道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

Seeing is Believing?

2006-03-31 03:04:11 | 形而上
昔、映像が凸レンズによってスクリーンにさかさまに映ることを習って、
目も同じ構造であることを知った時、
網膜にさかさまに映像が映っていることを想像して、少し不安になった。
その後、脳ではきちんと処理できているという話を聞いて安心した覚えがある。

しかし、よくよく考えてみれば、生まれてからずっと逆さまの映像を見てきて、
逆さまの映像の中で行動し、逆さまの映像の中で考えているのだから、
問題は起こるわけがない。
言ってみれば、全てが全て逆さまに認識されているのだから、
それが自分にとっての映像世界であり、
今頃逆さメガネをかけてもしょうがないのである。
(もっとも、以前、逆さメガネで映像を再逆転させて生活した実験があったが、
 一、二週間で完全に慣れたという結果は、なかなか興味深いものがある。)


視覚は全てが180度に認識されていても問題ないという話であったが、
生まれてからずっと全てを90度回転して認識している人がいても問題ないのではないかと、
ふと思った。
その人は90度回転した視覚世界の中で何かを指差して、
他の人は180度逆転した視覚世界の中でそれを見て、
お互い見ているものは90度異なるが、外見上は全く問題なく対象物の映像を共有している。

そう考えれば、色だって、他の人とちょっと違う見え方をしていたって、問題ない。
母親が指差して教えてくれたリンゴの色を「赤」と思って育ってきて、
他の人と話す時もそのイメージで「赤」と言う。
たとえお互い視覚世界が全く違っても、リンゴが全く異なる見え方をしていても、
リンゴを指差して「赤」と言えば、お互いが自分の「赤」の色彩イメージと照合して、
「うん、赤いね」と言う。

ものを見たって、それは映像としてのものであって、ものの存在そのものの直観ではない。
そもそも、ものが実際存在しているのかだって、確認できない。
視覚だけでなく、聴覚だって触覚だって、ものそのものを感じ取っているわけではないのだから。

……小さい頃からこんなことばっかり考えていたから、私は詩人にはなれなかったのだろう。


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