皮膚呼吸しか知らない蛙

アスペルガー症候群当事者が、2次障害に溺れることもありながら社会に適応していく道のりを綴っていきます。

二人のオーストリア人から始まった世界

2009-06-02 03:32:31 | アスペルガー症候群

日本で今日、様々な呼び名が氾濫している“広汎性発達障害”の概念は、研究者の研究領域、文化圏の相違、学術的持論の違い、教育者と臨床家、心理学者などの立場の違いによっても考え方が異なるが故に様々な用語が使われているのだと思います。


現在この分野のパイオニア的人物とされるローナ・ウィング女史やエリック・ショプラー氏、ウタ・フリス氏や日本の各専門家の先生方の中でも、皆さんそれぞれに異なる見解をお持ちだろうと思います。
自閉症、自閉性障害、自閉傾向・・・皆さん巧みに言語を使い分けておられますが、ワタシは恣意的に言葉を選んでいると感じています。
カナータイプやアスペルガータイプが自閉症の範疇に入るのか、独立した存在なのかも議論がなされ、専門家諸氏の間で意見は分かれていると思います。

ワタシ個人が現時点で感じているのは、アスペルガー症候群≠自閉症。
但し、ワタシを視てみると自閉傾向はバリバリです。
ワタシの意識を構成する、知性、道徳、意思はどう転んでも独特であり、それらから派生する認知、諸能力、行動特性はハンス・アスペルガーが記した彼の残した書籍中の人物たちにとても似ています(ここにはワタシの主観と医療従事者の客観が入ります)。
一方、レオ・カナーが記した彼の元に集った人物たちの人物像には、少なからず違和感を感じていたりします。


今回は児童精神科領域での先駆者2人に焦点を当てて、現時点で個人的感じていることを書いてみます。

レオ・カナーLeo Kanner1894年6月13日 - 1981年4月4日
オーストリア出身。ユダヤ系人種。ベルリン大学で学業に専念中に第一次世界大戦に従軍。
1924年米国移住。アメリカ合衆国ではじめて児童精神科医を標榜。
1943年発表の
「情動的交流の自閉的障害」("Autistic Disturbances of Affective Contact")は自閉症研究者に多大の影響を与える。
<Wikipedia  レオ・カナー より引用抜粋>

ハンス・アスペルガーHans Asperger1906年2月18日 - 1980年10月21日
オーストリア出身。ゲルマン系人種。ウィーン大学病院で小児科医として勤務。治療教育部門の責任者になり、「自閉性精神病質」の子どもに傾倒。
第二次世界大戦前にドイツとオーストリアが合併。
ナチスの優性政策や安楽死に関わる問題にかなり配慮し、「自閉性精神病質」の子ども達が決してそのようなガス室おくりの対象にならないように切々と訴えかけ、社会的に問題を起こすも知的には優れた精神病質であって精神病ではないこと、こだわりを生かせて有能さを発揮できれば就労可能であることを強調していたようです。 
ハンス・アスペルガー自身も子供の頃、彼の名に因んだまさにその状態の特徴を現していた。彼は人と距離を置いた孤独な子供で、友人を作ることが困難だったと述べている。彼には語学の才能があり、とりわけドイツ語の詩人、フランツ・グリルパルツァー(Franz Grillparzer)に興味を持っていた。
「Asperger, H. (1944), Die 'Autistischen Psychopathen' im Kindesalter, Archiv fur Psychiatrie und Nervenkrankheiten, 117, pp.76-136. 」は今日もなお名著としてしばしば引用される。
<Wikipedia  ハンス・アスペルガー より引用抜粋>


当時のオーストリア・ハンガリー帝国は帝国の衰退、多民族同士の軋轢、サラエボ事件、第一次大戦の引き金、ハプスブルグ家の崩壊、ヒトラー台頭によるドイツへの吸収合併と、激動の世界史の中枢をなしていました。
同世代には、精神分析の大家:ジークムンド・フロイト、哲学者:ルードビッヒ・ヴィドゲンシュタインなどもウィーンに生をうけ、環境に社会に多大な影響を受けていたと想像されます。

彼らが生きた時代に生きたヒトの受けた影響は、混沌とした社会情勢に少なからず関連があるだろうと個人的に思っています。
歴史の転換点であり、安定した秩序形成が希薄な社会におけるヒトの内的・外的影響は少なからずあっただろうと。


現代の日本を見渡すと量的には異なるとは思いますが、急激な社会変容の中である種似通った質的類似性があるように感じています。
カナーはアメリカという土壌で“自閉的障害”を研究し、一方アスペルガーはナチス政権下のオーストリアで“自閉性精神病質”の研究に携わった。
今の日本を考えたトキ、戦前・戦中・戦後の混乱期の日本的軍国主義下での“自閉性精神病質”とアメリカ式民主主義を賞賛する最近の世情における“自閉性障害”が混同して同一視されている節があるようにも感じます。

日本の情勢はここ数十年で劇的に変容しています。が、こと自閉症周辺事情に関しては、一元論的に語られている節が見受けられるというのは少し???なところを感じます。

全くもって素人の浅はかな直感ですが、現役を退こうとする年代のヒトの持つ問題と、壮年期の当事者の問題と、子ども達の持つ問題は、全く質的に異なるものではないかと感じています。


脳科学や神経領域の研究が進み、生理学分野の画期的研究が今後出てくる事も大いにあると思いますが、ワタシは20世紀初頭にアンリ=ルイ・ベルクソンHenri-Louis Bergson, 1859年10月18日 - 1941年1月4日)が自身の講義で述べていた様な人間の知覚に関する論証と定義、証明が、この領域における突破口になるのではないかと、密かに思っていたりします(これが今のワタシの最大の研究テーマだったりします)。

ワタシ個人は、その国、その時代、その文化によって実は問題点や対処、政策や解決法はだいぶ異なるのではないかと思っています。
生理学的素因、疾病分類は世界共通ではないか、と方々からご指摘を受けるだろう(叩かれるかな?)と思いますが、こと対処という観点に関しては日本的方法というものを構築する必要があると思っています。

長くなりましたが、その鍵を握るのは2人のオーストリア人の残した業績をもう一度精査することが重要なような気がします。



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