計とされている。自分も座って見たが、真ん中の突起の部分がちょうど腰に当たり、腰痛持ちの人には良いかもしれない。色とりどりのモザイク模様が綺麗であるが、これはガウディが陶器工場から不良品として捨てそうな陶器の破片を大量に買い付け、このモザイクを作りあげたものである。
残念ながら見ている最中に雨が降り始めてしまったが、景色は楽しめた。92番バスのバス停から降りて、上の入り口から入れば意外とバリアフリーである(一か所、階段をどうしても降りなくてはならないが)。一度見に来るに値する景色と思う。


スペイン旅行その15 グエル公園

2011-11-09 21:32:29 | 旅行(スペイン・バルセロナ2011)
お次はグエル公園(Park Güell)である。ここで事前に色々調べておいたのが功を奏した。地下鉄で行くと、公園に着くまでに多くの坂と階段を登らなくてはならないのだ。サン・パウ病院の前から92番と書かれたバスに乗れば、全く坂を登らずに公園内に入る事ができる。皆様もお試しあれ。
エウセビ・グエル(Eusebi Güell)は当時のカタルーニャにおける有数の実業家である。彼の父はキューバで富を得、これによりグエルは若くして海外留学経験を持つ教養人となった。繊維会社を父から受け継いだが、彼はこれ以外にも次々と会社を興し、更には政治の世界にも進出、最後はスペインの上院議員にもなった当時の大立者であった。ガウディにとっては最大のパトロンの一人である。1895年、彼は住宅産業にも手を広げる事を決め、バルセロナ北部の丘を買い入れる。そしてガウディに集合住宅の建設を依頼するのである。元々この丘は「モンターニャ・ペラダ(はげ山)」という名で呼ばれていた荒涼たる土地であり、ガウディはこの起伏に富んだ地形を最大限に活用しようとする。
上写真は有名なトカゲの像。下の左から1枚目は入口から見た光景である。一番上の部分が公共の広場になる筈だった場所で、「ギリシャ劇場」の名で呼ばれる。その下は市場になる筈だったらしい。起伏のある土地に家を建てるため、あちこちに支柱を作って段々畑の様に平地を作っているが、この支柱も自然の岩に見えるかの様に工夫されている。


スペイン旅行その13 サン・パウ病院

2011-11-09 20:33:05 | 旅行(スペイン・バルセロナ2011)
サグラダファミリアを見終わった後、100mかそこら歩けば別の世界遺産がある。こちらサン・パウ病院(Hospital de Sant Pau)である。ガウディのライバルとされる建築家、ドメネク・イ・モンタネール(Domènech i Montaner)の作品である。
モンタネールはバルセロナの裕福な製本業者の生まれで、若干25歳にしてバルセロナ建築学校の教授に抜擢された俊才であった。当時の教え子にガウディがいる。19世紀末のバルセロナは好景気と人口増加に湧いていた。英国にて発祥した産業革命の波はスペインでは最初にカタルーニャ地方に到来したのだ。鉄道が整備され、機械織りの導入にて繊維業者が勃興し、市街には人が流入してきた。さらに西インド諸島など、スペイン語圏の国々との砂糖の交易も莫大な富をもたらした。19世紀前半のバルセロナの地図にはゴシック地区とシウタデラ要塞しかなかったのは前述の通りであるが、その状況から一気に市街を拡張する必要に迫られていた。資本家たちは大急ぎで建築学校を作り、才能があるなら若い建築家でもどんどん起用されて行った。全てが拡張、拡大の時代であったのだ。
モンタネールの知名度は現在ではガウディに及ばないかも知れないが、それでも多くの美しい建築を残している。この病院は「芸術の力で病人を癒す」というコンセプトの元に作られた病院と言われており、イスラム様の趣向を凝らした美しい建物が並ぶ。一部は現在でも使用されている様だ。残念ながら、現在は改修工事の真っ最中であり、一部は見ることが出来ないが、それでも敷地内を歩き回る事は可能である(正面玄関から右に道なりに5分ほど歩くと入口がある)。1枚目は改修中の正面の建物。5枚目は隣接する新病院。どうやら病院の機能の多くは、今はこちらに移動している様子である。


スペイン旅行その12 サグラダファミリア

2011-11-09 18:46:56 | 旅行(スペイン・バルセロナ2011)
そして東側の「生誕のファザード」である。こちらは「受難」とは対照的に、キリストの生誕の喜びを繊細な彫刻で表している。こちらはガウディの生前に完成した唯一のファザードである。この門の端からも撮影する人は多いが、この門の側に池のある公園があるので、そちらから撮影すると綺麗に撮れる。上写真はそこからの写真である。公園にはペタンク(ボール投げゲーム)に興じる老人がたくさんいた。皆サグラダファミリアなど見向きもしない。彼らにしてみたら、生まれた時からずっとそこにある風景で、特別注意を払う物でもなんでもないのであろう。
ガウディは生涯独身のまま、晩年はこのサグラダファミリアの建設に全精力を傾けた。身なりにも一切構う事は無かったという。1924年、彼は路面で電車にはねられてしまい。74歳の生涯を閉じる。病院に運ばれた時、余りの身なりのみずぼらしさに浮浪者と間違えられたという。後継者によって工事は継続されるが、やがてスペイン内戦が勃発、ガウディが残した模型も、後継者の作った設計図もことごとく戦火の中に消えてしまった。教会そのものも酷く破壊され、戦争が終わった後に工事を継続すべきかどうかはかなり議論された様である。最終的にガウディの残したスケッチなどを元に工事は再開された。破壊された教会の再生には日本人も協力したという。建造開始から既に100年以上が過ぎたが、現在完成している塔は8本。最終的に完成する予定の塔は18本である。一時は完成まであと200年と言われた時期もあったが、現在はコンピューター技術の進歩により、あと数年で完成するのではないかとも言われている。何時の日かもう一回来て、完成した姿を見てみたいものだ。


スペイン旅行その11 サグラダファミリア

2011-11-09 15:08:10 | 旅行(スペイン・バルセロナ2011)
内部に入ってみる。数ある世界遺産の中でも、これは間違いなく見るに値するものだと思う。
「ヨーロッパのいかなる教会とも違った雰囲気」ととある旅慣れた人が言っていたが、確かにそうかも知れない。柱が上に行くにつれて枝分かれし、天井の装飾とも相まって森を見上げている様な雰囲気になっているのである。独特である。最後の3枚は教会の中心にあるキリストの磔刑像であるが、最後から2枚目が開館直後、最後が確か午前10時くらいで、最後の写真では窓から太陽光が綺麗に差しこんで像が輝いているのが分かる。ただ天気が今一つ安定せず、残念ながら屋上までのエレベーターは営業していなかった。教会の端の方に動いているエレベーターを見かけたので、職員に「このエレベーターに乗れますか?」と聞いたら「これは職員だけ」と日本語で答えが返ってきた。日本人の姿は物凄く多く、「るるぶ」を持ち歩いている人をそこら中で見かけた。
ガウディは「美は真実の輝きである」と述べており、彫像のリアリティにもこだわった。そこまでなら普通かもしれないが、何と天使の像の一部は本物の人間の骸骨を使って型どりをしたのである。また、キリストの磔刑像を制作するに当たっては現場の作業監督を裸にした上で壁一面に鏡を貼った部屋に入れ、実際に磔刑のポーズを取らせてデッサンしたという(写真が残っている)。少々変わった人物ではあったようだ。


スペイン旅行その10 サグラダファミリア

2011-11-09 14:02:55 | 旅行(スペイン・バルセロナ2011)
という訳でサグラダファミリアに到着である。幸いに8時45分くらいに着いたので、まだ行列はそんなに長くなくて済んだ。
サグラダファミリアについて少し。言わずと知れたガウディの最高傑作である。ただし元々はガウディの為のプロジェクトではなかった。この地に教会を建てたいと願ったのはバルセロナの書店主であったジュゼップ・ボカベリヤなる人物で、最初は建築家フランセスク・ビリヤールに建築が依頼された。1882年に定礎式が行われて建築がスタートしたが、翌1883年にはビリヤールと他のスタッフ(ジュアン・マルトレイ)の間に意見の相違が生じ、ビリヤール、そしてマルトレイも辞任する事態となった。かくて白羽の矢が立ったのが当時わずか31歳、全く無名であったガウディである。ガウディはマルトレイの助手として働いた経験があったのであった。ガウディは1から案を練り直し、独特の形の教会を作りあげたのである。
写真は全て西側の門、「受難のファザード」側のものである。こちらはキリストの受難を描いたもので、肉を削ぎ落とした様なシンプルな像を作り、受難の悲痛さを表しているとされる。ガウディの死後に完成した門で、反対側の「生誕のファザード」と比較すると全体に新しい。しかし大きい。上を見上げていると首が痛くなる。


スペイン旅行その9 街歩き

2011-11-09 13:18:32 | 旅行(スペイン・バルセロナ2011)
翌朝目覚めて、まず向かうはサグラダファミリア(Basilica de la Sagrada Familia)である。観光ガイドを見ると、朝早くに行かないと長蛇の列になってしまうと書かれているのだ。何といっても地中海の産んだ名建築家、アントニ・ガウディ(Antoni Gaudi)の最高傑作である。独特の形をした大聖堂は読者の皆様もどこかで写真を見た経験がある事と思う。しかしながら、サグラダファミリアに向かって歩いていると、町のあちこちで独特の建物に出くわすのである。スウェーデンにも有りそうな建物もあるが、中にはかなり変わった形の建物も珍しくない。上と下の左から最初の2枚の写真はサグラダファミリアのすぐ近くの通りにあった教会で、観光ガイドを見ても名前は書いていない。他の建物もガイドを探しても全く名前が載っていないのである。こう言うのを見ると、ガウディというのは別に突然変異で生まれた人物ではないことが分かる。こう言う建築様式が流行した時代だったのである。


スペイン旅行その8 メルカドナ

2011-11-09 12:41:16 | 旅行(スペイン・バルセロナ2011)
ベルギーでもそうだったが、旅となるとまずは現地のスーパーマーケットに行ってしまうのが慣例になってしまった。今回訪れたのはメルカドナ
Mercadona
である。近年急成長しているスーパーだそうで、大抵のものは手に入る。さっそく行ってみた。店内には「メルカ・ド~ナ♪、メルカ・ド~ナ♪」と繰り返し音楽がかかっていて、このメロディが耳にこびりつくのが若干玉にキズか。でも面白い品物が多い。

1枚目:タコのガーリックオイル漬け。少し濃いめの味付けだが美味い。何よりスウェーデンでタコを売っていないのだ。随分久しぶりにタコを食べた気がする。
2枚目:ドレッシング。salsaはソースの意味だが、店員さんに聞いたらこれは野菜にかけて食べられるという(多分、だが。相手がこちらの英語を理解していればの話)。実際に野菜を買って試してみた。粘性がかなり高いが、結構美味い。チーズ味のドレッシングである。
3枚目:プリン。甘めだがこれも美味しい。
4枚目:タコの味付けパック。キノコ・野菜と炒めてみた。このままで十分に美味しい。タコづくしである。
5枚目:牛乳。どうも低脂肪乳と思われるものと一緒に並んでいて、どちらを買うかロシアンルーレット状態であったのだが、地元の人が教えてくれた。こちらが普通の乳脂肪分の牛乳である。この方は珍しく綺麗な発音の英語をしゃべれる方であった。ラッキーである。少し濃いめの味のする牛乳である。
6枚目:トマトジュース。これもまたスウェーデン渡航後から全く見かけなかったものである。500ccのボトルで売っていた。美味い。オリーブオイルを加えているらしく、その味もトマトと混じっているがこれがまた美味い。一気に飲んでしまった。食塩入り。食塩無添加バージョンは無かった。


スペイン旅行その7 ピカソ美術館

2011-11-09 10:04:30 | 旅行(スペイン・バルセロナ2011)
美術館に辿りついた。既に夕方で雨模様であるが、それでも人の列、列である。雨の中、売人があちこち歩き回りつつ観光客に折りたたみ傘を売りつけている。ただ列が進むスピードは速く、大体30分くらいで内部に入ることが出来た。美術館は元々宮殿であった建物を改装したものらしい。高級感のある建物である。
パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)はスペイン南部マラガ(Málaga)の生まれである。父親は美術学校の教師であり、父の指導のもとで絵画を学んだ。この美術館に彼の10代の頃の作品も多数残されている。父親の肖像画、叔母の肖像画、風景画など、全く持って普通の作風である。出色の作は自分の妹を書いた「初聖体拝受」であろう。そして16歳の時、父の指導のもとで完成させたのが「科学と慈愛」
「科学と慈愛」
でこれがマドリードの美術展で選外佳作とされ、マドリードの美術学校に入学することとなった。いずれもこの美術館に収蔵されているのでご覧あれ。若き日の彼の才能を堪能できるだろう。
が、である。結局彼はマドリードの美術学校を中退してしまうのである。そしてバルセロナへ。カフェなどで若い仲間とたむろしつつ美術を語らい、少しづつ作風を変えていく。そしてパリ留学後の1901年からがらりと作風を変え、後に「青の時代」と呼ばれる様になるのである。確かにこの経歴を聞いてから「科学と慈愛」を見返すと、多少理解できなくもない。この作品は16歳の少年が考えつくようなテーマではない筈で、実質2人羽織の様なものであったのだろうと想像してしまう。やはり芸術は自分の言葉で語ってこそ芸術である。
晩年の作品群の中で収蔵されているのは「ラス・メニーナス」で、ベラスケスの有名な作品を彼流にデフォルメして書いた作品である。合計58枚もある連作である。この美術館でも部屋を1つまるまる使って展示している。
もともと宮殿であっただけに部屋も綺麗である。皆様も一度ご覧あれ。