ワタシは騒音や雑音が苦手である。
騒音と言っても種主雑多なモノがあるだろうが、まずどうしても我慢できないのが“威圧感満載の怒鳴り声”であったりする。
お祭り騒ぎの全方向的奇声や歓喜の輪、どこそこ構わず誰と話してるのか解りかねる(携帯相手だったりする)声の集合体には、身体的にとても負荷がかかってしまう。
ワタシがおかしいのか特殊なのかどうかは解らないが、全ての音をフラットに拾ってしまっているらしい。聖徳太子は10人の会話にそれぞれ受け答え出来たらしいが、ワタシには10人の声の波長が増幅しあいハウリングを起こしているように聞こえる。
それに付け加えて、自動車のエンジン音であったり、冷蔵庫のモーター音であったり、アナログ時計の秒針の刻む音であったりを同時に感じ取り、あまりの情報量の多さにオーバーヒートを起こす。
ワタシが東京で生活していた頃、“渋谷”と“原宿”には寄りつかなかった。
ワタシに言わせれば渋谷などは情報や電磁波、音・光を反響増幅させるすり鉢の底みたいな場所である。
一度、当時の知り合いに連れられてクラブという場所に行ってみたが、薄暗い空間の中に大音響のサウンド、集う人々の言ってることが全く持ってわからず、気持ち悪くなってバックレたこともある。
上に書いたようなことは特殊事例であるとしても、一般的社会生活(企業に所属するサラリーマン等)を想定した場合、ワタシの苦痛ポイントは意外と多い。
それらは社会人だから対応なり自分自身で対処しなきゃ、と多くの方にお叱りを受けるだろうが、これを克服するのは尋常ではない努力と忍耐が必要だと感じる。
ワタシの性格や個性と呼ばれる部分が原因で高圧的対応を受けたり、持ち前の頼りなさからヒトをまとめるような立場にあっても聞く耳を持って貰えず“学級崩壊的状況”で教える系仕事の場面で狼狽する日もある。
ワタシが「だまれ」と高圧的に言えばすむことなのかも知れないが、諸先輩方を観察している限り、その高圧的態度にもビクビクするし、そうやって押さえつけられた若者に与える影響は、躾といえば響きはいいかも知れないが、ワタシの目には大人の都合の押しつけに見えてしまう。
というのも、そういうヒトにはじめのほうに指示されたルールをワタシが正確に遵守していると、逆に浮いてしまったり、守る必要がない、と言われたりする。
当初指示されたルールは建前上のルールであることが多く、組織的に上位に位置するヒトの気分次第で状況で変化することが往々にあったりする。
ワタシが律儀に守っていては、上役としてはバツが悪いのである。
すると、今度は先のルールを破るように指導が飛んでくる。
それに律儀に従っていると、とあるときにはやはり説教されたりする。
ヒトというのはそういうヒトの対応の変化を敏感に察知し、態度や行動を変えているらしい。それを“ふつうのヒト”は柔軟な対応と言っているらしいことは少しずつ気付きはじめている。
ワタシは基本的にはずれているかも知れないが、倫理観やルール、モラルに対しては結構厳格だと自分像を妄想している。
不正とか手抜きとか、言ってる事とやってる事がまるで違うようなヒトには、残念ながら少なからず不快感が生じてしまう。ワタシ自身の器が小さいのも事実なのでもっと大らかにはなりたいものである。
ワタシは大人も子どもも含めて、個々人の態度やヒトへの言動などが正しいかどうかは解らない。ひとそれぞれの考え方があるだろうから。そのことは尊重したい。
ワタシはそういう様々な音に晒されると、身体的症状としてテキメンに表出する。
それを“キモイ”と感じるのも、“変な奴”と感じるのも、それは個人の自由である。
ただ、ヒトには様々な事情があってそうならざるを得ないというヒトもいるんだよ、ということもいつの日か知って欲しいとも思う。自分の持っているジョウシキでは測れないものなんて自分の知っているモノよりも圧倒的に多いんだよ。
それはワタシの乏しい経験上、自己主張を確立した大人のほうが自分の形成したジョウシキに囚われていることが多いように思う。
ワタシは今までもそういう人間関係の板挟みでも平静を乱してきた。
昔はその度に立場的に上のヒトに噛みついてきたが、ワタシ自身もそろそろ成長しなければならない。
ワタシ自身の環境整備は、今後も試行錯誤を繰り返しながら失敗を教訓に改善していくことになるだろう。
ワタシにできることと本当にやりたいこと。
根底にあるワタシ像は穏和で平和的でだと思うと行って下さっている言葉を信じて、
ワタシの歩む、ワタシにとって平穏な生活を模索していきたいと思う。
また、ブログ、拝見します
はじめまして。大変ですよね、騒音とか雑音の多いところは。
いまいち解ってもらいずらいんですよね。苦労というか、たまに泣きそうになります(汗
気が向きましたらまたお越し下さい。