郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.6

2012年11月18日 | 尼港事件とロシア革命

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.5の続きです。

 日本におきまして、ロシア革命の本はけっこう多いのですけれども、ロシア内戦の本は、あまり出されていないように思います。
 「ロシア革命の本」といいますのは、基本的には、1919年10月のボルシェヴィキ革命を肯定している場合が多く、自然の流れとしまして、それに抵抗しました勢力の大方を反革命勢力と規定し、多大な死者と亡命者を出しました内戦の実体を、きっちり描いてくれてはいないように思うんですね。
 それでまあ、冒頭から映画の紹介になりますが。

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 いや、映画として、決しておもしろいわけではないんですけれども……、なにしろコルチャーク提督の伝記の和訳がありませんで。
 なにがおもしろくないって、映画の制作者もどう描けばいいかとまどっていたのでしょうか。コルチャークがなにをめざして行動していたのかがよくわからない描き方ですし、かといいまして、話の中心になっています不倫の愛に感情移入できるかといいますと……、これがまたさっぱりでして。

 しかし、それにしても、ですね。
 コルチャークの愛人だった、といいますのは、日本でいいますならば、桐野利秋の愛人だった、といいますのとあまり変わらないと思うのですが、アンナ・ヴァシリエヴナ・チミリョーヴァは、それが理由で長期間ラーゲリー入りしたそうでして、ほんと、共産主義って怖いですねえ。

 アレクサンドル・コルチャークは、日露戦争にも参加経験がありますロシア海軍の提督でして、第一次世界大戦では、バルト海最奥のフィンランド湾で、対独戦に活躍しておりました。
 映画がどこまで事実を描いているのかさっぱりわからないのですが、ケレンスキーとの関係は悪くなかったようでして、1917年2月革命の後、臨時政府によりましてアメリカに派遣され、映画では出てきませんけれども、その後、日本にも来ていたんだそうなんです。

 ロシア内戦期、連合国の支持のもと、白軍を指揮しまして、オムスクを中心とし、ウラル以東、シベリアに政権を樹立していましたが、赤軍に敗れ、銃殺されました。
 したがいまして、ソ連におきましては長らく、反動的な帝国主義の反逆者でしかなかったわけなのですけれども、ソ連が崩壊し、ロシアの時代になりまして、映画の主人公となって肯定的に描かれ、2003年、イルクーツクに銅像が建てられているそうです。



 一橋大学機関リポジトリで、細谷千博氏の「シベリア出兵の序曲」が公開されております。その二章「ボルシェビキ革命と日本の最初の反応」に出てまいりますが、10月革命直後の1917年11月21日、ボルシェヴィキ政権の外務人民委員トロツキーは、ペトログラード駐在の連合国外交代表に、新政権の成立を通告し、同時に、「ドイツなどの同盟国側と即刻に停戦し、単独講和協議をはじめるので了承してくれ」と要望しました。

 えーと。西部戦線で、イギリス、フランスは国家の総力を傾けて苦戦中です。
 アメリカは参戦を表明しましたが、まだ、フランスの戦線には加わっていません。
 ロシアが、「一ぬけたっと!!!」と叫ぶのを、黙って見ているはずがないんです。
 しかし、ボルシェビキ政権が国民多数の支持を得るには、停戦を実現させるしか、道はありませんでした。

 ボルシェビキ政権の中心にいますのは、ドイツが送り込み、莫大な資金を提供されたとまで噂されましたレーニンです。
 正真正銘、10月革命以降のロシアには戦う気がないとわかっていましたドイツは、休戦が終わりました1918年2月、大きく攻勢に出て、ペトログラードまで攻めよせてきそうな勢いでした。
 そのため、ボルシェビキ政権は、講和交渉で譲歩の上にも譲歩を重ねまして、現在のバルト三国、ベラルーシ、ウクライナにまたがります広大な領土をドイツに割譲することで、1918年3月3日、ようやく、ブレスト=リトフスク条約を結び、単独講和にこぎつけました。

 しかし、ですね。
 ベラルーシ、ウクライナの穀倉地帯、バルト三国の資源、工業地帯を失い、ロシアの飢餓はますますひどいものとなります。当然のことですが、連合国からは敵視はされますし、ボルシェビキ政権は求心力を無くして、ロシアは内戦に突入します。
 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.4に追記しておりますが、1918年、ブレスト=リトフスク条約の後にこそ、飢餓も鉄道輸送の麻痺も、より深刻なものとなり、人々は食料を求めて地方への移住を開始しします。

飢餓の革命―ロシア10月革命と農民
梶川 伸一
名古屋大学出版会


 梶川伸一氏の「飢餓の革命―ロシア10月革命と農民」によりますと、10月革命以降の飢餓は穀倉地帯を失ったためとよくいわれますが、かならずしも、それだけが原因では、なかったみたいなんですね。
 戦争が終結しましたことによって、復員がはじまります。
 都市の戦時労働者も、多くは職を無くして、農村に帰る者も続出します。

 ボルシェビキ政権は、臨時政府のときからの穀物買い取り価格を、そのまま固定したのですが、これが異常なまでに安いものになっていまして、例えば衣料など、他の生活必需品の値段は高騰していますから、そんな価格で穀物を売り渡したのでは、農民は生活できません。
 そんなわけでして、農民自身や、復員兵や戦時労働者だった貧民などが、いわゆる担ぎ屋になりまして、闇で売買することになったんですね。
 そうできなかった穀物は、多く、サモゴンカ(密造発酵酒)に化けてしまったのだそうです。

 ところがなにしろボルシェビキ政権にとりましては、「農民が生産する穀物は国家資産であり人民資産」でして、「穀物の国家専売」が正義です。やがて、それは暴力的に実行されていき、内戦末期の1921年から1922年にかけましては、ポヴォーロジエ(Povolzhye)と呼ばれますすさまじい飢饉が起こり、人肉食もあたりまえとなって、大戦の戦死者を上回ります500万人(一説には3000万人)が餓死したといわれます。
 これにつきましては、下の「幻想の革命―十月革命からネップへ」に詳しく載っています。

幻想の革命―十月革命からネップへ
梶川 伸一
京都大学学術出版会


 復員がはじまり、また都市部の飢えで、農村回帰をする労働者が増え、一人あたりの農地面積は少なくなって、とても暮らしていけなくなりましたロシア西部、中央部から、シベリアへの移住希望者が激増します。
 戦時中のロシアでは、農民の他村への移住は禁じられていました。しかしそれが解禁され、1918年の4月からは、一月に2万人を超える移住者が、シベリアに向かったんです。農民だけではなく、ドクトル・ジバゴ一家のように、モスクワでは飢え死にするしかないと見極めて、東へ向かう人々も多かったのでしょう。

 ところがそのシベリア鉄道は、戦時中にもまして、運行が麻痺しておりました。
 とりあえず戦時輸送は終わりを告げたのですが、復員の混乱が始まり、さらにシベリアとウラルの収容所にいました100万にのぼりますドイツ・オーストリア・ハンガリーの捕虜を帰国させるため、西へ輸送しておりました。
 そこへもってきまして、ケレンスキー攻勢で大活躍をしました数万のチェコ軍団が、反対に東へ向かうこととなったのです。

 なにしろロシアは、ドイツ・オーストリア・ハンガリー・トルコなど同盟国と単独講和を結びました。
 オーストリア国民でありながら、独立を志し、敵対して戦っておりますチェコ軍団は、同盟国側に捕まりました場合、その場で銃殺されても文句は言えない立場です。
 フランスの画策もあり、結局チェコ軍団は、シベリア鉄道で極東ウラジオストクへ出まして、太平洋を渡ってアメリカを経由し、大西洋を越えフランスへ行き、西部戦線に参加する、という計画が立てられました。

 ところがこれが、スムーズに進まなかったんですね。
 シベリア鉄道では、飢えた国民が、大挙して東に向かっている最中です。
 1918年5月、チェコ軍団の一部は、すでにウラジオストクに到着していましたが、いまだ大部隊が西部ヴォルガ地方、ペンザ市、シベリア鉄道の起点チェリャビンスク(ニコライ2世一家が殺害されましたエカテリンブルクのすぐ南です)に残り、ノヴォシビルスクなど、シベリア沿線途中にいる部隊もある状態で、完全に停止してしまいました。
 
 いったいいつになればロシアを出国できるのか、チェコ軍団は苛立ちを募らせていたのですが、そこへもってきまして、各所で西へ向かっておりますオーストリア・ハンガリーの帰還捕虜たちと遭遇して小競り合いを起こし、ついにチェリャビンスク駅で殺傷事件が起こります。
 
 ボルシェビキ政権は慌てました。
 ドイツを拝み倒すようにして結びました講和条約です。なにがなんでも迅速に、捕虜を帰国させなくてはならず、その障害となりますチェコ軍団は、やっかいなだけでした。
 そこで、軍事人民委員で最高軍事会議議長のレフ・トロツキーは、チェコ軍団輸送にかかわります鉄道沿線のすべてのソビエトに、なにを血迷ったのか、「チェコ軍団を武装解除し、逆らえばその場で銃殺しろ」というとんでもない命令を発しました。

 馬鹿ではないのでしょうか。
 ロシア国内に、チェコ軍団を武装解除できるほどの健全な軍隊が残っていれば、屈辱的な譲歩を重ねてまで、ドイツと講和条約を結ぶ必要もなかったでしょう。

 命令に従い各地ソビエトはチェコ軍団を武装解除しようとし、当然のことですが、チェコ軍団は怒って反撃に出ました。
 結果、ヴォルガ地方、ウラル、シベリアの各地で、チェコ軍団はソビエトを倒し、ボルシェビキ党と軍事コミッサールの指導者の方が、銃殺されることになったんです。
 喜んだのは、ロシアの反ボルシェビキ勢力です。

 反ボルシェビキ勢力といいましても、これが多種多様でして、ケレンスキーが所属しておりました社会革命党やメンシェビキなど、社会民主主義的な勢力から帝政派(帝政派といいましてもここまできますと立憲君主主義者がほとんどなのですが)、地域分離主義(例えばシベリア独立派)などさまざまで、まとまりのつきようがなく、その点、一党独裁で強固に一本化しましたボルシェビキに負けておりました。

 ボルシェビキの軍隊が赤軍を自称しておりましたために、これら反ボルシェビキの軍事勢力を白軍と呼びますが、最近では、社会民主主義的な勢力の軍であった場合、ピンクなどと呼ぶこともあるようです。ちょっとこれは、馬鹿馬鹿しい気がしまして、反ボルシェビキであれば、すべて白軍としておきます。



 上は1914年、世界大戦開戦の年のニコライ2世一家ですが、一家が、監禁されておりましたエカテリンブルクにおいて、1918年7月17日、ボルシェビキのチェーカー(秘密警察)指揮で惨殺されましたことも、チェコ軍団の蜂起と関係がなくはありません。
 なにしろ近くのチェリャビンスクで、チェコ軍団によってソビエトが倒され、白軍が勢いを得ていましたので、元皇帝一家が白軍に奪われ、反ボルシェビキ運動にさらなる拍車がかかることを、ボルシェビキは、怖れずにいられなかったわけなのです。

 フランス・イギリスを中心とします連合国は、ボルシェビキ政権が、連合国側の秘密外交文書を暴露しましたあげくに単独講和し、帝政ロシアの多大な債務を放棄すると宣言したことで怒り心頭に発しておりまして、しかも、ロシア側の事情を考慮して、シベリア・アメリカ経由でのチェコ軍団ロシア退去となったにもかかわらず、です。「武装解除に応じなければ銃殺!!!」なんぞと、馬鹿げたことをわめくボルシェビキ政権を、なんとかできないものかと嘆息しておりました。

 とはいいますものの、国家の総力を傾けてドイツと戦っておりますフランスとイギリスに、ロシアの内政に干渉する兵力の余裕が、ありえようはずもなく、日本とアメリカを誘っていたのですが、これがなかなか、調整がつきませんでした。
 そこへ、僥倖のようなチェコ軍団の活躍です。
 フランスの西部戦線は遠いですし、これでロシアの白軍が勢いづき、ボルシェビキ政権が倒れてくれたとすれば、儲けものです。

 シベリア出兵をしぶっておりましたアメリカに、「独立を志すけなげなチェコ軍団が、シベリアでいじめられているんだぜい! あいつら(ボルシェビキ)は、ドイツを引き込んで、シベリア鉄道を支配させてしまうかもしれない。ぜひ日本といっしょに、チェコ軍団救出のために出兵してくれ」ともちかけます。

 そんなわけで、アメリカは出兵の決心をしますと同時に、日本にも共同出兵を提案し、1918年8月、チェコ軍団の蜂起からわずか3ヶ月足らずで、日本のシベリア出兵は実現したのですけれども、その経緯に関しましては、私、まだ文献をあさっている最中でして、またの機会に譲ります。

 

 上は、シベリア出兵を描きました当時の日本の画帳『救露討獨遠征軍画報』のうち、ウラジオストク上陸を描いたものです。
 ものすごくりっぱなイラスト集みたいなのですが、いったい、どのくらいの部数出版されて、どのくらい売れたのでしょうか。
 
 さて、ニコラエフスクです。
 1918年、ニコラエフスクにおきましても、エラ・リューリによりますと「住民の多数派から支持を受けたわけでもないのに」、短期間ながら、ボルシェビキのソビエトによる支配が強行されました。しかし、当時の赤軍はサハリン州(以前に書きましたが、この当時のサハリン州は北樺太+アムール川下流域です)全体でわずか300人でして、ボルシェビキは行政権は得ましたものの、経済全体を統制することはできませんで、鉱山と河川輸送を国有化しただけで、他の私企業はそのままでした。
 しかし、このおだやかな政策はボルシェビキからは非難を受け、そのことが、尼港事件直前、再来しましたときの暴政につながっていったようです。

 ただ、ですね。
 1917年(大正6年)12月9日付けですから、最初のボルシェビキ政権下の話として、大阪朝日新聞が島田元太郎の談話を、次のように伝えています。(神戸大学電子図書館 新聞記事文庫 大阪朝日新聞 1917.12.9(大正6) 在露邦商陳情

 私の店でも従来七名の露国人を使役して居ましたが例の雇人組合から増給せよとか主人の権力を認めないと云う様な通牒がありましたので出発前に全部解傭し現在では日本人許りを使用して居ます斯う云う時にそれが露西亜人であると解傭ところでは済みません反対に被傭人の方から非道い目に遇います西伯利亜随一の大商店たるチウリン等も滅茶々々になりました

  つまるところ、島田元太郎は、「ニコラエフスクの私の店でもロシア人7名を雇用しておりましたが、組合から『給料を増やせ、主人の権力は認めない』と言ってきましたので、日本へ帰る前に全部解雇して、使用人は日本人のみにしました。しかし、経営者がロシア人であれば解雇してすませるわけにもいきません。西シベリア一の大商店だったチューリン商会も、それで、めちゃくちゃになってしまいました」と言っているわけです。

 島田はまた、ウラジオストクの状況についても、以下のように述べています。

 烏港(ウラジオストク)は割合に能く治安が維持されて交通機関も平常の如く運転し小学校等も開校して居ますがそれでも過激派の勢力は此の地にも及び労働者や義勇兵等は皆其の群に投じ上長の命令等少しも行われず労働者や兵士は遊んで居ても一箇月一千留から一千五百留迄の収入があって官吏や士官は却て夫れ以下の収入に泣いて居る先月米国の軍艦が一隻入港しましたが烏港の治安は寧ろ同艦の入港によって維持される観がある夫は露国人自身が自国の混乱に困り心ある人は外国の干渉を竢って過激派を押えんと思って居る矢先きなので米艦の入港により陸戦隊が上陸するとか甚だしきは日本の軍艦が数隻港外に居ると云う様な風説を流布したので流石の連中も縮み上って居ります

 「ウラジオストクの治安は割合によく、交通機関も平常に動いていて、小学校(日本人小学校と思われます)も開校しています。しかしやはり、過激派(ボルシェビキ)の勢力はおよんでいて、労働者や義勇兵などは、命令をきかずに遊んでいても、1000ルーブルから1500ルーブルのお金をくれることになっていて、士官や役人の収入の方が少ない状態です。先月、アメリカの軍艦が一隻入ってきましたが、これによってウラジオストクの治安は維持されているとさえいえます。ロシア人自身が自国の混乱に困っていましてね、心ある人々は、外国が干渉をはじめてくれたら過激派を押さえることができるだろう、と思っている矢先のことで、陸戦隊が上陸するとか、日本の軍艦が数隻港外にいる、というような噂を流したので、さすがに過激派連中も怯えて、おとなしくなった次第です」

 実はソビエト側の資料によりますと、「ニコラエフスクの支配階層市民102名が日本軍を招聘した」とあり、日本側の資料にも、尼港市民と内外居留民(イギリス人、アメリカ人などもいました)が日本海軍陸戦隊の上陸を請願したとありますが、1918年には、島田元太郎を中心としまして、そういう請願が行われたとしましても、おかしくない状況だったようです。

 そして1918年9月、ニコラエフスクに日本海軍陸戦隊が上陸し、ボルシェビキのソビエト政権は追われました。
 以降、詳しくはwiki-尼港事件を見ていただきたいのですが、日本海軍陸戦隊は陸軍と交代します。
 同時に、ニコラエフスクも、ウラジオストクとともに、オムスクに成立しましたコルチャーク政権下の白軍が駐屯することとなり、治安が維持されて、にぎわいがもどってまいりました。

 しかし、ですね。
 簡単に言ってしまいますと、コルチャーク政権の樹立は、チェコ軍団の活躍にささえられたものだったんです。
 日本がシベリア出兵を実行しましたのは1918年の8月ですが、それからわずか3ヶ月後、ドイツで革命が起こり、11月11日、ドイツは連合国との休戦に応じます。
 オーストリア・ハンガリー帝国は崩壊し、連合国はチェコスロバキア共和国の建国を承認していましたが、1919年9月10日、サン=ジェルマン条約によりまして、建国は正式なものとなります。

 日本のシベリア出兵によりまして、治安はかなり保たれるようになりましたし、チェコ軍団には、早期帰国を望む声が満ちておりました。しかしそれでも、フランスの策動で、シベリア鉄道沿線の治安維持にあたっていたのですが、ついに1919年の暮れには、帰国が実行されます。
 これによってコルチャーク政権は崩壊に追い込まれ、1920年1月には、コルチャークはボルシェヴィキ側に引き渡され、処刑されることとなりました。

 ニコラエフスクもパルチザンが押し寄せる事態となり、再度、ボルシェヴィキ政権に支配されるのですが、長くなりましたので、次回に続きます。

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