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「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県那覇市首里金城町 ・ 琉球競馬 「 綾門大道 ( あやじょーうふみち ) 」

2015-11-25 02:24:41 | 琉球競馬



首里高校と玉陵の間を通る道路がかつての馬場跡




首里城の多くの観光客が行き交う守礼門から一文字に延びた首里の古道。
琉球王朝時代は守礼門を 「 上の綾門 ( あやじょー ) 」 、
あるいは 「 上ん鳥居 ( うぃーんとりい ) 」 と呼び、
首里高校の西端付近にあった中山門 ( 明治14年撤去 ) を「下の綾門」、
または 「 下ん鳥居 ( しむんとうり ) 」 と呼んでいた。

この二つの門の中間にある約500mの道を 「 綾門大道 ( あやじょーうふみち ) 」 と称した。
その「 綾門大道 ( あやじょーうふみち ) 」で旧暦の1月15日に競馬が開かれていた。
ここで開かれていた競馬は他の琉球競馬とは違い、障害競走や現在競馬のように
集団で速さを競う競馬が行われていたと言われている。



沖縄県沖縄市 ・ 琉球競馬 「 胡屋馬場跡 」

2015-11-15 02:26:41 | 琉球競馬



かつての胡屋馬場は沖縄市役所の前を通る道路と化した










沖縄市では越来や山内馬場などがあったが、
もっとも競馬が盛んだったのは胡屋である。
比嘉集落から北東へ3キロ足らずの場所にあり、
現在の沖縄市役所の正面道路が舞台だった。

明治13年の沖縄県統計概表によると、
南東から北西に延びる直線走路は、一・五七町 ( 約171m ) であり、
馬場の周囲には土手が築かれ、18世紀に植栽されたとされる松並木が
出走馬や見物人の日除けとなった。



沖縄県南風原町 ・ 琉球競馬 「 宮原馬場跡 」

2015-11-11 03:02:41 | 琉球競馬



現在は宮平集落を抜ける道路と化した宮平馬場







多くの観客が競馬を観戦した琉球松が生えた丘






馬場跡を調べてもらった 「 田場登記測量事務所 」




南風原町の宮原集落は南風原間切最大の村だった。
18世紀後半に作成された琉球国惣絵図には、
宮原集落の外れに大きな馬場が描かれている。

明治13年の沖縄県統計概表によると、
馬場の直線の長さは二・〇四町 ( 約222m ) となっている。

戦前の宮原集落地図を見ると、北側には那覇 ~ 与那原を結ぶ
ケービン ( 沖縄軽便鉄道 ) の与那原線・宮原駅があった。
その地図に載っていたウスクドー橋が馬場の手がかりになった。


沖縄県那覇市首里崎山町 ・ 琉球競馬 「 崎山馬場跡 」

2015-10-31 04:45:41 | 琉球競馬














かつて首里城の別邸 ( 御茶屋御殿 ) があった場所の近くに
モダンな石張りの道路がある。
その道路が崎山馬場だった場所である。

崎山馬場は歴代の琉球国王にこよなく愛された 「 馬揃え 」 の舞台で、
琉球でも人気を博していた馬場である。
東西に約325メートルの走路が延び、
馬場の中央には石で仕切られたウサンシチ(国王が御座するお座敷)があり、
馬場の周りには首里八景の一つである蓬莱竹の生け垣が肩先ほどの高さで連なっていた。



沖縄県北谷町 ・ 琉球競馬 「 砂辺馬場跡 」

2015-10-27 02:08:41 | 琉球競馬













沖縄県北谷町の砂辺地区へ国道58号線から入って行くと、
東シナ海にそって南北に延びる砂辺馬場は、
現在整備され 「 砂辺馬場公園 」 になっている一帯が馬場であった。

競馬の観戦場所だったウマイームイ(馬場の森)という小高い丘はは現在も存在しており、
その東側にはたくさんのソテツが生えていたという。




沖縄県八重瀬町 ・ 琉球競馬 「 友寄 ( ともよせ ) 馬場跡 」

2015-10-14 02:57:41 | 琉球競馬



















国場交差点から津嘉山向けずぅ~ッと南下し、
南部徳州会病院近くの交差点もそのまま超えて
南部商業高校を過ぎて300mほど下り坂を進み
信号交差点の「友寄馬場公園」の看板を右折して坂を上がって行くと、
左手に写真のような大きな獅子の滑り台がある。

公園の反対側は児童館になっており、
この友寄馬場公園一帯が 「 友寄馬場 」 だったと思われる。

公園の大きさから考えると、かなり長い直線を持った馬場であったと類推できるが、
規模など詳細についてはわからない。


沖縄県八重瀬町東風平 ・ 琉球競馬 「 東風平 ( こちんだ ) 馬場跡 」

2015-10-12 02:00:41 | 琉球競馬



一面に芝を敷き詰めた馬場跡







今も石段の観覧席が残る




合併して八重瀬町になった東風平 ( こちんだ ) 。
その東風平も戦前に競馬が盛んに行われていたという村営東風平馬場に行ってみた。
合併して現在の八重瀬町役場近くの東風平集落の中心部にある公民館の敷地一帯が馬場であり、
馬場は一面に芝を敷き詰めた広場になっている。
そのすぐ脇には石段の観覧席が残っており、旧暦のお盆には豊年祭が行われ、
250年の伝統を誇る棒術や獅子舞、村芝居などの舞台になるという。

明治13年の沖縄統計概表によると、東風平馬場の直線は1.4町 ( 約152m ) で、
幅が9.3間 ( 16m ) であったと言われている。




沖縄県南城市佐敷 ・ 琉球競馬 「 屋比久馬場跡 」

2015-09-28 03:41:41 | 琉球競馬



芝が張られ児童公園として整備されている屋比久馬場跡



















屋比久馬場跡は、沖縄県南城市佐敷の屋比久公民館に隣接する児童公園にあり、
ここは屋比久グスクとしても拝所がある場所でもある。
馬場の規模や性質などの詳細については確認していないので解らないが、
馬場の広さからみて与座馬場跡と同じ規模のものだったと類推できる。




沖縄県南城市大里 ・ 琉球競馬 「 目取眞 ( めとりま ) ジョー 」

2015-09-27 01:06:41 | 琉球競馬















沖縄県南城市の 「 南城市史 」 には、
〈 大里には有名なウマーイが二つあった 〉と記されている。
長堂馬場と、もうひとつ大里村稲嶺集落の中心地、
目取眞にあった目取眞ジョー ( 馬場 ) である。

現在は 「 目取眞農村公園 」 として整備されており、
公園の先には 「 わかば保育所 」 がある。
小高い丘の上に一面に芝を敷き詰めた180メートルの直線が南北に延びており、
中央には真新しい屋根付きの観覧席が建っていたが、
ンマアミシグムイ ( 馬の水浴び所 ) こそ埋め立てられていたが、
戦前の競馬の舞台がそのまま残されていた。

馬場跡は平成になってから整備された 「 農村公園 」 は、
大里の無形文化財 「 目取眞の綱引き 」 の会場にもなっている。


沖縄県南城市大里 ・ 琉球競馬 「 長堂馬場跡 」

2015-09-25 01:12:11 | 琉球競馬



長い直線の道路だけがかつての馬場跡の面影を残している








ユインチホテル南城







大城按司のポンドウ御墓







古戦場だった稲福グスク ( 稲福殿 ・ 拝所 )





南城市大里町真境名の東端は、旧佐敷町小谷との境になり、
ユインチホテル南城や大城按司のポンドウ御墓が近くにある。
その尾根にある長堂馬場で行われた競馬に大歓声が上がったのは、
大里、佐敷、知念、玉城の四間切による対抗競馬が大詰めを迎えた時だった。

大里・長堂馬場は18世紀作成の琉球国惣絵図にも描かれており、
南北に延びた形状は明治13年の沖縄県統計概表によると、
直線三町 ( 327メートル ) 、幅員13間 ( 約23メートル ) と、
沖縄本島南部最大の規模であった。

参考までに現在の規模としては、京都競馬場の直線 ( 内回りコース ) と、
ほぼ同じ長さの琉球競馬には珍しいロングコースだった。

現在、養鶏場となった場所にはかつての馬の運動場や
水飲み場があったと地元の人達が教えてくれた。



沖縄県南城市佐敷 ・ 琉球競馬 「 新里馬場跡 」

2015-09-17 03:11:41 | 琉球競馬



新里公民館下の広場と馬場跡









新里公民館






















南城市佐敷の新里地区にある公民館一帯が馬場だった新里馬場跡。
馬場跡は小学校や公民館、あるいは道路などの公共の施設に姿を変えており、
個人所有の物に変わることは稀である。

この新里馬場跡も例に違わず、その跡地に公民館が建っている。
馬場の規模などの詳細は解らないが、
馬場跡としての雰囲気を持った場所であった。


所在地  /  沖縄県南城市佐敷字新里677





沖縄県宜野座村 ・ 琉球競馬 「 松田馬場跡 」

2015-09-15 03:43:41 | 琉球競馬



沖縄県宜野座村 ・ 琉球競馬 「 松田馬場跡 」









校内にある 「 松田馬場跡の説明板 」






馬場の松並木






半分は小学校の運動場になっている














琉球王朝末期から100年以上の時を経て
農村の人々の暮らしを今に伝える馬場跡と松並木。

松田の馬場は、1878年頃に首里の士族であった汀良(てぃら)タンメーという人物が
農村の娯楽施設のひとつとしてつくったといわれるもので、
現在の松田小学校の敷地内にあります。
ウマバと呼ばれた全長250m、幅225mほどの馬場では、
明治時代の末頃まで村民たちが草競馬を楽しんでいました。
周囲には見物場として盛土を築き、そこに琉球松を植林していましたが、
推定樹齢100年以上という105本の見事な琉球松並木は、
現在も昔のまま残っている。



沖縄県南風原町 ・ 琉球競馬 「 うまうぃーぐわぁ 」

2015-09-09 02:38:41 | 琉球競馬



「 うまうぃーぐわぁ跡 」 の石碑







「 うまうぃーぐわぁ跡 」 の石碑が校内に建つ南風原町立翔南小学校





沖縄県南風原町は沖縄戦で沖縄守備軍が(第32軍)司令部のあった首里の後方陣地として
日本軍がひしめいたため、アメリカ軍の集中砲火を浴びて焼土と化した地域である。
そんな南風原町喜屋武の南風原町立翔南小学校の校内に
「 うまうぃーぐわぁ跡 」 の石碑が建っている。

現在、翔南 ( しょうなん ) 小学校がある場所は、
昔は広々とした原っぱで、集落の祭りや行事が開催されたり、
青年たちが草競馬の練習などをしたところであった。
うまうぃーとは、馬追い ( 草競馬 ) をした馬場という意味です。




沖縄県南城市玉城 ・ 琉球競馬 「 上江洲口馬場跡 」

2015-09-03 04:43:41 | 琉球競馬



かつて琉球競馬の馬場があった琉球ゴルフ倶楽部








玉城グスクから見た琉球ゴルフ倶楽部のコース


















沖縄県南城市玉城グスクの下に琉球ゴルフ倶楽部のコースが見える。
かつてここは玉城の馬場として上江洲口 ( 仲村渠 ・ なかんだかり ) 、
通称 ・ イージグチンマウィであった。
明治13年の沖縄県統計概表によると、長さ二.四町 ( 261m ) 、
幅八間 ( 約14.5m ) であった。
馬場があったのは東コースの1番と9番。
西コースの同じく1番と9番あたりだったと言われている。
どちらもインとアウトのスタートホールである。

昔は琉球競馬で賑わせ、今はゴルフで賑わせている。



沖縄県南城市佐敷 ・ 琉球競馬 「 津波古 ( つはこ ) 馬場跡 」

2015-09-01 09:43:41 | 琉球競馬













沖縄県南城市佐敷にある津波古馬場は、
与那原町から国道331号線を佐敷に入ってすぐの集落にあり、
国道から右に少し入った場所にある 「 津波古公民館 」 一帯が、
かつて津波古馬場あった辺りだそうだが、
公民館の広場が面影を残しているくらいで、戦火によって跡形も無い。