リーズデイル卿とジャパニズム vol7 母と妹との続きです。
後のリーズデイル男爵(Baron Redesdale)、アルジャーノン・バートラム・ミットフォード(Algernon Bertram Mitford)、通称バーティは、1837年(天保8年)2月24日、ロンドンで生まれました。
この年の6月20日には、18歳の若さでヴィクトリア女王が即位しています。戴冠式は翌1838年ですけれども。
モンブラン伯爵より四つ、土方歳三、五代友厚、井上馨より二つ年下、最後の将軍・徳川慶喜公、土佐の板垣退助と同じ年で、桐野利秋、後藤象次郎、中井桜州より一つ年上です。
ところで、バーティの母方の従兄弟、アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン(Algernon Charles Swinburne)も、この年の4月5日、ロンドンのGrosvenor Placeで生まれたそうなんですが、実は、スウィンバーンの詳しい伝記を読んでいないものでして、いったいこれが父方の家なのか母方の家なのか、さっぱりわかりません。
しかし、それはバーティについても言えることでして、双方、父方のタウン・ハウスで生まれた可能性もあるのですが、以下の話は、もしかすると……、という私の勝手な想像です。
vol6 恋の波紋で書いていますが、バーティの母レディ・ジョージアナと、スウィンバーンの母レディ・ジェインは、アッシュバーナム伯爵家の姉妹です。
数多い姉妹のうち、このヴィクトリア女王即位の年に結婚していたのは、どうも、この二人だけのようです。
ジョージアナは32歳で、ジェインは28歳。
ジョージアナが、フィレンツェでヘンリー・レベリーと結婚したのは23歳のころで、すでに出産経験があります。
一方、妹のジェインが、チャールズ・スウィンバーン海軍大佐に嫁いだのは、つい一年前で、初産です。
二人は仲が良く、そろって実家アッシュバーナム伯爵家のロンドンのタウン・ハウスで出産、ってことも、ありえるんじゃないんでしょうか。
もしかすると……、なんですが、当時フランシス・モリノーがロンドン勤務だったりしまして、ジョージアナは、そばにいたかったかも、しれませんし。
ジェインは初産で心細かったり。
ちなみに、当時の女性のコスチュームは、こんな感じです。
Maggie Mays Costume History Pages
バーティとスウィンバーンは、ヴィクトリア女王即位の年、ロンドンの同じ屋根の下で産声を上げていたかも、しれないのです。
しかし、生まれたばかりのバーティとスウィンバーンを、それぞれ腕に抱いた姉妹にの心情には、大きなちがいがあったことでしょう。
おそらく………、なんですが、レディ・ジョージアナにとって、いったいバーティの父親は夫なのか、あるいはモリノーなのか、判断がつきかねていた、かもしれませんし、そしてその心は、たまに、それも人目をしのんでしか、二人きりになることのできない愛人モリノーの上に、さまよっていたことでしょう。
一方、妹のジェインは、新婚早々の初産です。夫にそっくりの赤毛の男の子に恵まれた喜びに、満ち足りていたにちがいありません。
スウィンバーン海軍大佐とレディ・ジェインの住まいはワイト島(Isle of Wight)にあり、ヘンリー・レベリーとレディ・ジョージアナが暮らすエクスベリー(Exbury)とは、ソレント海峡をへだてていますが、すぐ近くです。
ヘンリー・レベリーの父親は艦長でしたし、ミットフォード家の親戚に、海軍関係者もいました。
あるいは、なんですが、レディ・ジェインは、姉ジョージアナの社交関係で、スウィンバーン大佐と知り合ったのかもしれず、そうでなくとも、両家の行き来はあった、と考えられるでしょう。
しかし以前にに書きましたように、ロンドンでバーティとスウィンバーンが生まれた翌1838年、ヘンリー・レベリーとジョージアナは、エクスベリーを貸し出して、フランシス・モリノーが外交官として赴任していたフランクフルトへ、一家そろって行くことになります。
当時のドイツは統一されておらず、フランクフルトは、ドイツ連邦に加盟してはいますが、自由都市です。ドイツの一部となるのは、およそ三十年後の普墺戦争で、オーストリア側について負けてからのことです。
この当時のドイツを描いた映画としては、「哀愁のトロイメライ/クララ・シューマン物語」が、けっこう風俗がわかる感じです。
映画自体のできは、といえば、どうなんでしょう。音楽演奏の質は非常に高く、若き日のナスターシャ・キンスキーの演技もすばらしく、さすがにドイツ映画、リアリティはあるんですが、画面といい話といい、暗い雰囲気で、あまり、私の好みではありません。
ちょうど、クララがシューマンと結婚するあたりが、レディ・ジョージアナがモリノーと駆け落ちした、ヴィースバーデン事件のころにあたっている、はずです。もっとも映画は、ザクセン王国のライプツィヒが主な舞台なんですけれども。
ヘッセン選帝侯国のヴィースバーデンも、ザクセン王国も自由都市フランクフルトも、ドイツ連邦に加盟してはいましたが、明治維新直前の普墺戦争までは、それぞれに主権を持った独立国でした。
ところで、ミットフォード家にいくらお金がない、といいましても、農地を所有し、りっぱなカントリー・ハウスをかまえたジェントリーなのですから、子供のめんどうは、ナースメイド(乳母)がみたはずです。ナースは、後にはナニーと呼ばれるようになりまして、「メリーポピンズ 」も、20世紀初頭のナニーのお話です。
バーティの子供時代をイメージするなら、こちらの方がまだ近い、かもしれません。
原作はクリスチナ・ブランド著の児童書「ふしぎなマチルダばあや」です。
クリスチナは1907年生まれの推理作家ですが、実家に伝わっていたビクトリア中期のナースメイドのおとぎ話を、祖父から聞いていて、それをもとにこれを書いたそうなのです。
ちょうどバーティの孫の世代になりますから、バーティから聞いた話を孫が書いた、という感じです。
映画は、おとぎ話らしく、いつの時代かわからないのですが、しいて言えば、ビクトリア朝末期、みたいに見えます。
ともかく、1838年の5月か6月ですから、ちょうどヴィクトリア女王の戴冠式のころ、まだ一つになったばかりのバーティは、おそらくは、イギリス人のナースに抱かれて、父と母と五歳の兄二人とともに、フランクフルトへ渡りました。
1841年の5月、ヴィースバーデンで、レディ・ジョージアナはバーティに別れのキスをして、モリノーと出ていったわけですが、4つになったバーティの世界は、ナースメイドが中心でまわっていて、それほど、生活に変化はなかった、と思われます。もっとも、離婚裁判のためにロンドンへ帰ることになったのですから、変化があった、といえば、そうなんですが。
バーティの曾孫のジョナサン・ギネスは、バーティの血筋がセフトン伯爵モリノー家のものであると信じているようですが、私には、ちょっとそうは思えません。
モリノーの子である可能性はある状況だったのでしょうけれども、もしほんとうにモリノーの子だったならば、レディ・ジョージアナが、バーティだけでも、連れて出ていそうに思えるのです。
もう一つ、バーティとヘンリー・レベリー、父子の仲はとてもよさそうに思えます。
バーティは、成人して日本へ赴任しているときにも、こまめに父に手紙を書いていまして、しかも、その手紙の内容は、義務で書いたというようなものではなく、仲の良い友人に書いているような、書くのを楽しんでいる文面なのです。
泥沼の離婚裁判のあげくに、レディ・ジョージアナと別れたヘンリー・レベリーです。もし、バーティにモリノーの面影が見えたとすれば、父子関係がこれほどうまくいくものなのか、ちょと疑問なんです。
ともかく、離婚裁判が終わるとすぐに、ヘンリー・レベリーは、子供たちを連れて、フランスへ渡ります。
エクスベリーは、貸し出したまま、だったようです。
もちろん、ナースメイドもいっしょだったことでしょう。
それから2~3年の間、一家は、夏はトルーヴィル(Trouville)で、冬と春はパリですごします。
パリの住居は、マドレーヌ教会の近く、でした。
チェイルリ宮殿にも近く、その前の広場で、バーティは、パリの子供たちとマーブル遊びをしていたんだそうです。
フランスは7月王制期です。
ナポレオン戦争後のウィーン体制で、王制が復古したのですが、あまりにも旧式に固執しすぎまして、貴族の間からさえも不満がわく有様。7月革命が起こります。
シャルル10世は退位して亡命し、その後に、ブルジョアに推されたオルレアン家のルイ・フィリップが即位し、とりあえず、おさまりがついた形でした。
ただ、このオルレアン家、正統なブルボン家の血筋からいきますと、ずいぶんと昔に枝分かれした王族でして、しかもルイ・フィリップの父、オルレアン公は、当初フランス革命の側に立ち、ルイ16世の死刑に賛成票を投じたことで、「王殺し」と呼ばれた人でした。まあ、結局は革命の過激化で、そのオルレアン公も処刑されたわけですが。
以前にも話を出しました、レディ・ジョージアナと同じ年のフランツ・リストの愛人、マリー・ダグー伯爵夫人なんですが、亡命貴族の娘で、王政復古の後、1827年に、正統王制派のダグー伯爵と結婚します。
彼女は、その結婚によって、正統王家のそば近くにあがることとなり、あんまりにも旧式で退屈な礼儀作法にうんざりしますし、リストと駆け落ちする奔放さを持ち、後にダニエル・ステルンのペン・ネームで評論家となり、共和制に共感さえ示す才女です。
それでも……、というか、だから、でしょうか、7月革命後のくだけすぎたルイ・フィリップ王には、侮蔑を感じずにはいられなかったようです。
「国民の王」を名のり、庶民的であることを意識すればするほど、ルイ・フィリップは見るからにそこらへんのおいちゃんになってしまい、多くのフランス国民の王統への尊崇の念を、無くさせてしまったわけです。
幼いバーティは、チェイルリ宮殿前の広場で、お供はいつも一人だけで、地味な灰色のコートを着て散歩しているルイ・フィリップ王を見て、畏敬の念を抱いたのだそうですが、父ヘンリー・レベリーのもとに集まってくるフランスの友人たちは、それに賛成しませんでした。
どうやらヘンリー・レベリーの友人は、正統王制派ばかりだったようでして、バーティが父の友人たちから聞いたのは、「中産階級のごきげんとりをする俗悪なルイ・フィリップ王」への嫌悪、でした。
6歳からか7歳からか、バーティは私塾に通い、家庭教師にも学んだりしていたようです。
フランス語、ドイツ語、そしてもしかするとイタリア語。もちろん、ラテン語、ギリシャ語の基礎も、やっていたわけなんでしょうねえ。
シャルル・ド・モンブラン伯爵はバーティより四つ年上で、おそらくこのころ、パリにいます。
モンブランはパリで生まれ、よくはわかっていませんが、パリで教育を受けたようなのです。
もしもモンブラン伯爵家のパリでの住居が、このころから、後年のサン・ラザール駅のそばのものと同じだったとしますと、マドレーヌ教会は近いですし、二人は、いっしょに遊んだ可能性も、あります。
明治維新のそのとき、日本で火花を散らした英仏のこの二人が、子供の頃、パリで仲良しだったりしたら、おもしろいんですけれど。
ミットフォード家が夏を過ごしたトルーヴィルは、イギリス海峡に面しています。ルアーブルに近く、海峡の向こうには、スウィンバーンの住むワイト島があります。普通の漁村でしたが、ちょうど流行のリゾート地に変わりはじめたところ、でした。
これからだいぶん後のことですが、トルーヴィルの海岸は画家に好まれたようで、クロード・モネも絵を残していますが、バーティとの関係でいえば、1865年の秋、ですから、ほぼ20年後、ホイッスラーがクールベとともに滞在して、連作を描き残しています。
後に、バーティはホイッスラーとは、かなり親しくなるのですが、それはまたの機会にまわします。
ここへは、ヘンリー・レベリーの異母姉たちがやってきて、家政のめんどうをみました。
そしてまた、このころ、ヘンリー・レベリーの再婚した母親は、二度目の夫にも先立たれ、ファーラー未亡人となっていて、彼女もやってきましたが、これは、バーティにとって、あまり嬉しいことではありませんでした。
というのも、ファーラー未亡人はスコットランド人で、宗教熱心であり、安息日厳守主義者だったのです。
以前に書きましたが、フランスのカトリックは、かなり世俗的でした。イギリス国教会も、どちらかといえば、そうです。
アーネスト・サトウ vol1に出てきますが、サトウ家のように、プロテスタントの家庭の方が、安息日厳守主義者が多く、宗教熱心だったわけです。
スコットランドは、サトウ家のようなルター派ではなく、カルバン派長老教会が主流でしたが、プロテスタント信者が多く、国教会中心のイングランドにくらべて、安息日厳守、つまり、日曜日は宗教一色であることが、重んじられる傾向にあったようです。
ファーラー未亡人は、カルバン派ではなく、イングランド国教会の流れの聖公会信者でしたが、そこがスコットランド人、なんでしょうか、日曜日には延々、息子と孫を相手に、プロの牧師も顔負けの情熱をこめた説教をし、長々しい祈祷を続けたのだそうで、遊ばせてもらえないバーティには、不満だったのです。
なにしろ場所はフランス。日曜日は楽しく遊ぶことが、ふつうだったわけですから。
ヘンリー・レベリーをはじめとするミットフォード家の人々は、いつもは世俗的だったようです。
ヘンリー・レベリーが母の度をこえた宗教熱心に耐えたのは、幼いころに再婚して去り、ようやく壮年になってから帰ってきてくれたその姿に、満たされなかった子供の頃の思いを重ねて、母と過ごすその時間を、愛おしんだからなんでしょう………、おそらくは。
えーと、次回、いよいよバーティは、イートンで、赤毛の従兄弟スウィンバーンに出会います。
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後のリーズデイル男爵(Baron Redesdale)、アルジャーノン・バートラム・ミットフォード(Algernon Bertram Mitford)、通称バーティは、1837年(天保8年)2月24日、ロンドンで生まれました。
この年の6月20日には、18歳の若さでヴィクトリア女王が即位しています。戴冠式は翌1838年ですけれども。
モンブラン伯爵より四つ、土方歳三、五代友厚、井上馨より二つ年下、最後の将軍・徳川慶喜公、土佐の板垣退助と同じ年で、桐野利秋、後藤象次郎、中井桜州より一つ年上です。
ところで、バーティの母方の従兄弟、アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン(Algernon Charles Swinburne)も、この年の4月5日、ロンドンのGrosvenor Placeで生まれたそうなんですが、実は、スウィンバーンの詳しい伝記を読んでいないものでして、いったいこれが父方の家なのか母方の家なのか、さっぱりわかりません。
しかし、それはバーティについても言えることでして、双方、父方のタウン・ハウスで生まれた可能性もあるのですが、以下の話は、もしかすると……、という私の勝手な想像です。
vol6 恋の波紋で書いていますが、バーティの母レディ・ジョージアナと、スウィンバーンの母レディ・ジェインは、アッシュバーナム伯爵家の姉妹です。
数多い姉妹のうち、このヴィクトリア女王即位の年に結婚していたのは、どうも、この二人だけのようです。
ジョージアナは32歳で、ジェインは28歳。
ジョージアナが、フィレンツェでヘンリー・レベリーと結婚したのは23歳のころで、すでに出産経験があります。
一方、妹のジェインが、チャールズ・スウィンバーン海軍大佐に嫁いだのは、つい一年前で、初産です。
二人は仲が良く、そろって実家アッシュバーナム伯爵家のロンドンのタウン・ハウスで出産、ってことも、ありえるんじゃないんでしょうか。
もしかすると……、なんですが、当時フランシス・モリノーがロンドン勤務だったりしまして、ジョージアナは、そばにいたかったかも、しれませんし。
ジェインは初産で心細かったり。
ちなみに、当時の女性のコスチュームは、こんな感じです。
Maggie Mays Costume History Pages
バーティとスウィンバーンは、ヴィクトリア女王即位の年、ロンドンの同じ屋根の下で産声を上げていたかも、しれないのです。
しかし、生まれたばかりのバーティとスウィンバーンを、それぞれ腕に抱いた姉妹にの心情には、大きなちがいがあったことでしょう。
おそらく………、なんですが、レディ・ジョージアナにとって、いったいバーティの父親は夫なのか、あるいはモリノーなのか、判断がつきかねていた、かもしれませんし、そしてその心は、たまに、それも人目をしのんでしか、二人きりになることのできない愛人モリノーの上に、さまよっていたことでしょう。
一方、妹のジェインは、新婚早々の初産です。夫にそっくりの赤毛の男の子に恵まれた喜びに、満ち足りていたにちがいありません。
スウィンバーン海軍大佐とレディ・ジェインの住まいはワイト島(Isle of Wight)にあり、ヘンリー・レベリーとレディ・ジョージアナが暮らすエクスベリー(Exbury)とは、ソレント海峡をへだてていますが、すぐ近くです。
ヘンリー・レベリーの父親は艦長でしたし、ミットフォード家の親戚に、海軍関係者もいました。
あるいは、なんですが、レディ・ジェインは、姉ジョージアナの社交関係で、スウィンバーン大佐と知り合ったのかもしれず、そうでなくとも、両家の行き来はあった、と考えられるでしょう。
しかし以前にに書きましたように、ロンドンでバーティとスウィンバーンが生まれた翌1838年、ヘンリー・レベリーとジョージアナは、エクスベリーを貸し出して、フランシス・モリノーが外交官として赴任していたフランクフルトへ、一家そろって行くことになります。
当時のドイツは統一されておらず、フランクフルトは、ドイツ連邦に加盟してはいますが、自由都市です。ドイツの一部となるのは、およそ三十年後の普墺戦争で、オーストリア側について負けてからのことです。
この当時のドイツを描いた映画としては、「哀愁のトロイメライ/クララ・シューマン物語」が、けっこう風俗がわかる感じです。
映画自体のできは、といえば、どうなんでしょう。音楽演奏の質は非常に高く、若き日のナスターシャ・キンスキーの演技もすばらしく、さすがにドイツ映画、リアリティはあるんですが、画面といい話といい、暗い雰囲気で、あまり、私の好みではありません。
ちょうど、クララがシューマンと結婚するあたりが、レディ・ジョージアナがモリノーと駆け落ちした、ヴィースバーデン事件のころにあたっている、はずです。もっとも映画は、ザクセン王国のライプツィヒが主な舞台なんですけれども。
ヘッセン選帝侯国のヴィースバーデンも、ザクセン王国も自由都市フランクフルトも、ドイツ連邦に加盟してはいましたが、明治維新直前の普墺戦争までは、それぞれに主権を持った独立国でした。
ところで、ミットフォード家にいくらお金がない、といいましても、農地を所有し、りっぱなカントリー・ハウスをかまえたジェントリーなのですから、子供のめんどうは、ナースメイド(乳母)がみたはずです。ナースは、後にはナニーと呼ばれるようになりまして、「メリーポピンズ 」も、20世紀初頭のナニーのお話です。
バーティの子供時代をイメージするなら、こちらの方がまだ近い、かもしれません。
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原作はクリスチナ・ブランド著の児童書「ふしぎなマチルダばあや」です。
クリスチナは1907年生まれの推理作家ですが、実家に伝わっていたビクトリア中期のナースメイドのおとぎ話を、祖父から聞いていて、それをもとにこれを書いたそうなのです。
ちょうどバーティの孫の世代になりますから、バーティから聞いた話を孫が書いた、という感じです。
映画は、おとぎ話らしく、いつの時代かわからないのですが、しいて言えば、ビクトリア朝末期、みたいに見えます。
ともかく、1838年の5月か6月ですから、ちょうどヴィクトリア女王の戴冠式のころ、まだ一つになったばかりのバーティは、おそらくは、イギリス人のナースに抱かれて、父と母と五歳の兄二人とともに、フランクフルトへ渡りました。
1841年の5月、ヴィースバーデンで、レディ・ジョージアナはバーティに別れのキスをして、モリノーと出ていったわけですが、4つになったバーティの世界は、ナースメイドが中心でまわっていて、それほど、生活に変化はなかった、と思われます。もっとも、離婚裁判のためにロンドンへ帰ることになったのですから、変化があった、といえば、そうなんですが。
バーティの曾孫のジョナサン・ギネスは、バーティの血筋がセフトン伯爵モリノー家のものであると信じているようですが、私には、ちょっとそうは思えません。
モリノーの子である可能性はある状況だったのでしょうけれども、もしほんとうにモリノーの子だったならば、レディ・ジョージアナが、バーティだけでも、連れて出ていそうに思えるのです。
もう一つ、バーティとヘンリー・レベリー、父子の仲はとてもよさそうに思えます。
バーティは、成人して日本へ赴任しているときにも、こまめに父に手紙を書いていまして、しかも、その手紙の内容は、義務で書いたというようなものではなく、仲の良い友人に書いているような、書くのを楽しんでいる文面なのです。
泥沼の離婚裁判のあげくに、レディ・ジョージアナと別れたヘンリー・レベリーです。もし、バーティにモリノーの面影が見えたとすれば、父子関係がこれほどうまくいくものなのか、ちょと疑問なんです。
ともかく、離婚裁判が終わるとすぐに、ヘンリー・レベリーは、子供たちを連れて、フランスへ渡ります。
エクスベリーは、貸し出したまま、だったようです。
もちろん、ナースメイドもいっしょだったことでしょう。
それから2~3年の間、一家は、夏はトルーヴィル(Trouville)で、冬と春はパリですごします。
パリの住居は、マドレーヌ教会の近く、でした。
チェイルリ宮殿にも近く、その前の広場で、バーティは、パリの子供たちとマーブル遊びをしていたんだそうです。
フランスは7月王制期です。
ナポレオン戦争後のウィーン体制で、王制が復古したのですが、あまりにも旧式に固執しすぎまして、貴族の間からさえも不満がわく有様。7月革命が起こります。
シャルル10世は退位して亡命し、その後に、ブルジョアに推されたオルレアン家のルイ・フィリップが即位し、とりあえず、おさまりがついた形でした。
ただ、このオルレアン家、正統なブルボン家の血筋からいきますと、ずいぶんと昔に枝分かれした王族でして、しかもルイ・フィリップの父、オルレアン公は、当初フランス革命の側に立ち、ルイ16世の死刑に賛成票を投じたことで、「王殺し」と呼ばれた人でした。まあ、結局は革命の過激化で、そのオルレアン公も処刑されたわけですが。
以前にも話を出しました、レディ・ジョージアナと同じ年のフランツ・リストの愛人、マリー・ダグー伯爵夫人なんですが、亡命貴族の娘で、王政復古の後、1827年に、正統王制派のダグー伯爵と結婚します。
彼女は、その結婚によって、正統王家のそば近くにあがることとなり、あんまりにも旧式で退屈な礼儀作法にうんざりしますし、リストと駆け落ちする奔放さを持ち、後にダニエル・ステルンのペン・ネームで評論家となり、共和制に共感さえ示す才女です。
それでも……、というか、だから、でしょうか、7月革命後のくだけすぎたルイ・フィリップ王には、侮蔑を感じずにはいられなかったようです。
「国民の王」を名のり、庶民的であることを意識すればするほど、ルイ・フィリップは見るからにそこらへんのおいちゃんになってしまい、多くのフランス国民の王統への尊崇の念を、無くさせてしまったわけです。
幼いバーティは、チェイルリ宮殿前の広場で、お供はいつも一人だけで、地味な灰色のコートを着て散歩しているルイ・フィリップ王を見て、畏敬の念を抱いたのだそうですが、父ヘンリー・レベリーのもとに集まってくるフランスの友人たちは、それに賛成しませんでした。
どうやらヘンリー・レベリーの友人は、正統王制派ばかりだったようでして、バーティが父の友人たちから聞いたのは、「中産階級のごきげんとりをする俗悪なルイ・フィリップ王」への嫌悪、でした。
6歳からか7歳からか、バーティは私塾に通い、家庭教師にも学んだりしていたようです。
フランス語、ドイツ語、そしてもしかするとイタリア語。もちろん、ラテン語、ギリシャ語の基礎も、やっていたわけなんでしょうねえ。
シャルル・ド・モンブラン伯爵はバーティより四つ年上で、おそらくこのころ、パリにいます。
モンブランはパリで生まれ、よくはわかっていませんが、パリで教育を受けたようなのです。
もしもモンブラン伯爵家のパリでの住居が、このころから、後年のサン・ラザール駅のそばのものと同じだったとしますと、マドレーヌ教会は近いですし、二人は、いっしょに遊んだ可能性も、あります。
明治維新のそのとき、日本で火花を散らした英仏のこの二人が、子供の頃、パリで仲良しだったりしたら、おもしろいんですけれど。
ミットフォード家が夏を過ごしたトルーヴィルは、イギリス海峡に面しています。ルアーブルに近く、海峡の向こうには、スウィンバーンの住むワイト島があります。普通の漁村でしたが、ちょうど流行のリゾート地に変わりはじめたところ、でした。
これからだいぶん後のことですが、トルーヴィルの海岸は画家に好まれたようで、クロード・モネも絵を残していますが、バーティとの関係でいえば、1865年の秋、ですから、ほぼ20年後、ホイッスラーがクールベとともに滞在して、連作を描き残しています。
後に、バーティはホイッスラーとは、かなり親しくなるのですが、それはまたの機会にまわします。
ここへは、ヘンリー・レベリーの異母姉たちがやってきて、家政のめんどうをみました。
そしてまた、このころ、ヘンリー・レベリーの再婚した母親は、二度目の夫にも先立たれ、ファーラー未亡人となっていて、彼女もやってきましたが、これは、バーティにとって、あまり嬉しいことではありませんでした。
というのも、ファーラー未亡人はスコットランド人で、宗教熱心であり、安息日厳守主義者だったのです。
以前に書きましたが、フランスのカトリックは、かなり世俗的でした。イギリス国教会も、どちらかといえば、そうです。
アーネスト・サトウ vol1に出てきますが、サトウ家のように、プロテスタントの家庭の方が、安息日厳守主義者が多く、宗教熱心だったわけです。
スコットランドは、サトウ家のようなルター派ではなく、カルバン派長老教会が主流でしたが、プロテスタント信者が多く、国教会中心のイングランドにくらべて、安息日厳守、つまり、日曜日は宗教一色であることが、重んじられる傾向にあったようです。
ファーラー未亡人は、カルバン派ではなく、イングランド国教会の流れの聖公会信者でしたが、そこがスコットランド人、なんでしょうか、日曜日には延々、息子と孫を相手に、プロの牧師も顔負けの情熱をこめた説教をし、長々しい祈祷を続けたのだそうで、遊ばせてもらえないバーティには、不満だったのです。
なにしろ場所はフランス。日曜日は楽しく遊ぶことが、ふつうだったわけですから。
ヘンリー・レベリーをはじめとするミットフォード家の人々は、いつもは世俗的だったようです。
ヘンリー・レベリーが母の度をこえた宗教熱心に耐えたのは、幼いころに再婚して去り、ようやく壮年になってから帰ってきてくれたその姿に、満たされなかった子供の頃の思いを重ねて、母と過ごすその時間を、愛おしんだからなんでしょう………、おそらくは。
えーと、次回、いよいよバーティは、イートンで、赤毛の従兄弟スウィンバーンに出会います。
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まあ、そのほかでも孫娘たちはルーマニアや、スウェーデンの王后に...
こうなると面白そうだ。いま、リットン・ストレイチーの名著「ヴィクトリア女王」を注文しました。イギリスから直送だって、ニックネームしか読まずに、またツンドクかな?
リーズデイル卿さまバーティ、人間模様のことでなくて、すみません...
さて、いまバックのテレビ映像は北京五輪バレーボール第2セット、日本とアメリカ。
どちらも未開の地で西南戦争やら南北戦争のころだもんね、
おおっ、でも、すごいラリーですね。あらら、第3セットは、勝てるところをミッドウエーみたいに大逆転で負けてしまったよ...
もう、英語を見ると頭痛がしてくるんですが、ヒュー コータッツィ氏の「ある英国外交官の明治維新―ミットフォードの回想」が抄訳なものでして、ミットフォードの手紙が出てくるすぐれものですし、英文を読みたいなあ、と思いつつ、5ooo円もするし、ギネスの本で手一杯ですし。
スタンリー・ワイントウラブ著「ヴィクトリア女王」下巻が出てきたもので、ようやく読み終わったんですが、地下鉄工事の件をご説明にあがったバーティ(ミットフォードの方)が出てきて、笑いました。
あと、1882年にウィンザーの駅で、アイルランド過激派が女王を狙撃して、その犯人を、イートン校生が傘を武器に取り押さえた、というところも。縄手事件で、バーティが素手で刀を取りあげた、って話を思い出して、おもしろかったです。
北京オリンピックですか……。どうも、気乗り薄でして。
数年前の7月に北京へ行って、暑かったことばかり思い出しまして、よくやるなあ、と。あと、チベットとウィグルと、どうしても思い浮かびますの(笑)
あれですわ。内モンゴル自治区へ行ったとき、チベット仏教の寺院で、「どうも、坊さんのあつかわれ方がひどそうな……」と感じたものですから、あの国に信仰の自由がない、というのはふに落ちまして、サトウ書きかけで、いろいろ清朝の歴史とか読んで……、なぜかさらに、北京オリンピックは見たくない、という思いがつのりましたんですの。
すみません。