雨の日の今日でしたが、桜が満開でした。午前中、結構激しい雨が降っていましたが、桜たちは散ることなく、がんばって咲いてくれていました。ばあちゃんの病院に行く途中、あまりにもきれいだったので路肩に車を停めて、パチリとカメラに収めました。
雨の日の今日でしたが、桜が満開でした。午前中、結構激しい雨が降っていましたが、桜たちは散ることなく、がんばって咲いてくれていました。ばあちゃんの病院に行く途中、あまりにもきれいだったので路肩に車を停めて、パチリとカメラに収めました。
お彼岸の昨日は朝からじいちゃんとふたりで吹田のお墓にお参りに行きました。いつものことですが、車中ではじいちゃんの昔話の独演会状態。わたしはほとんど聞き手です。それでじいちゃんは大満足してくれているのでしょう。
11時ごろ帰宅できたので、引き続いて地元のお墓参りをしげも連れて行くことにしました。朝から散歩に出れるしげはもう興奮状態で、リードを引っ張るまくり‘ハーハー‘の息遣いで歩いていました。引っ張るしげは低姿勢状態で、うしろから見ているわたしは、まるでイグアナが歩いているようでおかしくて仕方がありませんでした。
ふたつのお墓参りをして、結構な距離(3㎞)を歩きました。最初は元気に引っ張っていたしげですが、後半はやはり疲れをみせていました。最初は寒かったのですが長い距離を歩いていると、だんだんと温かくなってきて、着ていた上着を脱ぎました。
夜は富赤人権推事務局の飲み会に参加しました。城南人権推の議長の娘婿さんがしているお店に行きました。結構生ものも新鮮でおいしくいただき、これからも行くことになりそうです。夜は春間近にしては、とても寒かったので、わたしは熱燗にしました。おいしく頂く中、結構飲んだようで帰りはふらふら状態でした。
家に帰った後、リビングのソファーに座ったまま1時間半ほど寝てました。起きて左手に痛みを感じ確認すると擦り傷が・・・きっとどこかでこけたのか?ぶつかったのか?今朝起きても体がだるくて頭はボーっとしていました。
そんな中、朝からばあちゃんの病院に息病院のリハビリの先生とカウンセラーと3人で、ばあちゃんの今後の話を聞いてきました。マスクをしていたわたしですが、きっと酒臭かっただろうと気を遣いながら話していたわたしでした。
そうそう、春が来たといえば、次男が結婚をすることになりました。付き合ってもう数年になるようですが、この3月27日に入籍をして11月ごろに挙式の予定のようです。先週他界したお姉にも紹介していて、挙式には参列するとがんばっていたのですが、残念な結果になりました。
話付きの次男をやさしく包みこんでくれるような女性です。末永くいい家庭を築いてほしいと願っています。おめでとう!
お姉の告別式を終えました。昨夜は通夜をした後、じいちゃんたちを送ってから式場に戻ったわたしと次男。式場で甥っ子(お姉の長男)と3人で泊まりました。久ぶりに深夜まで、お姉のことをはじめ、むかしの話に華をさかせました。
今朝、次男とふたりでじいちゃんたちを迎えに行き、告別式に参列しました。最後の別れの時はさすがに悲しみに包まれました。わたしはお姉の顔をみながら「よくがんばったな。おかあさんやおあばちゃんと一緒に過ごせるな」と心の中で語りました。この3日でわたしは西宮と自宅を6往復ほどしました。さすがに疲れてしまい、からだはへとへと状態です。
これからまだまだ整理しないといけないことがあり、大変だと思います。それにしても、昨夜次男のいびきと甥っ子の歯ぎしりに悩まされました。そのことを次男に伝えると、最初に寝付いたわたしが先にいびきをかいていたようでした。みんないっしょや(笑)
今朝、5時に携帯がなりました。電話は姪っ子で入院していたお姉が危篤ということでした。容態は今年に入って芳しくない状態でした。主治医からは今週末が山場であると言われ、13日にじいちゃんや子どもたちみんなで会いに行きました。
そのとき、しんどくしていたお姉でしたが、みんなと会話することができました。わたしは甥っ子に「これまでがんばってきたんやから、もうがんばらさなくてもいい」と話すと甥っ子もそう思っていました。
お姉は19年前に難病としていされている膠原病を発症して以来、どんなことにもめげることなく、前向きに病気と闘ってきました。しかし、年々膠原病はお姉のからだを確実に弱らせていきました。
お姉は3年前、胆のうがんが見つかり、12時間もの大手術にも耐え、からだの中にチューブを4本も入れ命をつないでいました。チューブを外に出して排出袋をカバンに入れた生活が続いていました。
ここ数年は入退院を繰り返して辛い生活を余儀なくされました。それでも、「生きたい、孫と一緒にいたい、何々したい」と目標をかかげてがんばってきました。
午前6時前に病院に着いたわたしが、病室に入ると姪っ子がお姉のそばにいました。お姉は昏睡状態でしたがしっかりと息をしてくれていました。午前7時半ごろ、病室にお医者さんと看護師さんが入ってくると「もうすぐ逝かれるようです。心臓も呼吸もほとんど確認できない状態です」と言いました。そして、7時32分お姉は静かに息を引き取りました。
わたしは「本当にこれまで、よくがんばったな。お疲れさま!」とお姉に伝えました。最期は苦しむことなく静かに息を引き取ってくれました。しかし、辛かったことでしょう。もっともっと長生きしたかったことでしょう。
その後、病室に主治医をはじめたくさんの看護師さんたちが、訪問してくれました。みなさんはお姉に「よくがんばってね」と口にしてくれました。ひとりの看護師さんは「この前、お姉さんはこんなしんどいからだでも、元気になったら手話を習いたい!少しでも社会の役に立ちたい」と言っていたと教えてくれました。
膠原病を発症して少したったときも、市の子育てサポート登録をして、子育て支援をしていたことを思い出しました。常に前向きなお姉がそこにいました。身内を褒めることになりますが、あの前向きさには頭がさがるばかりです。
病院を出る前たくさんの医師や看護師さんに見送っていただきました。明日明後日、西宮市でお姉を見送らなければなりません。本当の最後の別れになります。お姉とは7つ違いのわたし。幼少の頃は姉というより母親のような感覚でした。わたしが子どもをもうけて、その年齢差が縮まった感じで話せたのも事実でした。
精一杯がんばって生き抜いたお姉ですが、お医者さんや看護師さんの前で泣いていたことも聞きました。でも、負けずに闘っていたようです。
ありがとう!
今日の午後3時にばあちゃんの介護申請の面接が病院でありました。行政の方とばあちゃん、そしてわたしが会いました。職員の方がばあちゃんに名前と誕生日を聞かれました。するとばあちゃんはスラスラと答え、わたしは心の中で’アチャー’と・・・
89歳にしてはスムーズに答えたことに驚かれたようです。その後いくつかの質問に答えたばあちゃん。その後、わたしと職員の方と2人で入院の経過等を調査。今月末までには介護の認定結果が出るようです。退院した後の生活がどうなるのかが心配です。
夕方、久しぶりに入院しているばあちゃんに会ってきました。ここ数日、仕事で面会時間に間に合わず顔を見に行くことができませんでした。そのあいだは、じいちゃんが洗濯物の替えを持って行ってくれていました。
今日、ばあちゃんは顔色もよくテレビも見る意欲も出ていました。(1月中旬に入院して以来、はじめてのこと) また、病院食に対して美味しくないという文句も口にして、食べたいものの名前も話していました。リハビリも順調のようです。
退院しても生活では介護の支援が必要と考えているわたしは、介護保険の申請をしています。近々、市の職員が病院に来られて審査されるようです。今、病院では歩行機を使ってできるだけトイレに行ったりして、ばあちゃんはがんばっているようです。
以前のように体調が戻り近くのスーパーに買い物が行ければと回復を望んでいます。日々、がんばってくれているばあちゃんです!
晩御飯時、おくれおくれ~とわんわんと吠えているしげ。わたしにダメと言われて、ふて寝をしています。
しげの目が物語ってるでしょう(笑)
今年度、最後の富赤人権推の取組となる「早春ふれ愛トーク」が開催されました。今年の演題は近年増加し続けており、また低年齢化してきている「認知症等」をテーマに藍野病院の杉野先生を招いて講演してもらいました。開催時間の10時には会場は満席状態になりました。
例年以上に問い合わせがあったようで、このテーマへの関心が伺えます。ふれ愛とーくでは、まずこの数年前から出ていただいている河野みゆきさんのピアノ演奏からはじまりました。今回の曲は「四季の歌」「なごり雪」「浜辺の歌」の3曲を美しい音色で、参加者を魅了してくれました。
その後、杉野先生がプレゼンで「物忘れが気になったら」-認知症の早期発見・早期治療-を演題に話してくれました。講演では、認知症の現状や対応などを詳細にわかりやすく話してくれました。特に認知症者への差別意識の実態などもあり、認知症はすべての知性や人格が損なわれるのではなく、まわりが認知症を理解することが必要であると話されていました。
また、認知症者への対策は地域で対応する体制をつくること、「こころのバリアフリー」が地域に求められていることなどが提案されました。認知症は他人事でなく、誰もがなりうるものであることと受けとめ、何をどうするのかなどをしっかりと考えなければならないと感じました。
今回の参加者は126名であり、このテーマの関心度を感じることができました。