「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

「 怪物 ・ ドゥラメンテ 」 電撃引退

2016-06-30 10:00:41 | 競馬・ボート



宝塚記念のゴール後、下馬してドゥラメンテの歩様を見るミルコ・デムーロ







左前脚の動きを確かめる











下の馬の詩は、去年のダービー当日にドゥラメンテの勝利を
「 血の勝利 」 と題して作ったものである。
皐月賞とダービーを制した2冠馬は、
両前脚の骨折で3冠がかかる菊に名を連ねることなく手術、休養へ・・・
復帰初戦の中山記念を勝って、夢は凱旋門賞へと膨らんだが、
またしても宝塚記念2着でゴール後、左前脚の靭帯と腱の損傷で内出血が判明。
その後の症状に良化が見られないため、獣医師から 「 競走能力喪失 」 と判断され、
29日付けで競走馬登録を抹消し、種牡馬入りする。

ディープインパクトやオルフェーヴルのように、
凱旋門賞での活躍が期待されていただけに残念でならない。
ただ、予後不良ではなかったので、
ダイナカールからエアグルーヴ、アドマイヤグルーヴへと繋がった血は、
途切れること無く、確実に血の流れは続いて行く。



父 キングカメハメハ
母 アドマイヤグルーヴ
生年月日  / 2012年3月22日
調教師  / 堀宣行 (美浦)
馬主   / サンデーレーシング
生産者  / ノーザンファーム
産地  / 安平町
通算成績  /  9戦5勝 [5-4-0-0]
主な勝鞍  /  15、皐月賞・日本ダービー ( GⅠ )




「 血の勝利 」   ドゥラメンテ



ドゥラメンテ
父はキングカメハメハ
その父の持つダービーレコードを
コンマ1破る快走は
急逝した母のアドマイヤグルーヴから
祖母のエアグルーヴへ
そして
祖祖母のダイナカールへと継る
血の勝利



第82回 日本ダービーより


第12位 みずがめ座 ・ 今日のラッキーパーソン 「 肌ツヤがいい人 」

2016-06-30 05:59:41 | 今日の占い ・ 二十八宿とコトバ

      今朝は風も雨も無い静かな朝だった。
       「 そろそろ晴れ間がほしい 」 と思うけど・・・
      梅雨開けはどうなんだろう?
      そんな今日の順位は12位で、
      ラッキーパーソンは、
       「 肌ツヤがいい人 」 である。

      思いが相手に伝わらずガッカリ・・・
      顔色ばかり見ずに気分転換が大切


長崎県生月島 「 山田教会 」

2016-06-30 04:39:57 | 教会






























この教会も鉄川与助の設計施工によって建てられた教会である。

生月島出身で西坂で処刑された長崎十六聖人のひとり、
聖トマス西の列聖を記念した碑が境内に造られた山田教会は、
長崎司教区が推進する42ヶ所めぐりのスタートとなる。

この地の信者は、潜伏キリシタンから復帰した者の子孫で、
復帰にあたっては明治12年(1879)から13年(1880)にかけて、
黒島の信徒たちの導きによるものが大きかった。
明治45年(1912)コンバス司教の時、現在の聖堂が建立され生月小教区が誕生した。

生月全島が隠れキリシタンの島と言われ、
カトリック信徒の数は全島民の3%程しかいない。
信徒の殆どは漁業によって生計を維持している。
キリシタンの島と言われるだけに、
島内には平戸藩家老ガスパル西玄可の殉教地 『 黒瀬の辻 』 をはじめ、
数多くのキリシタン遺跡が散在する。

昭和62年(1987)10月18日、西玄可の子息トマス西神父の列聖により、
聖人の島となり、昭和63年(1988)9月28日、教会の前庭に列聖記念碑が建立された。

山田教会は、当初、本体が漆喰で覆われた煉瓦造で、
正面にバラ窓と天主堂の文字が入った木造の玄関が作られていた。
昭和45年 ( 1970 ) に、鉄筋コンクリートで玄関部分に方形の塔が増築され、
現在の形となる。
当初の状態を保つ聖堂内は、リブ・ヴォールト天井と円形アーチの窓が高く、
ゆったりとした空間になっており、外からは簡素な建物に見えるが、
内部は本格的な教会になっている。


所在地  / 長崎県平戸市生月町山田免442-2

教会の保護者  / 七つの悲しみの聖母


長崎県新上五島町有川郷 ・ 鯨を祀る 「 海童神社 」

2016-06-30 03:33:41 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



応護島頂上の祠







鯨の顎骨の鳥居











海童神社 ( かいどうじんじゃ ) は、
長崎県新上五島町有川郷船津地区の応護島に鎮座する神社で、
鯨の顎骨を使用した鳥居があることで有名である。

創建年代は不詳。町や長崎県のほとんどの資料等に記載されている由緒によると、
「 元和3年 ( 1617年 ) ~同5年にかけて、
有川村では毎年6月17日に限って海で遊泳する大人・子供に溺死人が相次いだ。
時の乙名役の高井良福右衛門に海童神からの神託によって神子島に石祠を建立し、
「 海童神を奉祀した 」 と記載されている。

また、 「 翌(元和)6年6月17日には例祭を行い、
二〇加踊り ( にわかおどり ) と呼ばれる即興の寸劇を奉納したところ、
溺死者はなくなった 」 とされる。
その後も二〇加 ( 俄 ) の奉納は毎年行われ、
現在では有川地区の年中行事である十七日祭りとなっている。

しかし近年では郷土史家による研究が進み、いくつかの矛盾点が指摘されている。
江戸時代中期 ( 18世紀 ) から明治初期 ( 19世紀後葉 ) にかけて、
村の漁業・農業・風俗等を記した『江口文書』や、
慶応4年 ( 1868年 ) に記された祖母君神社の縁起書によると、
「 慶長3年 ( 1598年 ) の祖母君神社奉遷の際、
それを守護する応護神として有川湾の中ノ島に龍神を祀り、
これに因んで島の名前を応護島とした 」 と記述されている。
また、当時は 「 乙名役 」 という役職もなく、
「 高井良福右衛門 」 という人物も宝暦5年 ( 1755年 ) 以降に記述があり、
この時期には存在していないことが確認された。  

文久4年 ( 1864年 ) の資料では 「 宝暦2年 ( 1752年 ) 6月17日に、
船乗り等の水難防止を祈願して通りもの ( 行列 )を始めた 」 との記述がある。
また、全国に伝承される俄の諸記録によると、
いずれも江戸中期 ( 18世紀中頃 ) の 「 通りもの( 練りもの ) 」 から始まり、
大阪・京都・江戸での即興笑劇の流行の伝播を受け、
江戸時代初頭 ( 19世紀初 ) より 「 二〇加 ( 俄 ) 」 の芸態が確立されたとされ、
有川村が江戸時代最初期 ( 17世紀初頭 ) から全国に先駆け、
「 二〇加 」 を創始していたとは考えにくいため、
江戸時代後期以降の創始ではないかとの指摘がされている。

明治中期に船津・蛭子神社を合祀。同41年 ( 1908年 ) に祖母君神社に合祀されている。
この時に拝殿や鳥居は破壊され石祠のみ祀られていたが、昭和2年 ( 1927年 ) に鳥居を建立し、
同48年 ( 1973年 ) に鯨骨の鳥居が日東捕鯨株式会社より奉納されている。
平成16年 ( 2004年 ) には有川港の整備事業によって埋め立てられ陸続きになった。