郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.7

2012年11月20日 | 尼港事件とロシア革命

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.6の続きです。

 お話を、尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.4で書きましたドクトル・ジバゴにもどします。

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ドクトル・ジバゴ (新潮文庫)
江川 卓,ボリス・パステルナーク,Boris Leonidovich Pasternak
新潮社


 パルチザン部隊から脱走しましたユーリ・ジバゴと、夫パーシャ(ストレルニコフ)が失脚しましたラーラと、ボルシェビキ政権から要注意人物視され、逮捕の危険にさらされました二人を、ラーラの昔の愛人コマロフスキーが、極東に誘います。
 そのときのコマロフスキーの台詞が、原作小説では、以下のようなのです。

 「いま沿海州、太平洋沿岸地域ではですね、顛覆された臨時政府や解散させられた制憲会議に依然として忠誠を誓う政治勢力の結集が進行しているんです。旧国会(ドゥーマ)議員、社会活動家、元地方自治機関(ゼムストヴォ)の有力者、実業家、工場主といった人たちが同地に集まってきています。白系の義勇軍部隊の将軍たちも、あそこに残存兵力を集結させています。
 ソヴィエト政権はですね、この極東共和国の成立を見て見ないふりをしているのです。辺境地帯にこういうものができるのは、赤色シベリアと外の世界との間の緩衝地帯になるわけです。ソヴィエト政権にとっても好都合なんですな。この共和国の政府は連立政権ということになるはずです。閣僚の椅子の過半数は、モスクワの要求で共産党員に留保されることになりましたがね、モスクワは、その過半数にものを言わせて、その機が熟したら、クーデターを起して、共和国を手中におさめようと狙っているわけです。この狙いは見えすいたことでしてね、ですから、問題はただ一つ、残された時間をいかに有効に活用するかなんです」


 極東共和国樹立宣言が1920年4月6日、つまり尼港事件の最中のことでして、としますと、ドクトル・ジバゴの映画におきまして、ユーリとラーラがベリキノの氷の宮殿で最後の時を過ごしましたのは、ちょうど尼港事件のころであり、コルチャーク政権の時代、ユーリはほとんど、パルチザン部隊に連れ回されていた、ということになるのでしょうか。
 ちなみに、ユーリはラーラ一人をコマロフスキーとともに極東へ逃がし、自分はモスクワへ帰ることになります。ラーラは極東でユーリの子を産むのですが……。

 激動のロシア。
 コルチャーク政権の崩壊は、すさまじい悲劇を引き起こしました。
 なんで読んだのか忘れてしまいまして、個人の方のサイトに「バイカル湖の悲劇」と題して載っているのですが、典拠がわかりません。
 ともかく、赤軍に追われました125万人の白軍関係者が東をめざしたのですが、そのほとんどが途中で凍死してしまい、やっとのことでイルクーツクまでたどり着きました人々の前に、ひろがっておりましたのが凍りついたバイカル湖です。
 25万の人々が氷上を進むうち、吹雪におそわれて全員が凍死し、遺体はそのまま凍りついて湖上の彫像となってしまったのだそうなんです。

 この人々の中には、女、子供がたくさんいたわけなのですが、これは、赤軍が人質制度(!)をとり、政敵の妻子、親族、友人を連座させたからです。
 コルチャークの愛人だったアンナ・ヴァシリエヴナ・チミリョーヴァが長年ラーゲリーに放り込まれたのも、夫が失脚してラーラが逃げなくてはならなくなったのも、そのためです。

 
ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918~23)―レーニン時代の弾圧システム
セルゲイ・ペトローヴィッチ メリグーノフ
社会評論社


 この「ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル」に、イギリス領事ロッカートが1918年11月10日に記した文章が引用されています。
 「ボルシェビキは人質を取るという忌まわしい慣例を復活させた。さらにひどいことに、彼らは政敵を撃ち殺し、彼らの妻に復讐した。最近ペトログラードで多数の人質名簿が公表されたとき、ボルシェビキはまだ逮捕されていない者の妻を捕らえ、夫が出頭するまで彼女らを監獄に抑留した」

 抑留されるだけでしたらまだしも、なのですが、チェーカー(ボルシェビキの秘密警察)は拷問を許容していましたし、惨殺にいたることもしばしば、でした。
 この連座制は「復活させた」といいますより、ソビエト・ロシア共産党独裁政権の発明ともいえるものでして、以降、各国に伝搬しまして、現在でも北朝鮮で行われていることですし、中国でもまだ、廃止されたとは言えない状態です。

 ロシア革命の亡命者は、全部あわせますと百万をはるかに超えます。
 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.5で書きました皇太后マリア・フョードロヴナのように黒海経由、ペテルスブルグ生まれの日本学者セルゲイ・エリセーエフがたどったフィンランド経由が、主なヨーロッパ・ルートでして、この場合は、大方、最終目的地がフランスです。
 なにしろ、貴族やインテリ層のロシア人は、フランス語が自国語のように話せました。

 とはいいますものの、子供のころ、一家で黒海経由、パリに亡命し、フランスの小説家となりましたアンリ・トロワイヤの祖母はコーカサス生まれで、チェルケス語を母語とし、フランス語どころかロシア語もろくに話さなかったのだそうです。

 ドクトル・ジバゴのラーラは、コマロフスキーと極東へ行き、極東共和国の終焉とともにコマロフスキーはモンゴルへ逃れ、映画では、ラーラは幼い娘(ユーリの子)とモンゴルではぐれたことになっています。
 モンゴルというのは、現在の内モンゴル、中東鉄路(東清鉄道)が通っています満州里なども含みますし、シベリアの農民やコサック、ブリヤートなどが、村ごと集団で亡命したケースが多かったでしょう。ボルシェビキはあらゆる宗教を弾圧しましたから、信仰のためにそうしたケースもけっこうあります。

 個人ルートとしましては、コルチャーク政権の崩壊前後、そして、日本軍がシベリアから撤退し、極東共和国が崩壊しました1922年を中心としまして、主には、シベリア鉄道から中東鉄路を乗り継ぎ、鉄道付属地で、ロシア人の自治が行われていましたハルビンへ行くか、そこからさらに、天津や上海など中華民国の租界へ行くケースと、ウラジオストク経由船便、あるいは鉄道で朝鮮や日本の港に渡り、さらに上海やアメリカに渡るケースが多かったのではないでしょうか。

 1919年10月、ニコラエフスクは平和で、政変の予兆などまったくありませんでしたことは、尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.3でご紹介しました、人類学者・鳥居龍蔵の「人類学及人種学上より見たる北東亜細亜. 西伯利,北満,樺太」で、うかがい知ることができます。

 オムスクはシベリアの西の端で、極東のニコラエフスクからは遠いですし、その遠いオムスクで、チェコ軍団の引き上げが決まり、コルチャーク政権が崩壊し、それによってニコラエフスクまでが赤軍パルチザンに襲われようとは、予想もできなかったことだったのでしょう。

 ただ、鳥居龍蔵は、「中国の砲艦が自国民保護のためにニコラエフスクで越冬するというのに日本の軍艦は引き上げてしまったと、在留邦人は残念がっている」というようなことを、述べています。
 ニコラエフスクには、2000人あまりの華僑がいたのですけれども、中国の砲艦は別に、華僑保護のために越冬しようとしていたわけではありません。
 CiNiiに有料でありますが、伊藤秀一氏の『ニコラエフスク事件と中国砲艦』(ロシア史研究23 収録)に詳しく、概略はwiki-尼港事件にまとめてありますので、ご参照ください。
 要するに、中華民国の北京政府(北洋軍閥政府)は、ロシア革命の混乱に乗じ、アムール川の通行権を拡張しようと砲艦4隻を送り込んだのですが、白軍のアタマン・カルムイコフ軍の砲撃を受け、やむなく引き返して、ニコラエフスクで越冬することとなりました。

 しかし結局、この砲艦が赤軍パルチザンの味方になりましたことから、ニコラエフスクの日本軍は敗北を喫し、在留邦人は皆殺しになったとも言えるわけでして、在留邦人たちが中国砲艦の船影に不吉なものを感じていたのだとしましたら、その予感は、まさにあたっていました。
 事後の「たら」話は意味がないものではあるのですが、もしかしてこうしていたら尼港の惨劇はふせげたのではないか、ということの一つが、日本海軍も砲艦数隻をニコラエフスクで越冬させていれば、ということです。
 日本軍が中国艦隊を上回る砲艦を持っている、といいますそれだけのことで、赤軍パルチザンの暴虐は、押さえることができた可能性があります。

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.3で書きましたが、冬のニコラエフスクの人口は12000人。
 その半分以上、6000人を超える住民が惨殺され、日本軍守備隊と在留邦人、あわせて731名も、老若男女の別なく皆殺しとなりました尼港事件について、尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.1ですでに引用いたしましたが、井竿富雄氏は、『尼港事件と日本社会、一九二〇年』において次のように書いておられます。

 軍人が武装解除されて殺害、民間人のみならず国際法上保護されているはずの外交官まで殺害されるという、これまでに日本が経験したことのない大惨事であった。この事件で邦人殺害を指揮したパルチザン部隊のリーダーたちはのちにボリシェヴィキ政権によって処刑された。機密文書である参謀本部の『西白利出兵史』ですら「千秋ノ一大痛恨事録シテ此ニ至リ悲憤ノ涙睫ニ交リ覚エス筆ヲ擲ツ」と感情的な一節を書き記している。

 エラ・リューリも、80を超えて「ニコラエフスクの破壊(原題:Gibel Nikolaevska-na-Amure 米題:THE DESTRCTION OF NIKOLAEVSK-ON-AMUR)」を英訳し、その書の前文に、次のように書いています。

 本書の翻訳は、私にとって、大変心の痛む作業であった。この惨劇に、私の家族が巻き込まれていたから、というだけでなく、テロ行為を行った人間のおぞましさが、事細かに記述されているからである。

 事件からすでに100年の歳月が流れているのですが、生々しい当時の証言を読みますと、「ふせぐことができていたならば!」と、痛切に思わずにはいられません。

 ロシア内戦では、バイカル湖の悲劇のような大規模な惨劇があたりまえのように生じ、数の上から言いますならば、6000人の惨殺も、たいしたものとは言えないのかもしれません。
 人道の港 敦賀ムゼウムにポーランド孤児の話が載っておりますし、外務省の「外交史料 Q&A 大正期」にも概略が載っておりますが、多くのポーランド人が内戦にまきこまれ、あるいは祖国独立のために白軍に参加し、ボルシェビキによる迫害を受け、シベリアでは孤児がさ迷っておりました。
 もちろんそれは、ポーランド人だけではなく、ドクトル・ジバゴのラーラとユーリの子供が孤児になりましたように、多くのロシア人孤児たちもいたわけです。

 あるいは、尼港事件の翌年、1921年から1922にかけましてのロシアの大飢餓は、梶川伸一氏の「幻想の革命―十月革命からネップへ」に詳細が載っておりますが、人肉食があたりまえになったほどにすさまじいもので、伝染病も手伝い、死者は500万人とも3000万人とも言われております。

幻想の革命―十月革命からネップへ
梶川 伸一
京都大学学術出版会


 もっとも飢餓が深刻でしたヴォルガ地方のサマラ県(現在のサマラ州)において、1921年12月16日のソビエト大会で述べられました報告の最後は、次の言葉で結ばれていたのだそうです。

 「状況は非常に苦しい。このことについて、われわれは全ロシアと外国に語らなければならないし、援助は十分ではないとの農民の声に耳を傾けて欲しい。もしこの援助が近い将来に増えないなら、何万もの農民は死滅し始めるであろう。今や彼らは何千となって死滅しつつある。人間の死体が掘り起こされて食べられ、飢餓で正気を失って、肉を食べるために自分の血を分けたわが子に襲いかかるとの情報を、われわれは持っている」

 「ポヴォーロジエ(Povolzhye)飢饉」で検索してみてください。おぞましい写真がいくつも出てくるのですけれども、これは決して、捏造ではないんです。

 この飢餓は、天災も手伝ってはいるのですけれども、人為的、構造的なものでもありまして、人類史上初のロシア共産主義革命は、目のくらみますような大量虐殺を巻き起こしながら、壮大な実験を続けていきます。やがてこれは中国に受け継がれ、北朝鮮に、ベトナムに、カンボジアに、世界中に飢餓と虐殺の赤い嵐が巻き起こることになっていくわけでして、尼港事件は、規模としましてはささやかなんですけれども、おぞましい、典型的な赤色テロルであったことに、まちがいはありません。

 長くなりましたので、続きます。次回で終われるのではないかと、思っています。

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