郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。フランス、イギリスを主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには映画、読書、旅行の感想も。

尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.5

2012年11月10日 | 尼港事件とロシア革命

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.4の続きです。

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.3で書きましたけれども、第一次世界大戦が始まった後にも、ニコラエフスクではそれほど、食料不足にはならなかったのではないか、と推測されます。

 1919年(大正8年)の10月、人類学者の鳥居龍蔵が訪れた時、ロシア資本の百貨店には商品が無く、島田元太郎の店の方が品揃えがよかった、ということを書いたのですが、1914年(大正3年)の開戦以来、ヨーロッパからの商品がまったく入らなくなり、さらにはロシアの鉄道輸送が滞って、ロシア西方・中央部との商品の流通は、スムーズにいかなくなっていたんですね。
 しかし、ニコラエフスクは、船舶によって日本との通商が可能でしたし、アムールの河川交通によって、満州からの食料品輸入も、順調に行われたものと思われます。
 ただ、贅沢品はどうだったのでしょうか。

 私、エラ・リューリと同じ年、1909年(明治42年)生まれの日本人ってだれがいるのかな、と思ったのですが、有名どころでは太宰治ですね。
 女性で、幼少期のことを書き残している人は? とさがしましたところ、森鴎外の次女・小堀杏奴がそうでした。
 もっとも、小堀杏奴は父・鴎外のことは詳しく書き残していますが、自分の子供時代について、それほど詳しく時代相を描写してはいませんで、六つ年上の姉・森茉莉の方が、明治末から大正にかけましての子供時代を、生き生きと書き残してくれています。

父の帽子 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
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講談社


 この「父の帽子」に、ドイツのカタログ通販で、鴎外が茉莉の洋服を取り寄せる様子が記されているんですね。

 どれも私の気に入ったが、九つ位の頃だった。夏の始めに独逸(ドイツ)から箱が届いて、中から真白な、雪のようなレエスの夏服が出て来た時の嬉しさは大変だった。細い、絡み合ったレエスで、布と布の間が縛がれている。複雑な飾りの、ひどく美しい白いレエスだった。

 茉莉さんは1903年(明治36年)生まれですから、九つの年といえば1912年(明治45年・大正元年)。
 ベルエポックのファッションでは、子供服にも白いレースが多用されています。
 しかし、なぜパリではなく、ドイツの通販だったのでしょうか。やはり、鴎外がドイツ留学していたために、なにかと勝手がわかってドイツの方が便利だったんでしょうか。

ベル・エポックの百貨店カタログ―パリ1900年の身装文化
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アートダイジェスト


 森鴎外は、陸軍軍医総監にまでなっていますから、ロシアの基準でいえば貴族ですし、華族になってはおりませんが、娘たちにも、上流に近いアッパーミドルの暮らしをさせていた、とはいえるでしょう。
 しかし、エラが生まれたころには、リューリ家はかなりの富を築いていたようですので、開戦前の幼い頃には、上のようなカタログで、パリのデパートから白いレースの子供服を取り寄せて、着せてもらっていたかもしれません。

 実は、子供のころ、ニコラエフクスにおいて、もしかしますとエラと遊んだこともあったかもしれません、同い年の日本人の女の子がおりました。
 尼港事件で殉難しました石田虎松副領事の長女、石田芳子です。

 

 事件の時、エラと同じく日本にいまして、虐殺をまぬがれました芳子は、「敵を討って下さい」という詩を作っております。以下、溝口白羊の「国辱記」から、最初の部分を引用です。

 寒い寒いシベリアの、ニコラエフスク
 三年前の今頃は、
 あたしも其所(そこ)にをりました
 お父様とお母様と、妹の綾ちゃんと
 それからなつかしい沢山の日本人と
 お国をはなれて、海超えて
 遠い外国に住んで居る日本人は
 誰でも親類の様に、又兄弟の様に
 行つたり来たりして、仲よく暮らして居ります
 日本からつれて来たのなら、
 一匹の犬でも皆でだいて可愛がります
 寒い寒いシベリアに居ても、
 日本人同志の心と心の交りは、
 いつもいつもあたたかです


 事件(1920年)の三年前、といいますから、1917年(大正6年)、ロシア革命が起こった3月には、ニコラエフスクにいた、ってことなんですね。

 すでに故人となられているようですが、石田芳子さんの娘さん、つまり石田虎松副領事のお孫さんになられます櫻井美紀さんのホームページの「桃の節句、雛の月」に、芳子さんが父から贈られましたロシアの人形の写真が載せられています。
 故人の方のHPですので、いつ消えるのかちょっと不安でして、以下、引用させていただきます。

 これは1914年にモスクワの祖父から東京の母(当時5歳)に送られたロシア人形。祖父は明治大正期の外交官でした。

 このお人形が祖父の手で日本に送られてから90年経ちました。そのあとロシア革命がおこり、その機に乗じて日本政府はシベリアに7万人もの兵を送りました。いわゆる「シベリア出兵」です。シベリア出兵のことは別のページに書きますが、1920年にニコラエフスクという小さな町でパルチザンと日本軍の衝突事件がありました。これが「尼港事件」といわれる事件です。そのときの死者はロシアの市民約4000人、日本人約600人でした。領事だった祖父は家族(当時38歳の祖母、7歳だった叔母、3歳だった叔父)とともにその地で亡くなり、東京に帰っていた母(事件当時11歳)だけが生き残りました。遺児として育った母はやがて結婚し、私たち姉妹と弟たちをもうけ、母として、妻として愛に満ちたおだやかな日々を送り、2001年に92歳で亡くなりました。
 これは母、石田芳子の愛と哀しみのこもった形見のロシア人形です。


 

  前列左の女性が、石田副領事夫人うらき。中央が芳子の四つちがいの妹・綾子。前列右が石田虎松副領事、その後ろが島田元太郎(ピョートル・ニコラエビッチ・シマダ)、後列左の男性が誰なのかは、わかりません。
 
 「国辱記」などによりますと、石田虎松副領事は、母子家庭に育って苦学をしたそうでして、東京のニコライ神学校から東洋協会露語学校に転じ、明治31年外務省留学試験に合格してウラジオストク留学、明治35年(1902年)外務書記生に任じられ、大正6年(1917年)ニコラエフスク赴任。翌年副領事に任じられた、ということです。

 しかし、鳥居龍三の本に、モスクワに留学していたことが語られていますし、お孫さんのHPにも「1914年にモスクワの祖父から」とありますから、第一次世界大戦開戦前後には、モスクワにいたようです、そしてアジ歴の書類では、大正5年(1916年)から領事館事務代理としてニコラエフスクに赴任していたようなんですね。

 なにに書いてあったのか、ちょっといまさがし出せないのですが、確か、1917年、ロシア革命の年にうらき夫人はお産のために日本へ帰り、男の子を産んで、芳子は日本の学校に通わせるために虎松副領事の母親に預け、綾子と生まれたばかりの男の子を連れて、再びニコラエフスクへ赴いた、ということだったと思います。
 しかも、事件が起こりました1920年には、また妊娠していまして、5月の初めに出産予定。その後の7月には、日本へ帰り、綾子も日本の学校へ通わせることにしていた、ということでした。
 石田虎松副領事を「文学者ともいふべき面影があった」と評しております鳥居龍三は、石田副領事との忘れがたい会話にうらき夫人も加わったことを、以下のように記しています。

 今夜の話は実に後まで長く印象さるべき話であらうと思った。余も談話中、ハバロフスクの本屋に於てモスコーの芸術座の大きな写真画帖を買ったことや、尚ほ露西亜(ロシア)の文芸に関する書物を買ったといふようなことを話して、実に愉快に過した晩であった。今夜の話は寧ろ人類学の話よりもロシアの文学芸術、あるいはロシア人の性格などに関する話であった。この話を夫人も傍らでよく聞いておられた。而して時々自分の考えなども述べて興を添へられた。夫人もよほど趣味に富んだ人で、よく夫君を助けられたことがわかる。副領事には七歳になる女の子と漸く三歳になってヨチヨチ歩けるやうな男の子があって、余の往く毎に出て来られて、傍につき切つているのが常であった。家庭が円満に共同に楽しんでおられる様子がよく分かる。

 日本と大きな取り引きをしておりますリューリ一家です。教養豊かで、社交的でした副領事一家とのつきあいは、当然、あったと思われますし、1916年から1917年の初頭にかけて、7、8歳のエラと芳子はニコラエフスクの町で、ともに遊んだことがあったのではないでしょうか。

 その1917年、ロシアは混沌としていました。
 芦田均の「革命前夜のロシア」 (1950年)によりますと、2月革命の後、一切の皇室財産は没収され、退位しましたニコライ2世一家は、ツァールスコエ・セローに監禁されます。

 アレクサンドル3世の皇后で、ニコライ2世の母親でした皇太后マリア・フョードロヴナは、ラスプーチンを遠ざける必要など、ニコライ二世と皇后アレキサンドラに常に忠告をしてきておりましたが、革命となり、すべての財産を無くして、年に1200ポンドの手当で、クリミアの小住宅に移りました。
 しかしそこで、黒海艦隊の水兵が寝室にまで乱入し、寝間着のままで連れ出されて、暴虐の限りをつくされたんだそうなんです。……って、この話は、芦田均の本でしか見たことないのですが、ほんとうなのでしょうか。



 右端がマリア・フョードロヴナ、中央が姉でイギリス王妃のアレクサンドラ・オブ・デンマーク、左端はアレクサンドラの娘でイギリス王女、ヴィクトリアです。
 マリア・フョードロヴナとアレクサンドラの姉妹は、デンマークの王女だったんですけれども、よく似てますよねえ。
 
 アレクサンドラは、リーズデイル卿とジャパニズム vol10 オックスフォードに出てまいりますが、幕末日本へ来て活躍しましたイギリス外交官バーティ・ミットフォードの親友で、放蕩者ともいわれましたエドワード七世の妃となり、国王ジョージ5世の母となりました。
 したがいまして、ジョージ5世とニコライ2世は母方の従兄弟で、これまた、とてもよく似ております。

 臨時政府で、ケレンスキーが権力を握っています時期に、ニコライ2世一家のイギリス亡命話が持ち上がるのですが、大使の打診に、イギリス政府の回答は拒否でした。これは、ロイド・ジョージ首相の意向であるとも伝えられていたのですが、実は現在、そっくりの従弟ジョージ5世が拒否したのだと、はっきりわかっております。
 未曾有の総力戦で、イギリス国内にも反王室気運が強くなっていまして、専制君主として、イギリスではあまり評判の芳しくありませんでしたニコライ2世を身内として迎えますことに、ジョージ5世が多大な危惧を持った結果のようです。

 しかし、アレクサンドラ王太后は、妹の救出に必死でした。
 第一次世界大戦の終わりました1919年、ジョージ5世も母の願いを入れて軍艦を派遣し、マリア・フョードロヴナは説得されてロシアを脱出し、故国デンマークに亡命することになります。

 話が先走りましたが、芦田均によりますと、革命の功労者ケレンスキーは、皇帝一族に代わりまして宮殿に住み、帝室用の自動車を使い、宮廷の酒蔵のシャンパンを飲み、饗宴を催し、妻を捨てて有名な女優と同棲して、人目をそば立てるような生活を送っていたのだそうです。

 革命が起こりますと同時に、物価はさらに上昇し、生活費は5倍になりました。
 兵卒の給料のみは10倍になったそうですが、首都の兵舎では毎晩のように饗宴が行われ、いくらあっても足りません。そのため、無賃で鉄道を利用し、フィンランドへ行って、煙草の闇商売をはじめる者が多数。乗り物はすべて兵卒であふれ、窓かけなどの装飾品は奪われ、食堂車では無銭飲食があたりまえとなり、機関車だけではなく客車も破損し、交通機関は混乱を極めました。

 1917年の7月1日、英仏の期待に応えまして、ボルシェヴィキの反対を抑えましたケレンスキーは、対オーストリア・ドイツ戦線で、攻勢をかけます。緒戦、オーストリア相手に一時の勝ちを得るのですが、それもつかの間。ドイツ軍との本格的な交戦になりますと、たちまち総崩れとなり、大敗を喫します。

 それもそのはずです。
 革命以来「兵卒の権利宣言」なるものがありまして、上官に懲罰権はなく、軍が軍として機能しなくなっておりました。
 そのため、芦田均によりますと、ケレンスキーは政治委員に機関銃を持たせて、部隊を監視させたのだそうです。
 それでも兵卒は動かず……、といいますか、政治委員が兵卒には甘かったのでしょうか。突撃するのは将校のみで、将校のみが全員戦死した部隊もあったそうです。
 開戦以来、ロシアの戦死者は300万にのぼっていたそうですので、兵卒の厭戦気分も、もっともではあったのですけれども。

 実はこのケレンスキー攻勢で、緒戦を勝利に導きましたのは、チェコスロバキア狙撃旅団でした。
 チェコとスロバキアはオーストリア帝国の一部でして、彼らは独立を望み、オーストリア兵としてロシアと戦うことに積極的ではない者も多かったのですけれども、徴兵で戦線にかり出されます。
 捕虜になった後、まあ……、ただでさえ食料が足らなくなりましたロシアです。捕虜の待遇がよかろうはずもありませんで、飢え死にするよりは、ということもあったのかもしれませんが、祖国独立のために、多数が、オーストリアと戦うロシアの義勇軍募集に応じました。

 捕虜となった者が、敵国側に立って戦いました場合、捕まったら即銃殺です。
 したがいまして、彼らは死にものぐるいで戦い、しかも祖国独立のためという大義に、将校も兵卒も燃えて、一体となっております。ケレンスキー攻勢のしんがりを務めたのも、彼らだといわれます。
 チェコ軍団はこの後、シベリアで大活躍をするのですが、それはまた次回。

 ケレンスキー攻勢の大失敗は、ケレンスキーの権威を落としまして、コルニーロフ将軍との齟齬もあり、結局は10月革命が起こり、ボルシェヴィキが権力を握ります。

 いや、ですね。
 軍規がぐだぐだのままで、戦争を続けることは、できようはずもないですし、戦争のために飢餓が起こり、どうしようもなくなって革命が起こったのですから、まあ、「戦争をやめよう!!!」と叫ぶ方に人心がなびくのは当然のことですし、それで飢餓がなくなるわけでもなかったのですが、とりあえず「戦争をやめよう!!!」と叫んでおいて、新たに軍律厳しい赤軍を創設して政敵を倒し、ボルシェヴィキが独裁政権を確立しましたのは、仕方のないことだったのかもしれません。
 
 1917年、2月革命直後の3月、エラ・リューリは、母親と下の兄と女中とともに、アムール川の氷上を馬橇で、西へ向かっておりました。上の兄さんは、年度末まで学校に通うために、とりあえずニコラエフスクに残っていたのだそうです。
 エラは「ニコラエフスクの破壊」米訳者前文で「当時、大多数のロシア人もそうであったが、社会民主主義が、皇帝による専制政治に取って換わって当然だ、と考えていた。その後に続く恐怖のことなど、誰一人として予測していなかった」と言っています。

 ましてリューリ一族は、ユダヤ人です。
 実際、1917年4月、ケレンスキーの臨時政府は、ユダヤ人にロシア人と平等な権利を与えました。そのことを世界のユダヤ人は決して忘れず、長年にわたりましたケレンスキーの亡命生活は、ユダヤ人たちにささえられていたといいます。(「レーニンの秘密〈上〉」p226)

 エラの父親、メイエル・リューリは、仕事のために毎冬何ヶ月かをペトログラードで過ごしていまして、1917年には、一家でペトログラードに引っ越そうと計画していました。革命は、自分たちにとりいいことなのだと、最初は解釈していたわけです。

 しかし、エラたちがハバロフスクからシベリア鉄道でチタへ行き、ペトログラードからやって来ました父親と落ち合いましたところ、父親は、政治的動乱が激しいので、今のところペトログラードへの引っ越しはやめた方がいい、と判断し、チタで夏を過ごしました。その後、事務所がありましたウラジオストック行き、1919年の遅くまで暮らして、どうやら尼港事件の直前に、ボルシェビキ政権の支配が確立してしまいそうなロシアに見切りをつけ、日本へ移住することとなったようです。

 次回、いよいよ尼港事件です。

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