郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

珍大河『花燃ゆ』と史実◆29回「女たちの園」

2015年07月22日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 珍大河『花燃ゆ』と史実◆28回「泣かない女」の続きです。

 見出し絵は、楊洲周延の「千代田之大奥 おたち退」3枚組の一部です。
 江戸城火災時、大奥の避難の様子を描いたようですが、幕府が滅びて久しい明治になっての作品ですし、私にはなんとなく、大奥の最後を象徴した絵のように思えまして、皮肉をこめて、載せました。

花燃ゆ 後編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
クリエーター情報なし
NHK出版


 えー、こちらは大奥ならぬ毛利家の奥
 奥奉公RPG、今回のクエストは、毛利家奥女中のリストラ!です。
 奥御殿総取締・園山さまが、銀姫付きのお次女中・文改めミワ(ありえないけど、義理のおにーさまより授かったお名前だそーです。あー、小田村が奥奉公ゲームをするのに、ミワの名を選んだと理解しときましょう)と、同僚で出世したがりーの鞠さん(士族の養女になってお次女中にあがったんだそーで、普通なら嫁入り修業だけど、この人は出世がしたいんだそーで)の二人にこのクエストを与えたわけなんですけれども。
 しかも、そのリストラの理由といいますのが、椋梨藤太の提案で、藩主&世子&その家族&お付き女中、みんなで萩に帰るので、萩城には女中たちの部屋がないというのです。

 園山いわく「都美姫さまも銀姫さまも、もともとは江戸のお住まい。萩城には、殿様のお世話をするものだけで(いっぱいで)、とうていお二方のお住まいになるだけのゆとりは(ない)」 
 なにをぬかすか、ばばあ! 萩城に部屋がないなら、山口中河原御屋形には、もっとないだろうがよっ!!!

 もうね。なにから突っ込みをいれたらいいんだか、なんですが、そもそも実際は、都美姫も銀姫も世子も、山口中河原御屋形には住んでいないんです!!!
 山口中河原の御殿って、御茶屋なんですね。山口市の歴史「幕末の藩の中心地・山口御茶屋」を見ていただいたらわかるのですが、御茶屋とは、藩主の参勤交代や領内巡行時の宿泊、あるいは幕府の役人や他藩大名の通行時の宿泊のための長州藩の公館でして、山口御茶屋は、山口新屋形完成までの仮住まいでしかなかったんですね。

 珍大河『花燃ゆ』と史実◆27回「妻のたたかい」でそのときの騒動を書きましたが、 都美姫さまと銀姫さまが江戸から萩へ移ったのは、文久2年の暮れのことです。
 文久3年、長州は即刻攘夷を藩是とするにいたり、萩城は海に面していて危険であること、瀬戸内海側へ近い山口の方が指揮がとりやすい、ということで、4月に、まずは藩主のそうせい侯が湯治を名目に山口御茶屋に入り、5月、実際に下関で攘夷戦をはじめてから、都美姫、世子、銀姫も萩から山口へ移ります。
 「もりのしげり」(近代デジタルライブラリー)の219ページをご覧ください。
 都美姫は龍福寺(宮野御殿)、世子は吉敷御殿、銀姫は伊勢大宮司松田上野介邸(五十鈴御殿)を居館としていたんです。

 だ・か・ら、どこの異世界の中河原御殿で、どこの異世界の殿さま一家が、そうぶれとやらをやるのさっ!!!
 だいたい、見本になっております江戸城大奥では、通常将軍は江戸城本丸にいて、御台所が本丸大奥。
 世子は西の丸にいて、奥は御簾中(世子夫人)が支配します。つまり、将軍と世子では、御殿が別なのです。
 なお狭義で大奥という場合は、江戸城でも御台所が支配します本丸大奥のみをさすそうです。
 いったいこのRPGの、成り上がりの中小企業の社長のおっさんと奥さんがやる朝礼みたいな「そうぶれ」とやらは、どこからどうひねり出したのか、少々しらべかかったのですが、あまりに馬鹿馬鹿しいのでやめにしました。といいつつ。

歴史ミステリー 女達の裏日本史 大奥2


 この「歴史ミステリー 女達の裏日本史 大奥2」に総触れとやらが出てくるのですが、そういわれてみれば、朝食の後、将軍が御台所とともに仏間でご先祖の位牌を礼拝し、お目見え以上の奥女中たちがご挨拶、というような話を、どこかで読んだような気もするのですが、どこで読んだか忘れてしまいました。
 ついでにこの歴史ミステリーについて述べますと、新参舞が全裸だったというのが大嘘だとも、どこかで読んだような気がするのですが、どこで読んだかさがす気力がありません。

 まあ、通常、大奥ドラマとはこのフィルムのごとく、どろどろどろどろした女の園妄想もののはず、ですが、しかしこのRPG大奥、なにか妙に無機質で、プラスチックでできた異世界キャラクター妄想のような、薄気味悪さがあります。
 ともかく、なにもかもがなんだか、不条理(ノンセンス)なんです。

 えー、なんで新参者の、しかも銀姫のお付き女中でしかありません杉酒屋の芋虫ミワさんに、奥御殿全体(しかも藩主の奥と世子の奥が一緒くたというありえなさ!)のリストラなんぞといいます絶大な権限が付与されますのやら、このRPG、そこらあたりもまた不条理な上に無秩序で、ゲームとしての出来の悪さを感じるのですが、ともかく。
 芋虫ミワさんはリストラミッションを成し遂げるための御殿探検途上で、御蔵番・国島といいます、お道具の九十九神にめぐりあったりします。
 大奥女中の職制に御蔵番なんぞ聞いたことがない、とか、御蔵にたっぷりと日の光が差し込んだら御蔵の意味がないだろうが、とか、そもそも臨時住まいのお茶屋の蔵に嫁入り道具を展示しているはずがなかろうが、とか、まあ、もともとが意味のない世界の支離滅裂ゲームですから、なにを言っても無駄です。

 不条理(ノンセンス)と言えば、不思議の国のアリスです。
 この童話、リーズデイル卿とジャパニズム vol10 オックスフォードに書いておりますが、このわずか2年前、ルイス・キャロル(チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン)が第二回ロンドン万博見物に向かう汽車の中で下書きしたものでして、この第二回ロンドン万博には、駐日イギリス公使のラザフォード・オールコックの手配で日本の美術工芸品が展示され、日本の遣欧使節団(文久使節団)も顔を出して評判となっていたりしました。
 
不思議の国のアリス 完全読本
桑原 茂夫
メーカー情報なし


 えーと、例えば、です。不思議の国でスペードトランプの庭師が白いバラをペンキで赤く塗っている奇妙な出来事は、このRPG不条理ワールドで、なめくじのような九十九神・国島が、漆や人形を直射日光にさらしてぼーっと自己満足の夢を見ているのに、似ています。
 しかし、ですね。アリスが不条理にあがき、抵抗し、最後は夢から覚めますのに、この芋虫ミワさん、お化けのようにすんなりと不条理に溶け込み、その一部になって、「私がなんで生きているのか知りたい」とか、平成の自分探し有閑マダムのおっとりセリフだけで、わけもわからずなめくじ九十九神に気に入られ、お道具を売り払ってリストラ手当にまわす、といいます、ありえへんところがほとんど韓国ドラマのような非現実的な手で、ミッションを果たすんですね。
 「不思議な国のアリス」の不条理には、どこかなつかしいような、それでいて知的な魅力を感じるのですが、このRPG大奥ワールドの不条理は、ただただ意味がないだけで、さっぱりなんの魅力もなく、生理的に気持ちが悪いばっかりです。

 あげくの果てに、実はリストラは、萩城に部屋がなかったわけではなく、世子の側室候補に若くてピチピチのお側女中を十人入れるためだった!!!とハートの女王都美姫さまが宣言します、不条理の極地の不毛!!!
 側室候補の乃木坂46十福神が、なぜかみんな同じ顔をして、一言のセリフもなくじと目でずらりと並んで、不気味に幕!

 いや、史実の銀姫さまは、萩では江向八丁筋の八丁御殿に住まわれ、都美姫さまと同じ御殿にいたりはしませんし、すでに長男を妊娠しています。

 もうこれ、大河としては最低最悪の黒レッテル決定なのですから、どうせならここで、ベビメタに「イジメ、ダメ、ゼッタイ」を歌わせるくらいはじけていたら!!! いや、まずベビメタがこんな駄作に出てくれるわけがありませんし、そこまで制作陣がはじけていたら、最初から、もっとましなものを作ってましたわね。

BABYMETAL - イジメ、ダメ、ゼッタイ - Ijime,Dame,Zettai (Full ver.)


 余談ですが、ボーカルのスーメタルのお姉さんは、乃木坂46にいるんだとか。

 まあ、ですね。芋虫ミワさんが松陰の妹でも久坂の嫁でもなく、江戸城の本物の大奥で不条理RPGをやるのでしたら、大河ドラマとはいえないにしましても、そういうドラマがこの世に存在するのだと、理解できないでもないのですが、これが幕末長州の話とはね、いやはや。
 ともかく。
 大奥不条理RPG突入で、歴史的事実はもはや、地球の裏側へと消えていってしまい、どーでもよくなっておりますが、ため息をつきつつ、こんなでたらめやるのなら、幕末の長州じゃないことに早くしてしまえよ!!!と、つくづく。「ここは、幕末長州の不条理大奥パラレルワールドでございます」と、一言、ナレーションを入れたらすむことです。

 で、不思議なパラレルワールドでは、お殿様の臨席しない不思議な会議で、帽子屋・周布政之助とグリフォン・椋梨藤太が対峙しまして、周布はふてくされて、投げやりに「戦えばよい。いまさら慌てて、(幕府に)許しを乞うたところでなんらかわらん」といい、椋梨の圧勝に終わります。

 
幕末維新の政治と天皇
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吉川弘文館


 前回に書きましたが、高橋秀直氏の「幕末維新の政治と天皇」によりますと、すでに周布政之助ほかの「正義党」は、禁門の変で京へ先発していました三家老&四参謀の処分、藩主敬親の辞官退隠まで、覚悟していました。
 で、いわゆる「正義党」が、攘夷戦の敗北、禁門の変での敗北と、失態を続けていたにもかかわらず、なぜ、力を残していたかといいますと、惨憺たる敗北の中から奇兵隊をはじめとします諸隊が生まれ、戦える軍隊となって、「正義党」を支持していたからです。
 いわゆる「俗論党」の支持者は、主に中から上の藩士たちで、萩を拠点にしていました。それが山口へ出てきて、「正義党」の追い落としをはかるようになっていたのですが、しかし、彼らは個人的な武術にはすぐれていましても、それはそれだけのことでして、ろくに戦えませんことは証明済みで、うかつに「正義党」に手は出せませんでした。

明治維新と国家形成
クリエーター情報なし
吉川弘文館


 諸隊が、元治内乱期の長州でいかに大きな存在となっていったかにつきましては、青山忠正氏の「明治維新と国家形成」収録の論文「長州毛利家の政治的基礎構造」で詳しく分析されています。

 与党でありました「正義党」は、諸隊の軍事力を背景に、世子のかわらぬ支持を受け、いわば武備恭順を貫いて、国難を乗り切ろうとするのですが、いわゆる「俗論党」からは、これまで、既得権益を突き崩される立場に甘んじておりました不満が一気に噴き出し、周旋役の岩国藩主・吉川監物を頼りにして、政権奪取が試みられます。
 両者の力が拮抗する中で、「正義派」の井上聞多は「俗論党」藩士に襲われて瀕死の重傷を負い、「正義党」の三家老四参謀を切り捨てても政権を守ろうとした周布政之助は、吉川監物を引き入れたことにより、それさえも危うくなったことに責任を感じて、自刃します。

 10月に入って、藩主敬親が萩へ行くこととなり、これは「俗論党」にとって、藩主を諸隊から離して手中にするチャンスだったのですが、「正義党」は藩主が「俗論党」処分のために萩入りすると思い込み、藩主に随行して萩入りしました。
 結果、藩主の敬親は「正義党」を切る方に傾き、前田孫右衛門、渡辺内蔵太、毛利登人、楢崎弥八郎、大和弥八郎、松島剛蔵、山田亦介など「正義党」中枢は、一網打尽に捕らえられます。
 その直前、高杉晋作は勝負勘よく、一人亡命して、命を長らえました。

 「俗論党」政権が樹立しましてから、諸隊は藩庁からは独立し、地域の行政機構を押さえて草の根を張るように定着していき、本来の家臣団とはまったく組織が異なる異分子であるとともに、強力な軍事力として育っていきます。
 こののち、有志の集まりであります長州諸隊、いわば志願兵制の歩兵隊は、再編され、当時の日本におきましては図抜けた強さを誇り、薩摩に匹敵する歩兵団が誕生するのですが、それはさておき。

 えーと、それで私、前回書きましたが、「俗論党」が長州の政権を握ってから、禁門の変関係者の処分は行われたと、なんとなく思い込んでいまして、俗書でもけっこうそう書いているものはあると思うのですが、それがなぜかと言えば、どうも高杉晋作が功山寺挙兵においてそのように主張した!からのようです。

この不条理大奥ゲームの異世界では、帽子屋周布さんは羽が舞う中、グリフォン椋梨さんと対峙して死に、眠りネズミ聞多くんは、なんと! グリフォン椋梨さんが放った忍者に襲われ、三月うさぎ高下駄晋作くんは家出した様子ですが、次回のお題はなんと!!! 「お世継ぎ騒動!」だそうでして、もう心底げんなりして、見る気力をもり立てるのに苦労しそう、です。

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15 コメント

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毛利元昭の誕生は (kii)
2015-07-24 10:08:08
銀姫の長男毛利元昭(興丸)は、元治2年2月7日(1865年3月4日)なんで、まだ生まれてないんじゃないですかね。
たぶん勘違いされた原因は、美和が奥勤めを始めたのは慶応元年九月なので、奥に入った時に興丸が既に居たということからだと思います。
慶応元年九月ということは、長州内訌戦もすでに終わっています。久坂の名誉も回復し、美和は久坂の未亡人というツテから、奥勤に行けるようになったんでしょうね。
でも、いったい今が何年なのかだんだんわからなくなります。それが「RPGパラレルワールド」の魔力なのかもしれません。
かろうじて、功山寺で挙兵していないので、元治元年12月15日にはなっていないとわかります。
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生まれているのではなく (郎女)
2015-07-24 15:44:37
妊娠しているのが、わかっている時期です。5ヶ月だかそこらで。男とはわかりませんが、普通、生まれるまで待つでしょう。
といいますか、まじめな話をしますと、都美姫さま自身が世継ぎを産んでいませんし、世子も支藩からの養子ですし、男の子が生まれないならば、また養子をもらってくればいいだけでして、江戸時代も末期になってきますと、正室の地位は相当にあがってきていまして、普通の士族の家では下手な妾の子なら親戚から養子、というくらいです。
嘘かほんとかわかりませんが、聞多がわめきちらしていた話では、いわゆる「俗論党」は、毛利家断絶で徳川家から養子をもらってきても、藩がこのまま存続するならいい、なんぞと言っていたそうですよ(笑)
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付け加えますと (郎女)
2015-07-24 23:34:16
正室の妊娠といいますのは、公式な祝い事ですから、正室が妊娠しているかどうかは、早くから奥女中たちも把握しますし、妊娠5ヶ月目に岩田帯を着ける御着帯は、盛大に祝うんですね。本来、そういう祝いの儀式をきちんと司ることが、奥の役目なんです。
で、いわゆるどろどろの大奥ドラマは、そういうところから妄想して、御台所と側室、あるいは側室と側室同志が、お付き女中も交えて、流産をしかけるとか、まあ、そういうところが古典です。
しかし、それも、妊娠が公式な祝い事だという基本を裏返して成り立っているわけなのですが、この不条理RPGは、基本的に藩主と世子は世帯が別、だとか、奥にどういう行事があるか、ということさえ無視していますから、見ていて、笑いもできないほどに馬鹿馬鹿しく、ひたすら疲れるだけ、なんです。
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そうですよね。 (kii)
2015-07-24 23:35:05
僕も都美姫さまが世継ぎを~というのに違和感ありました。まずそうせい候から養子ですしね。
俗論党の話ですが、「徳川家から養子」って面白いネタですね。乃木坂の件は椋梨が絡んでいる風に描かれてましたが、それなら、「徳川家から養子」を椋梨が企んだとかという話のほうが面白かったでしょうね。
妊娠の件はなるほど、失礼しました。5ヶ月なら安定期ですね。
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それが、ですね (郎女)
2015-07-25 11:13:39
私も後年に聞多がわめいたことを信じるのもおもしろいかも、という気がしないでもないのですが、園山&都美姫さまの大奥ルートを使って幕府に働きかけるとなりますと、これが、微妙、なんですね。
 といいますのも、皇妹和宮さまの母方の大叔母といわれ(私は公家の橋本家に養女に入ったのでは? と疑っています)、第12代将軍・徳川家慶の大奥に君臨しました姉小路。(http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/acedd38974bb6046fabac8494b6caa9f参照)
 で、家慶の死後に落飾して勝光院と名乗るのですが、その住まいは、周防徳山藩の麻布下屋敷にいたとか、清末藩主が宿元になって長州本藩毛利家下屋敷麻布龍土邸にいた、とか、いずれにせよ長州藩、あるいは長州支藩の江戸藩邸に、隠居屋敷を持っていた、という話、なんですね。
 ところで、禁門の変で朝敵となりました長州本藩の江戸藩邸は、すべて打ち壊され、麻布龍土町の下屋敷では、136名の藩士が捕らえられ、維新までにそのうちの51名が獄死したんだそうです。ところが、芝区白金猿町の徳山藩下屋敷は破却をまぬがれて明治まであったそうでして、もしも麻布龍土邸にいたのだとすれば、このとき、徳山藩邸に移ったのかもしれません。
微妙なのは、徳山藩出身の世子は、「正義党」支持、なんですよね。
しかし、住み慣れたお屋敷が取り壊され、二度と生まれ育った場所には帰れなくなりました園山&都美姫さまの怒りは、当然のことかと思われ、姉小路を頼って、なにがなんでも幕府と仲直り工作をした可能性は、高そうに思います。園山の書簡、とか残っていればおもしろそうなんですけれど(笑)


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そんな話が・・ (kii)
2015-07-27 09:56:29
園山&都美姫さまの大奥ルート。姉小路の隠居先が長州関係。都美姫や銀姫の生まれた江戸藩邸の打ち壊し。幕末長州の面白さの1つに本藩支藩の関係性が挙げられますよね。奥の話は疎いのですが・・。
かなり面白そうな話です。このネタで映画1本作れそうな話ですね。花燃ゆの脚本家では無理ですが(笑)。
辛抱強く花燃ゆを応援しようと努力する僕ですが、良い所がほとんど見つからない状況と、回を重ねて行く度に明後日の方向へ向かうこのドラマに郎女さんのブログにした最初のコメントした事が恥ずかしくなってきています。どうも野村望東尼さえも抹殺されるようです。
ネットで見たんですが、花燃ゆの脚本家は、当時の日本の食卓が、一人ひとりに膳があることすら知らなかったとか・・。歴史知らなくても脚本書けるぜ!と言いたいのか?
いやいや・・書けてませんから・・・というか、それは歴史ではなく常識の範疇・・・。
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kiiさま (郎女)
2015-07-27 12:04:02
私、長州藩の打ち壊しで捕らえられた藩士たちが、明治維新まで解放されなかったかのように書いてしまったのですが、慶応2年に解放されたんだそうです。徳山藩士もそうだったとかで、私、和宮さまの大叔母で、長年長州屋敷に住んでいました姉小路が、これに尽力しなかったはずがない、と思うんですね。とすれば、園山も都美姫さまも、必死の働きかけをしたはずで、のんきにおはぎや羊羹を作っていたって、悪夢みたいなお笑い異世界、と思います。
しかしKiiさまのおかげで、今回も、ちゃんと時系列を調べてみる気になりましたし、持っていたのにろくに読んでいなかった本を読み直し、目から鱗の長州史発見が相次ぎ、御礼申し上げます。
これを受信料でやられていますのが、腹が立って仕方がないのですが、ドラマの出来が悪い方が、腹立ち紛れの勉強になるのかもしれません(笑)
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時代劇 (agnes)
2015-07-28 09:20:08
デラックスマツコがいっていましたが、日本の人口構成を考えると、今こそ時代劇が求められているのですが、民放に今資金調達の点でその力がないそうです。NHKしかない。
娯楽に徹するなら、桃太郎侍や、コミックを実写化したほうが、視聴率も維持できるし、史実好きも許せるかもしれません。私はそうです。羊羹の差入れには根拠あるんでしょうか?本当にお菓子作りが文さんは美味かったのでしょうか?一連のストーリーに頭の中がグルグルになってます。大体、牢の中に、至誠の文字を彫ったのは誰!とか疑問で一杯です。
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agnesさま (郎女)
2015-07-28 11:56:23
おっしゃるように、民放でやっていますコミックの実写化は、時代劇でもけっこうおもしろいです。「仁」がその代表格で、史実からはお話にならなくとも、医学的なこともけっこう調べてあって、タイムトラベルものですし、それなりのリアリティがあって、おもしろかった、です。
元は小説なんですが、テレビ朝日が単発で作った「みをつくし料理帳」は、原作もシナリオも女性で、おいしいものにからむ細腕繁盛記みたいなものですが、けっこうおもしろかったです。
しかし、これらはNHKならばBS時代劇でやればいい範疇なんです。

http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/8e61889fbd8e3ac05a254e217e80d9da
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/a5eabeb205b9a011810955af6f0d4fff

 上の二つに書いていますが、ちゃんと歴史スペクタクルをやるつもりがないのなら、大河枠はなくした方がいいと、私は思います。
 今回みたいに視聴率ばかり気にしたあげくに、ドラマとしても最低の出来で、視聴率も最悪、というような変な試みに、受信料は使って欲しくありません。
 日本の文化遺産を守っていく覚悟で、BBCみたいにちゃんとやっていただきたいものです。

 いや、今回書いておりますが、時系列無茶苦茶なドラマで、そもそも文さんは高杉の功山寺挙兵が成功し、「正義党」が政権復帰しまして、久坂家再興が決まり、道明が家督を継いでから、久坂美和の名で奥勤めに出ますし、羊羹の差し入れにはもちろん、なんの根拠もありません。
お菓子作りをやたらに出してくるのは、おそらく、あのプロデューサーが、女はそういうものを見るのが好きだと思い込んでいるからでしょう。それと、美和と高杉をからめ、そこへ小田村もからめたかったために、もう、むちゃくちゃに時間軸をしてしまっているんです。

だから、そういうことがやりたいんでしたら、架空の主人公でやればいいんですよね。松陰の妹で久坂の妻にスイーツばかり作らせて喜んでいるから、視聴者に馬鹿にされるんです。
「三姉妹」にはじまり「獅子の時代」と、幕末ものの大河は、けっこう架空の主人公が多いんです。「花神」だって、司馬さんが架空の主人公で書いた「十一番目の志士」を原作の一つに使っていたりしますし。今回、ブログで書きますが、長州で、大奥をからめて、大河にするのなら、架空の女主人公でやった方が、はるかにダイナミックに歴史が描けた、と思いますし、架空の主人公の趣味が和菓子作りでも、いっこうにかまわないのですけれども、こう、ですね。和菓子の歴史もろくに調べないでやられましても、ねえ。疲れるかぎりです。
返信する
時間はたちましたが・・・ (袋小路)
2018-08-16 14:06:48
間の抜けた投稿で申し訳ございません。私は徳山藩関係者?ですが、
>ところが、芝区白金猿町の徳山藩下屋敷は破却をまぬがれて明治まであったそうでして、もしも麻布龍土邸にいたのだとすれば、このとき、徳山藩邸に移ったのかもしれません。>
との御推測の件。徳山藩の史料によりますと、文久元年(1861)2月に「勝光院殿住居手狭に付青山大膳大夫殿屋敷内156坪余り御借地相成」とあります(青山大膳は今井谷上屋敷の隣の主です)。この「勝光院」って何者?という疑問から、今頃、この貴WEBにたどりついたのですが、勝光院は1864年の禁門の変よりも前に既に徳山藩麻布今井谷上屋敷に住んでいたことになりますね。確かに禁門の変でこの屋敷は没収にはなりましたが破却されず、若年寄兼外国奉行の堀直虎(須坂藩)の屋敷となっております。維新後徳山藩主毛利元蕃は徳山藩知事邸として再びこの屋敷を賜っています(短期間ですが)。勝光院がいつまでこの屋敷に住んでいたかはわかりません。しかし徳山藩邸が破却されなかったのは勝光院が住んでいたからだと思いますがいかがでしょうか?
勝光院と萩藩との関係はなんとなくわかりますが、なぜ徳山藩邸に隠居していたんですかねぇ?別項での郎女さんの勝光院と徳山藩の関連推測、今一つモヤモヤ感があります。本藩支藩の関係?是非このへん解明したいと思っているんですが・・・・。何かお知恵拝借できませんでしょうか?
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