皮膚呼吸しか知らない蛙

アスペルガー症候群当事者が、2次障害に溺れることもありながら社会に適応していく道のりを綴っていきます。

堕落と安心とシンクロニシティ

2009-10-26 22:51:50 | 認知の歪み

ここ最近めまぐるしく自分をとりまく環境が変化している。

これはワタシ自身の力などおよびもしないところでの出来事もそうなのだが、ワタシ自身に内在する何かが一時期より急速に変容しようとしているのだと思う。
ワタシはワタシの身の回りにある出来事に感情を揺さぶられ、思考し、日々過ごしている。ワタシを取り巻く世界は、実際には殆ど変わりのない世界なのだろう。

意識が切り取る世界は、ワタシの内面に影響されそれが投影されたかなり自己中な世界である。

ワタシはチキンちゃんなので、ちょっとしたことにも狼狽える。
体調悪いとかなりすぐにテンパる。
それを差し引いたとしても、ちょっと私的難問が山積していたりする。

最近起こったワタシを取り巻く種主雑多な出来事については、後日整理がついたら書いてみたいと思う。

そんなこんながあっても、まあ明日もワタシはワタシで、お日様はお日様で、地球はやっぱり廻っているし、ワタシ自身もワタシの生活を営んでいるだろう。
それが、生きているということなのだろう、と最近実感するようになってきた。


さて、前置きはこれくらいにして。
ワタシ、医療機関で自閉症だか、アスペルガー症候群だか、発達障害だかと診断されてかれこれ一年とちょっとだったりする。ピーピー鳴いてるひよっ子である。

その間に、講演会の講師の依頼(なんでワタシなんぞに???)なんかをお受けしたりして、かなり戸惑ったりしたが、とても良い勉強をさせて貰えたりした。
「成人当事者の親の会」系のところでお話しさせて頂く機会があったときには、本当に色んな事を感じさせて貰えた。

立場は似ておれど、ヒトは皆捉え方が異なる。
ワタシはその場に来られた方が気持ちよく帰って貰えたらいいなあ、と思って専門機関の方々とどういう話をするか詰めさせてもらったのだが、やっぱりヒトが欲するモノは多種多様である。
ただ、ワタシ個人の受けた率直な印象として、「成人になった我が子に(+伴侶に)振り回されて、疲れ果てている」。という方々が圧倒的に多いというのは実感した。
それはそうだろうと思う。
「より一層勉強したいと思います」なんて言われちゃうと、正直参ってしまう。
出来れば自分自身が楽しんで欲しいというのがワタシの一貫した主張だったりする。
安定が安定を産む、安定連鎖。


ワタシ自身、ワタシという個体に振り回され、ワタシもそういうところに行くと一当事者と呼ばれるような立場であると同時に、その家族でもあったりする。
ワタシ自身が周囲を振り回しているのと同様に、肉親に振り回されているという側面も併せ持っている。

ワタシの家系や家族のこと、ワタシ自身に起こった出来事は、機会があればどこかで書いてみようとも思うのだが、書いてしまうとどこかのタレントさんが執筆されているような「暴露本」的内容にもなるだろうし、その業を自ら背負うことにもなる。

マスターベーション的に自己満足全開で書いてしまってもいいのだが、語る場を考えていければいいなと思っている。


今現在、ワタシ個人はワタシ自身のことを発達障害者とあまり認知していない。
それは疾病として発達障害というモノが存在するのかどうか、という部分でもかなりしっくりとこないという面もある。
突っこんで書くにはブログはあまり適切な媒体ではない、という意識がありかなりお茶を濁しているが、個人的に、発達障害と呼ばれているモノと、自閉症と呼ばれているモノと、Hans AspergerLeo Kannerが記した AutismusAutistic Disturbances にはかなり開きがあると個人的に妄想している。

ただ、現在悩み、試行錯誤し、我が子に、伴侶に、親に、肉親に、恋人に、友人に、より良い接し方を模索するという対処的行為に対して有効な情報や専門的対処法などは一定の範囲で役立っているとは思うし、それらを手放しに肯定や否定などはしたくない。


ただ、ワタシ個人においては障害ではないな、と思っている。
確かに日常生活を送る上で、結構困っていることは沢山ある。
今後も壁にぶち当たるだろう。
ただし、ワタシの中ではやはりイキモノの発達は凹凸があって当然であり、凸と凹のかみ合わせで苦労もすることもあれば、上手くいくこともある。
そんなことでは済まないから、○○障害って言われてるんだろー、って言われればそれも最もなことなのだが、イキモノは凸と凹を自分なりの方法で摺り合わせて調和していくものなのだろう、と思ったりなんかする。まあ、障害なんて言わずに凸凹特性とかって名前にしときたい。


こんなこと書いてて、ワタシ医療機関的には対話を重ねるに連れ「発達障害者」って太鼓判を押されたりなんかしているのだが、ワタシは今までの人生における自分自身の圧倒的な経験値不足と、著しい特異性は納得しているが、それが疾病かと問われるとそうではないだろうと妄想している(まあ、精神疾患方面を加味してビョーキなヒトというのは納得できるが)。


ちょっと話は飛んでしまうが、ワタシは結構堕落したヒトである。
かなり弱っちいし、結構現実逃避する。何かにどっぷり依存もするし、脆い。
蚤の心臓、硝子のハート。
弱者とは思いたくないが、社会的弱者であるということを盾にしたいと思ったりする浅ましいところがあったり、自分が勝手に考える弱者と比較して自尊心を維持しているような部分もある。
どこぞのお偉いセンセーの堕落論的典型の、ヒトは堕落するが、底をみせられる程自堕落になりきれないチュート半端なヒトだったりする。

ありのままに生きるということは、自分の弱さを知ることから始まる、というのは最近特に思うことである。
自分の弱さを知ると、自分に対して寛容になれる。それはヒトに対しても寛容になれることを意味するのではないのかな?
弱くて脆くてどうしようもないから、それを前提に何かをやってみる。それは社会とか一般的とかに無理矢理合わせようとするのではなく、どうしようもないんだからそこからはじめて行く。それが今の環境で通用しなかったら、場所を探すなり自分で作っちゃうなり。そういうのが努力だと思う。

ヒトは弱いからこそ、ヒトとの繋がりを大切にする。
補い合って生きていくというのは集団における原則であり、そのためにコミュニケーションをする。コミュニケーションが苦手だからできないではなく、苦手なりに工夫する。相手をみて、周りを見て、個人に、集団に、社会に、自然に、地球に、宇宙に溶け込む。

ヒトも万物も蜘蛛の糸のように繋がり調和している。
個体の発する波長が、世界を形成する様々な波長と干渉し、増幅し、無限の連鎖を形作る。
周波数が重なった時、ヒトはシンクロニシティを体験する。
それは対ヒトに限らず、森羅万象全てに共通していることだと思う。

ヒトは「安心」というものに包まれた時、ありのままの姿でシンクロニシティを体験できるのだと思う。

その状態は自然界における“自然”に近づく道標だと妄想する。
ワタシの調和の理想像は人工物を含めた世界との調和と、大自然への畏怖とともにその大きな胎盤の中で包まれるような感覚だったりする。

 

あ・・・gremzにカボチャが舞ってる。なんかコープス・ブライドとか、ナイトメア・ビフォア・クリスマスを想起しちゃうのはワタシだけだろうか・・・



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