「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県読谷村 「 大湾 ( おおわん ) 按司の墓 」

2012-03-25 09:34:55 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所






大湾按司の墓は、読谷村と嘉手納町の境界近くを流れる比謝川から分かれた長田川の横で、
国道58号線沿いになる。
大湾按司は伊覇按司の三男といわれ、按司墓の丘(ウフグスク)を築いてとされている。
大湾按司の墓には、三個の厨子甕 ( ジーシーガーミ ) が収められており、
按司墓は戦前は板門の墓であったといわれているが、
戦後、国道58号線拡張工事のため現在地に移された。
大湾按司の父は今帰仁子(ナキジンシー)、祖父は丘春按司と伝えられている。
今帰仁落城で、今帰仁按司の身内が当地に逃れて成長し、領主となったのか?
それとも今帰仁子が伊波城主になって、
後に生んだ子が成長して大湾ウフグスクの按司になったのかは定かではない。
上地門中が子孫といわれている。
神御清明には、大湾・古堅・比謝の人々が拝みに見える。

沖縄県中頭郡読谷村大湾



沖縄県南城市 「 大城按司の墓 」

2012-03-17 09:06:58 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所





















大城按司の墓は、俗に 「 ポンドウ御墓 」 ともいわれ、
他に類例のない構造を有する墓として、1961年に重要文化財に指定されている。

 「 麻世家譜 」 によると、稲福村の西で自刃した大城按司の亡骸は、
同地に葬られ、小石を丸く積み上げて塚としたという。
その塚が現在見られる墓の原型となっていると思われる。
この墓は、いく度か改築され、1892年に現在の地に移築されている。

沖縄県南城市佐敷( 老人ホーム ・ 東雲の丘の近く )


沖縄県那覇市  「 玉 陵 ( たまうどぅん ) 」

2012-02-23 17:28:51 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所
サンゴの砂利が敷き詰められた墓庭からの玉陵全景







王や王妃、世子などが納骨されている東室






王家親族が納骨されている西室






玉陵に入る最初の門







玉陵 ( たまうどぅん ) は、西暦1500年前後に、
第二尚氏王統の陵墓として第三代である尚真王が父の “ 尚円王 ” の遺骨を
西裏側の見上森 ( みあぎむい ) から移葬して造ったものである。
岩山を背に横穴を掘り、前面を破風造りにした破風掘り込み墓である。
墓域は約6000坪で、規模といい、壮麗さといい、沖縄随一の墓である。
墓室は三基に分かれ、中央はシルヒラン(洗骨前の遺体を入れる墓)で、
向って左側の東室には、洗骨後の王・王妃・世子・世子妃を、
右側の西室には、それ以外の家族が納骨されている。
最後の納骨は、昭和9年の尚典夫人であった。


玉陵は内郭と外郭があり外郭は石垣で出来、玉陵を囲んでおり、
中央に一つ目の門があり潜り抜けると正面に石垣があり、中央に第二の門がある。
ここから先が内郭になっており墓堂があり、その墓堂は東室・中室・西室と三つに分かれている。
王族が崩御すると中室に安置され、時がたった頃洗骨を行い、
厨子甕(ずしがめ)に遺骨を納めて葬られていた。
第二尚氏王統の陵墓として語り継がれているが、歴史を読み解くと不可解な部分もあるようである。
その時代の跡継ぎ問題などが垣間見える内容の碑文が玉陵内にあるというが・・・
まぁ、その時代に生きた者でなければ解らないこともあるだろう。
4月の清明祭には、第二尚氏王統の子孫分家の門中が 「 神御清明 」 として拝んでいる。

ここ玉陵も第二次世界大戦・沖縄戦の際に大きな被害を受けたが、
戦後に復旧された現在に至っている。

沖縄県那覇市首里金城町1丁目