その商品が今日の夜に届きました。早速組み立てたわたしは試運転をすると、しげが大騒ぎ!なぜなら、しげは、大の掃除機嫌い(笑)
しかし、パワーはマックスで吸引力が凄い掃除機でした。これから、しげの抜けた毛に悩むこともありません。ただ、しげにとっては大きな悩みかもしれません。
20日の昨日は「人権ネットワーク」から「タウンスペースWAKWAK」へ20周年イベントに参加しました。オープニングでわたしと女性3人でWAKWAKバンドを結成し、その当時につくった曲「ひとりじゃないでこの街は」「つなげ平和の声を」の2曲を披露しました。
前日の練習までは、もう1曲中島みゆきの「糸」を演奏する予定でしたが、コード合わせが不調で、その曲を断念することにしました。この曲は次の機会に必ず披露することにしました(笑)その他、子どもたちは紙芝居、おとなは映画と楽しく集うことができました。
21日の日曜日は朝から掃除をしました。掃除機の大嫌いなしげは、掃除機から避難するためにソファーのうえで、つまらなさそうに様子を伺っていました。
かわしそうにおもったわたしは、バルコニーでプールに水を張り水遊びをさせました。水を溜まるのを楽しみにしていたしげでした。
夜にはおきまりのお風呂に入れられたしげは、疲れてしまって早々に横になっていました。
夜遅く病院から自宅へ搬送された義理母。「ばあちゃんが帰ってきたよ。」「おかえり。」涙を流しながらばあちゃんを迎え入れていました。 その夜、兄弟姉妹、孫たちでばあちゃんと一緒に過ごしました。長い夜でしたが、みんなでばあちゃんを振り返り偲ぶことができました。あくる日、ばあちゃんから生前に聞いていたとおりに、お葬式や遺影などを整うことにしました。
あいにく、火葬場の都合で、ばあちゃんはもう一日自宅で過ごすことになりました。わたしたちは二日連続で自宅で夜を過ごしました。今、考えると通夜と告別式が一日伸びたことによって、義理母は本来なら元気で帰ることのできたはずの自宅にいることができてよかったように思います。
ただ、元気に帰ってくると本人もわたしたちも思っていたので、義理母の死はほんとうにショックでいいようのないものです。
16日のお昼に式場へ移された義理母。みんなも一緒にその式場へ行きました。そして、義理母のために湯灌をお願いしました。義理母は目の前で髪の毛から全身きれいに洗ってもらい、ほんとうに気持ちよくみえました。生前でもしてもらったことのないオイルマッサージもしてもらいました。
そして、その夜、家族だけの通夜をしました。そのような中、義理母の仲のよかった人たちも集まってくれました。参列してくれた人たちは、心から義理母を惜しむ声を聞かせてくれました。無事に通夜を終えて、わたしたちはばあちゃんとの最後の夜をみんなで迎えました。兄弟姉妹と孫たちはワイワイと明るくその夜を過ごしました。
一緒の部屋で横たわっているばあちゃんの顔をのぞくと、嬉しそうな表情を浮かべているようにも見えました。悔いを残して逝ってしまった義理母ですが、この時ばかりは一緒に楽しんでくれたように思いました。
翌日の17日家族葬を執り行いました。最後のお別れのときは、さすがに大泣きでなかなか別れることができない状態でした。本当に辛かったです!悲しみと同時に悔しさが込み上げていました。
妹もつれあいも「おかあさん、おかあさん、なんで、なんで。」と訴えていました。
そして、お葬式を終えて火葬場へ行きました。2時間後、お骨を持帰りお墓に入れてすべてが終わりました。
お葬式で棺に巻く帯にみんなで添え書きをしました。ばあちゃんへのそれぞれの思いをしっかりと書き込むことができました。
今回、みんなが同じように感じたことが、病院で容態を見守っている時間はすごく早く感じ、亡くなってから葬儀までがほんとうに長く感じました。これはどういうことなのか、不思議で仕方がありません。
義理母が突然の死を迎え、ほとんどの人に知らせていなくて、後日知った人たちから驚きの声をたくさん聞きました。親族のわたしたちが予期せぬ出来事で驚いているのですから、知った人たちはそれ以上なのでしょうね。わたしたちもそうですが、多くの人たちは「この2~3日前に、1週間前に元気な姿で楽しく会話をしていたのに、なんで・・・」と言ってくれました。
今回、わたしたちはばあちゃんの死には納得していません。そういう意味では、ばあちゃんが検査入院でなぜ死ななければならなかったのかを求めたいと思っています。当然、わたしたちには知る権利があり、検査した病院には説明する義務があると思っています。
悔いの残る義理母の死ですが、前を向いて受け入れなければならないことは、みんなが思っていることです!
突然、義理母が逝きました。
6月14日午後9時47分
それは・・・
ちょうど一週間前の今日、わたしとつれあいはばあちゃんが腸閉塞の検査のために1日入院するということを知り、自宅を訪問しました。そのとき、ばあちゃんは、「1日だけの検査、あんまり行きたくはないけど、まあ、行ってくるわ。」「まるた(飼い犬)のことも、気になるから早く検査を終えて帰ってくるわ。」と元気そうに話していました。
そして、あくる日の6月11日(木)に義理母は入院したようです。12日(金)わたしはいつものように出勤して仕事をしていると、つれあいからの電話が入りました。「ばあちゃんが危篤って。」わたしは耳を疑いました。すぐに休暇を取り病院に・・・その病院は義理母が入院した病院ではなく、転移した病院でした。
あわてて病院に駆けつけると、すでに義理妹と姪っ子がばあちゃんの処置を待っていました。義理妹に事情を聞くと、昨晩検査入院していた病院で、下剤を飲まされ、腸閉塞のためにその下剤を戻したようです。その戻したものが肺に入り込み、肺に水が溜まったということです。
その結果、血圧が急激に低下して、処置のために転移しようにもできない状態であったようです。血圧を点滴で無理やり上昇させ、結局転移したようです。転移した病院で検査や応急措置がされ、そのときの義理母はすでに酸素マスクを装着された状態でした。わたしたちはどうしてこんなことになったのかが理解することができませんでした。その後、ICUで処置されました。義理母の全身にはたくさんの点滴の針がささり、酸素マスクだけでなく口からは送気用の管が入れられ痛々しいものでした。
わたしたちは、なんでー!どういうこと!という言葉しか出てきませんでした。
主治医に容態を聞き、わたしたちは呆然としました。しかし、しかし、そのような状況でも、わたしたちは義理母は絶対にもとの通りになる!と信じていました。
その日から、朝から夜まで兄弟姉妹と孫たちとばあちゃんの回復を祈り、ICUの待合室に通い続けました。しかし、12日(金)の夜、急激に血圧が下がり心停止状態になりました。そのときの応急措置で何とか回復をしましたが・・・主治医に話では色々と手を施しているが、あと1日2日であると辛い現実を突き付けられました。
その後、14日(日)の午後7時までみんなで見守っていましたが、いったん明日に備えようとわたしたちは解散しました。わたしは自宅でくつろいでいたとき病院から電話がありました。大急ぎでわたしは病院に駆けつけると、義理母はすでに亡くなっていました。最後に病院についた義理弟(ばあちゃんの実長男)を待って、医師から死亡が確認されました。
2015年6月14日(日)午後9時47分 義理母逝去。