ワタシは、Simon baron-Cohenの原著も、訳著「自閉症とマインドブラインドネス」も、
Premack D, Woodruff G (1978). “Does the chimpanzee have a theory of mind?”. も、その他『心の理論』に関連する論文、書籍等、全く読んだことがありませんので、ここに書いていることは、全く持って見当はずれであることも大いにあると思っています。
また、自閉症周辺に関する考えも、独自の見解を構築しつつありますので、決して的を射ているとは思っていません。
ただ、ワタシの経験上、考察する対象がある場合、全く異なる分野から切り取るコトが時には要求されることもある、との考えからこのブログのような妄想劇場を展開しています。真意は別のところにありますが、今回は“サリーとアン課題”について考察してみます。
サリーとアン課題
- サリーとアンが、部屋で一緒に遊んでいました。
- サリーはボールを、かごの中に入れて部屋を出て行きました。
- サリーがいない間に、アンがボールを別の箱の中に移しました。
- サリーが部屋に戻ってきました。
- 「サリーはボールを取り出そうと、最初にどこを探すでしょう?」と被験者に質問する。
正解は「かごの中」だが、心の理論の発達が遅れている場合は、「箱」と答える。
<Wikipedia 「心の理論」より引用>
まずここで出題されているのは、私(主体)が一対一の関係における他者(客体)の思考・判断・知覚・感情・意思を類推することを要求していないことに着目してみます。
あくまで第三者同士の行動を視覚的に認知し、両者の行動を連続的に把握できているかどうかを試されているテストであると思います。
客体としての立場で、主体(サリー)の行動を類推することを要求されているに過ぎない。
正解は「かごの中」。果たしてそうだろうか?
Wikipediaによると、『心の理論』とは、他者の心の動きを類推したり、他者が自分とは違う信念を持っているということを理解したりする機能のことである、と述べている。
思考、判断、知覚、感情、意志を類推する場合、サリーが戻ってきた時に、アンはその場にいたのでしょうか?
仮にいたとする場合、サリーはアンの常日頃の行動形態を類推することも要素として含まれます。
また、サリーはかごの中に入れたからといって、自分がいない間に必ずしも同じ場所にはないというコトは、現実として起こりうるコトであり、日常生活で比較的体験するコトだと感じます。
例えば、4歳から10歳対象ですので、自分のお気に入りのおもちゃを、机の上に置いておいたとします。
母親が毎回片づけているとしたら、彼はおもちゃを探す以前に“片づけられている場所”に向かうコトが習慣づけられるコトもある。
一種の予定調和が成立する場面である。
最も単純なる回答は“かご自体を探す”であったりもする。
上記に述べた2つの事例は、行動予測の範疇でしかない。
そこには、「思考」「判断」はあっても「知覚」「感情」「意志」の類推は存在しない。
ヒトは主体で物事を視る(視覚認知とは異なる)とき、主体の思考・判断・知覚・感情・意思と、その場に起こりうる出来事を、経験による分析によって多面的に類推する。
サリーがアンの存在に全く気付かなかった場合は、客体の思考・判断・知覚・感情・意思は、自分の意志決定からは除外される。
そこには本来の目的とされる、他者(客体)の思考・判断・知覚・感情・意思を類推することは要求されていない。
モンダイは、正解は「かごの中」と決めつけてしまうコトや、心の理論の発達が遅れている場合は「箱」と答える、と決めつけてしまうコトではないだろうか?
仮にアンの感情や意思を汲み取っていたら、主体であっても経験上「箱」と答えることも理にかなっている。それが別の部分にモンダイがあるというヒトもでてくるだろうが、「心の理論」が未発達な訳ではないことは明白な事実だと思う。
この課題は、設問者の意図を汲み取るという教育でよく使われるジョウシキの範疇に晒されており、正解することがえらいとの誤解も生じさせると思う。
ヒトが課題に取り組む時、設問者の意図の範疇で踊る必要はドコにもない。
もう少し厳密にいうなら、この手の課題には、出題者の意図と検査者の意図を汲み取ることが要求されている。
検査者が出題者の意図を読み間違えていた場合、課題に回答するにあたっては、出題者の意図ではなく検査者の意図を読むことが要求される。
ヒトは生まれ落ちた時から、退化する要素も持っていると思う。
それは設問者の意図を読むことや、正解を導き出すジョウシキに囚われることによって捨て去る能力でもあると思う。
ワタシは、それをファンタジーとまでは言わないが、大人の物差しでは測りえない世界を発達が遅れていると解釈するのは、大人の狭い了見だったりすることもある。
この課題はあくまで、挿絵を見て他人同士の行動を類推しているに過ぎない。
それは、社会的認知における相互的配信とも、視線を追う行動とも異なる。
他者の意図や感情を読むことも必要かも知れないが、それは相手の立場に自分自身として立ってみるのではなく、相手はあくまで自分とは異なる思考、判断、知覚、感情、意志を有し、その上で相手がどう思うかを考え・感じることが、他者が自分とは違う信念を持っているということを理解したりする機能のことである、と思う。
「a theory of mind」を日本風にいうと「一般的傾向と対策」に近いような気がする。
記事を読ませていただいて、とてもうれしく感じました!(やっとこさ、頭の中で整理できたような・・・)
事実だけ書きます。
私が「サリーとアン」の問題をやってみたときには、これは「心の理論」テストだと知っていた。だからそれを踏まえて解く事ができた。(ただし、文字だけでは少し辛かったです)
息子が、この問題(四コマ漫画風に描いてありました)を簡単に解いたときに言った言葉が、「このクイズひっかけでしょ?こんなの簡単に分かるよ」でした。
彼にはひっかけクイズだと思えたらしいです。
plutoさんの「真意」・・・知りたいですね~♪
ちょうど同じような記事書いてて笑っちゃった
切り口は違うけどね。
ちゃんと引用個所とか書いてて偉いな~。
私面倒だから省略しちゃった
「サリーとアンの課題」に関しては、「あくまで第三者同士の行動を視覚的に認知し、両者の行動を連続的に把握できているかどうかを試されているテスト」だと私も思います。
Plutoさんの言葉の繰り返しになりますが、「他者(客体)の思考・判断・知覚・感情・意思」を類推することは必要ないんですよね。
私はこの課題は、まずは、自己と他者の区別が付いているか、そして第三者の行動を言葉によって順序だてて類推する能力があるか、ということを見るものだと捉えていました。
「他者が自分とは違う信念を持っているということ」というのは、つまり、「自己」と「他者」の区別が付いているかどうか(自我が形成されているか)であり、「他者の心の動きを類推」というのは、ここでは単純にサリーは「アンがボールを別の箱の中に移した」ということを知らないだろうと類推できるかどうか、といったものであって、広義の意味においての「心」とは意味が違います。
それにしても、私は知能検査でも動作性優位なんだけど、サリーとアンの課題を文章だけで見た場合、頭の中がぐちゃぐちゃになって、何が何だかよく考えないと分かりません
耳で聞いただけだったら、何度か聞き返しちゃいそうだな。
イラストだったら、すぐ分かると思うけど。(文で読む場合も、絵でイメージしないと分からない。←みんなそうですかね?)
あ!記事、興味深く読ませて頂きましたー!
しかし、もうちょっとつっこめそうな、題材ですよねぇ。
私は、これにまた違う題材を被せて、またちょっと語ってみようかと思ってます。
こんばんは。
妄想劇場にお越し下さいましてありがとうございます(笑
「サリーとアン」は結構モヤッとしてたんですよー。
「心の理論」テストだと知っていた。は大きな要素ですね。
知ってて不正解ぶっこいたワタシは、笑われてました(らしいねって
ほー、彼には「ひっかけ問題」でしたかあ。
色んなコト読みとってるんですよねー。
それをうまく伝えられなかったり。
そんな彼は彼らしくあって欲しいな、と思います。
ワタシの真意は… 単純なんですが、表現力が足りてないので勉強中です(てかお受験しました
こんばんは。
やっぱ「サリーとアン」できましたねー
「自己」と「他者」、「サリー」と「アン」を明確に区別できるかどうかは、大きなポイントでしょうね。
実は今読んでる本で「無我」について考えてたりしまして、「自我」と出たときに (((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル 感じました。
>文で読む場合も、絵でイメージしないと分からない。←ここ重要です。試験には出ません
実はワタシ、心理士さんから聞かれてるんですが、ワタシの脳内は言語で関連づけられてるのか、イメージか?
って聞かれてるんですが…
どちらでもなく、ガラガラポンなんです
またネタが増えそうですね。
気長に楽しみにしてます