最後、フラフラとコロニア・グエルの町を歩き回ってみる。町そのものも全てモデルニスモの建築である(ただしガウディが関与したのは教会のみ)。19世紀末の名建築の数々が見られる。ただし中に住んでいる人々は一般の人々であり、プロパンガス?か何かを搬入するトラックも見かけた。
ガイドブックによると上写真と下の左から2枚はオルダル邸、左から3枚目から5枚目まではエスピナル邸で、いずれもジョアン・ルピオー・イ・ベイルベー(Joan Rubió i Bellver)の作とある。何れも繊細なレンガの模様が際立っている。最後から2枚目は広場に立つグエルの像。最後は教区の家とあり、フランセスク・バレンゲー・イ・ベイルベイー(Francesc Berenguer i Bellvehi)の作とある。静かな町であり、ぼんやりと歩き回るには適した場所だと思う。
さて、周囲の干渉が一切なく仕事に没頭できた筈のガウディなのに、どうして教会堂の建設を途中で止めてしまったのであろうか?現在でもその明確な理由は明らかではない。ただ、1909年に発生した以下の事件が大きく関わっていた様である。
Wikipedia「悲劇の一週間」
もともとモロッコでの軍事作戦に伴う徴兵に端を発した暴動であったが、やがて反教会運動になり、教会や神学校、さらには富裕層の家などが襲撃される事態になった。この情勢ではグエルはコロニア・グエル計画への出資を一回中断せざるを得なかった。何より、当時の人々が教会というものをどう見ていたかを端的に示している事件であったと言えよう。さらにガウディ自身も健康に異常を生じ、静養を余儀なくされたりもした。彼が何を考えて判断したのたかは定かではないが、最終的に彼は全ての仕事から手を引き、サグラダファミリアの建設の仕事一つだけに人生の全てを捧げて行くのである。
この手の「兵どもが夢の跡」的な遺跡を見せられると、ちょっと感慨にふけってしまう。日本人だからであろうか。







ガイドブックによると上写真と下の左から2枚はオルダル邸、左から3枚目から5枚目まではエスピナル邸で、いずれもジョアン・ルピオー・イ・ベイルベー(Joan Rubió i Bellver)の作とある。何れも繊細なレンガの模様が際立っている。最後から2枚目は広場に立つグエルの像。最後は教区の家とあり、フランセスク・バレンゲー・イ・ベイルベイー(Francesc Berenguer i Bellvehi)の作とある。静かな町であり、ぼんやりと歩き回るには適した場所だと思う。
さて、周囲の干渉が一切なく仕事に没頭できた筈のガウディなのに、どうして教会堂の建設を途中で止めてしまったのであろうか?現在でもその明確な理由は明らかではない。ただ、1909年に発生した以下の事件が大きく関わっていた様である。
Wikipedia「悲劇の一週間」
もともとモロッコでの軍事作戦に伴う徴兵に端を発した暴動であったが、やがて反教会運動になり、教会や神学校、さらには富裕層の家などが襲撃される事態になった。この情勢ではグエルはコロニア・グエル計画への出資を一回中断せざるを得なかった。何より、当時の人々が教会というものをどう見ていたかを端的に示している事件であったと言えよう。さらにガウディ自身も健康に異常を生じ、静養を余儀なくされたりもした。彼が何を考えて判断したのたかは定かではないが、最終的に彼は全ての仕事から手を引き、サグラダファミリアの建設の仕事一つだけに人生の全てを捧げて行くのである。
この手の「兵どもが夢の跡」的な遺跡を見せられると、ちょっと感慨にふけってしまう。日本人だからであろうか。







