「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県中城村  「 護佐丸 ( ごさまる ) の墓 」

2012-12-04 00:19:06 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所









中城城跡公園の入り口の斜め向かいに「沖縄電波観測所」があり、
その手前の右の道を下りると護佐丸の墓の標識がある。
そこにある階段を上ると突き当たりに護佐丸の墓がある。
この一帯は台グスクと呼ばれていて、目の前に中城湾が広がる絶景の地となっている。

護佐丸の墓は、護佐丸の死後、その子孫の毛氏豊見城家によって築かれたもので、
護佐丸をはじめ第7代までの子孫の遺骨が安置されており、8代目からは識名の墓に納骨している。
護佐丸の墓は、現存する亀甲墓としては県内で最も古い時代のもので、
歴史や文化的にも貴重な墓である。


護佐丸盛春 ( ごさまるもりはる ) 生年不詳~1458没。
唐名(中国名)は毛国鼎(もうこくてい)。
琉球が三山分立から統一へ向かうころの武将で、名築城家として知られます。
『毛氏先祖由来伝』によると護佐丸は、1416年、中山尚巴志(ちゅうざん・しょうはし)に従い
北山(ほくざん)討伐に従軍し、今帰仁城を攻略後、座喜味城を築城したと伝えられています。
そして護佐丸は王府の命により、勝連按司・阿麻和利(かつれんあじ・あわまり)に対する防御のため、
中城へ移城し軍備増強を図ります。

阿麻和利はこの軍備増強を逆手に取り、王府に護佐丸に謀反の動きありと告げます。
1458年、尚 泰久王は阿麻和利を総大将に任命、護佐丸討伐のため中城に向けさせます。
王府への忠誠心に厚い護佐丸は手向かう事ができず、
幼児だった三男 ( 盛親・もりちか ) を乳母に託して落ちのびさせ、
妻子もろとも自害する。
護佐丸を排除した阿麻和利は、首里王府を攻めようとするが、
妻である百度踏揚(ももとふみあがり)により陰謀が発覚し王府によって討たれてしまう。
これを 「 護佐丸・阿麻和利の乱 」 という。


乳母に抱かれてただひとり生き延びた三男の盛親は、
国吉グスクの国吉大屋久が盛親を助け養育したことで知られている。
その盛親は、第二尚氏から厚遇され、家を再興し、
その子孫から10人あまりもの三司官を輩出した。




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