北風さんと太陽さんは、おんなじ目的を持っていたりするらしい。
ヒトのコートを脱がせようと各々作戦を練っている。
北風さんは、自分の特技を生かしてコートをはぎ取ろうとする。
ヒトは、その風に飛ばされまいと返ってコートに執着する(寒いのやだし)。
この出来事は、太陽さんにとっては有り難かったりする。
そもそも北風さんのような存在がいなければ、コートなんて必要なかったりする。
太陽さんが幅をきかせている世界は、常夏だったりするものである。
太陽さんは、自分の特技を生かしてコートを脱がそうとする。
ヒトは、欲求に正直だったりするもんで、暑いのやだからコートを脱いだりする。
なるほど、太陽さんのほうが“いいやりかた”をしているみたいに見える。
でもちょっと考えてみると、大して違いはなかったりする。
どちらも、ヒトがコートを着たいか脱ぎたいか、“そのヒトの気持ち”を考えてなかったりする。
そこにあるのは、ただ“どちらの方法が正しいか”という自己満足だけだったりする。
そういう意味でも、似たもの同士だったりする。
こういうことは、往々にして起こっているらしい。
太陽さんが幅をきかせている世界では、
子どもを車に寝かせておいたら、大問題になってしまう。
早明浦ダムの貯水率は常に0%になり、トイレの水も流せなかったりする。
北風さんが幅をきかせている世界では、
500円の傘は役立たずだったりする。
スカートをはいていたら、常に“マリリン・モンローの七年目の浮気”的世界だったりする。
これは、自然だったりするから、“しゃあないなあ”で済まされることだったりするわけだが、
ヒトがやってしまうと、“傲慢というもの”に見えたりするらしい。
北風さんも太陽さんもお互いの存在で成り立っていたりする。
ヒトの事情とは関係のない世界で
ヒトにはヒトの事情があったりする。
そういうことを考えることは、なかなかムズカシイらしい。
なので“ふつう”というのがあったりする。
“ふつう”という領域で、ヒトに迷惑をかけなければ、“ふつう”という領域を踏み外してもいいらしい。
しかしそれはかなり難易度の高いテクニックだったりする。
ワタシのような凡人は、“ふつう”という着ぐるみ コートを被ることでさえヒーヒー言っていたりする。
そのヒーヒーを一生するのと、裸で“へんじん”と呼ばれ続けるのと、どちらが幸せだろうか?
選択肢が2つしかないと思ってしまう世界から、抜け出してしまってもいいような気がする。
抜け出した世界も、何一つ変わらない世界だったりすると思う。
こんばんは。
文章から何かを感じて下さるのはとても嬉しいです。
自分自身で納得のいく作品ができますように。
大学で美術を学んでいます。
今、あなたのこの日記と殆ど同じ考えで作品を制作しています。
いろいろ、考えがまとまらず行き詰まっていたときにこの日記を読んで、なんだかとても気持ちの整理がつきました。
それが嬉しくてついコメントしてしまいました。
北風も太陽もお互いの存在のおかげで成り立っている。本当にそのとおりだと思います。
この日記に会えてよかったです。
ありがとうございました。