郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

リーズデイル卿とジャパニズム vol6 恋の波紋

2008年07月29日 | ミットフォード
 リーズデイル卿とジャパニズム vol5 恋の波紋の続きです。

 さて、バーティの父、ヘンリー・レベリー・ミットフォード(1804-83)です。
 生まれる前に父を亡くし、母は他家に去り、異母姉二人とともに、60歳になった祖父ウィリアム大佐に引き取られ、エクスベリーで育ちました。
 祖父の大佐は、年とともに偏屈になっていき、庭いじりと執筆が趣味で、孫息子にとっては窮屈な生活だったようです。
 大佐も、そして、法律家の弟初代リーズデイル卿も、ヘンリー・レベリーの異母姉たちにはやさしかったそうですが、まあ、じいさんたちにとっては、女の子の方がかわいかったんでしょうねえ。

 が、ヘンリー・レベリーは、気だてが良く、教養豊かに育ちました。
 音楽と絵画に才能を示したところは、祖父ゆずりでしたが、気性の強さには欠けていたようです。
 歴史にも造詣が深く、17世紀、18世紀のフランス史が専門で、語学の才もありました。
 オックスフォードは短くきりあげ、外交官の道を歩みます。
 まだ20代のはじめで、彼は、フィレンツェのイギリス公使館に赴任しました。
 
 1820年代後半ですから、ナポレオン後のウィーン体制が一応安定して、フランスは王政復古。
 イタリア統一をめざすカルボナリ(炭焼党)の活動も、蜂起失敗で沈静化し、フィレンツェは当時、オーストリア・ハプスブルグ帝国支配下の都市国家です。


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 上はジェームズ・アイボリー監督の映画です。
 時代はずいぶんとくだって、20世紀初頭。バーティの子、ヘンリー・レベリーにとっては孫たちの世代になるんですが、フィレンツェで出会った若いイギリス人男女の恋を、丁寧に描いた佳作です。
 ヘンリー・レベリーの時代にも、フィレンツェなど、欧州の主要都市には、かならずイギリス人コミュニティーがありました。
 それはおそらく、20世紀よりは貴族的なもので、映画の男性側、エマソン親子のような階層は、いなかったのではないか、と思えるのですが。
 ヘンリー・レベリーが赴任していた19世紀前半といえば、産業革命による高度成長でイギリス経済は強く、領地を継げない貴族やジェントリーのヤンガー・サンや、現金収入の少ない上流やアッパー・ミドル階級にとって、大陸の諸都市は、安上がりに体面を保つ暮らしが可能だったのです。
 しかし、アッシュバーナム伯爵家の場合は、どうも、「安上がりに」などというものではなかったようです。
 
 Lost Heritage-Ashburnham Place

上のリンクで見ましたところ、「三代伯爵はルネサンス以前のイタリア美術を蒐集していた」というような話で、この三代伯爵サー・ジョージ・アッシュバーナムが、バーティの母方の祖父です。
 アッシュバーナム伯爵家は、フィレンツェに別荘を持っていたそうでして、「眺めのいい部屋」が描く英国人コミュニティーよりもはるかに豪華ですが、箱入りの令嬢がイギリスを離れ、古都フィレンツェに身を置けば、開放感を味会うという点では、同じだったんじゃないんでしょうか。
 レディ・ジョージアナ・ジェミマ・アッシュバーナム(1805-82)は、大家族の一員でした。異母兄2人に異母姉1人。兄が三人、弟が二人。姉が二人に妹が四人です。四つちがいですぐ下の妹が、スウィンバーンの母となるレディ・ジェイン・ヘンリエッタです。
 なぜか、姉たちはみな生涯独身で通したようでして、もしかすると、フィレンツェにもいっしょに来ていたでしょうか。

 ともかくジョージアナは、フィレンツェの別荘に滞在していて、公使館の若き外交官、ヘンリー・レベリー・ミットフォードに出会います。
 二人とも二十歳を少し超えたばかりです。実家は双方がイギリス南部。イタリア美術や音楽や、共通の話題は多そうですよね。
 ロマン主義の時代、コスチュームはこんな感じです。COSTUMES.ORG
 映画では、「ジェイン・エア」とか「嵐が丘」の衣装を、イメージすればいいんじゃないでしょうか。Jane Eyre-You Tube

 二人は恋に落ち、イギリスへ帰った後、1828年に結婚します。
 この前年、祖父のウィリアム大佐は死去していて、ヘンリー・レベリーはエクスベリーを相続し、外交官をやめて、ジェントリーの暮らしに専念します。
 大佐は、ヘンリー・レベリーに金融資産を残してはくれず(おそらく異母姉にいったんでしょう)、イギリスの貴族やジェントリーの子弟が務める外交官というのは、俸給よりも持ち出しの方が多い職業でして、結婚もしたことだし、ということで辞めたようです。当時の男性としては、若い結婚でした。
 おそらく、なんですが、父母を知らないで育ったヘンリー・レベリーは、早く自分の家庭が欲しかったのではないでしょうか。
 二人の間には、数人の子が生まれましたが、幼児期に死なないで育ったのは、男の子三人でした。
 1833年に、双子のパーシーとヘンリー。そして、1837年にバーティです。
 いままでバーティの伝記を読み進めたところで、わかっているのは、バーティの二人の兄のうち、パーシーは結局早世し、ヘンリーはなぜか理由はわかりませんが、家族から絶縁され、ドイツに渡ってドイツで死んだ、ということです。

 さて、ジョージアナは、10年間のエクスベリーでの、地味な田舎地主夫人暮らしで、次第に不満をつのらせたようなのです。
 これは、わからないでもない気がします。
 金融資産がなかった、ということは、ロンドンの社交界とはほとんど無縁だったのだろう、と思えますし、イタリアで美術品を買い集めるようなアッシュバーナム家に育ったジョージアナには、田舎暮らしが、次第に退屈になってきたのではないでしょうか。
 バーティが生まれた直後、どうやらジョージアナの提案で、一家はエクスベリーの邸宅を人に貸し、大陸暮らしをすることに決めます。
 先に書いたように、大陸での暮らしの方が安上がりなので、各地にイギリス人コミュニティがありはしたのですが、それよりもどうも、ジョージアナの心境が優先したようです。

  1838年、一家は、ドイツのフランクフルトに到着しました。
 そこで待ち受けていたのは、イギリス公使館書記官で、セフトン伯爵の末の息子、フランシス・モリノー(1805-86)です。モリノーは、ジョージアナと同い年で、ヘンリー・レベリーとも一つちがいですし、外交官ですから、どうやら二人の共通の友人であったようなのです。
 一家ぐるみのつきあいなので、ヘンリー・レベリーは、まったく疑っていなかったようでしたが、モリノーは毎日のようにジョージアナと会っていたのです。
 三年後の1841年、ミットフォード家はヴィースバーデンに移り住んでいましたが、ジョージアナは、家政婦に荷物をまとめるよう言いつけると、子供たちにさよならのキスをして、モリノーとともに去っていきました。
 バーティが、わずか4歳のころのことです。

 ヘンリー・レベリーにとっては、妻と友人が自分を裏切った仰天の事態で、結局、ロンドンでの離婚裁判になります。
 ヘンリーがモリノーを訴えたわけですが、こういった裁判は、裏切られた夫にとっても恥になりますから、おそらくは、ジョージアナの離婚の意志が固かった、ということではないんでしょうか。
 1842年に離婚は成立し、ジョージアナとモリノーは、結婚してイタリアへ去ります。

 レディ・ジョージアナは、アーネスト・サトウ volで出しました、フランツ・リストの愛人、マリー・ダグー伯爵夫人と同じ年です。
  ジョルジュ・サンドとも、一つちがいで同年代なのですが、奔放な二人のフランス女性は、離婚を禁じたカトリックのお国柄ゆえか、離婚することなく、愛人と同棲しているわけです。
 イギリスの上流社会においても、不倫は珍しいことではないはずで、離婚に踏み切ったジョージアナの思いっきりのよさにあきれるんですが………、それとも、ヘンリー・レベリーの愛が真剣なもので、裏切られたことへの怒りがすさまじかった、ということなんでしょうか。
 おそらく………、なんですが、家族の暖かさを求めて結婚したヘンリー・レベリーにしてみれば、幼い子供まで捨てて出ていく妻は、とても許せるものではなかったのでしょう。
 それにしましても、家政婦が細々と証言するような離婚裁判を引き起こしたのでは、一世紀以上の後までも、英国上流階級がスキャンダルを記憶していた、というのも、無理はないかもしれません。
 結局のところ、どうやらジョージアナは、エクスベリーにいたときからモリノーと関係を持ち、バーティが生まれて、ドイツに赴任したモリノーを追いかけるために、大陸暮らしを提案した、ということであるようなのです。
 ちなみに、ジョルジュ・サンドとショパンの同棲が、ちょうど、ジョージアナの離婚騒動と同じ時期です。Chopin & Sand-YouTube

 ジョージアナとモリノーはイタリアへ去り、そして二度とイギリスへは帰らなかったのでしょうか?
 どうも私には、そうは思えないのです。二人とも、1880年代まで生きています。
 前回にふれたオスカー・ワイルドの「ウィンダミア卿夫人の扇」なんですが、たしかに、エドワード皇太子の愛人、リリー・ラングトレーの極秘出産も、ヒントであったかもしれません。
 しかし、バーティの母親のスキャンダルは、はるかに、アーリン夫人の場合と似ていないでしょうか。アーリン夫人も、幼い娘を夫の元に置き去りにして、愛人と大陸へ去っていたわけですから。
 20世紀半ば、パーティの孫の結婚においてさえ、イギリスの貴族階級は、「あそこの血筋は実はセフトン」というような形で、レディ・ジョージアナの離婚劇を覚えていたのです。まして、1874年、バーティがエアリー伯爵令嬢と結婚したときには、つい30年ちょっと前のできごとにすぎず、「彼の父親は実はー」とささやかれていたとしても、不思議はありません。
 モリノー夫人となったジョージアナが、ひそかにロンドンへ帰り、成長した息子、バーティに会うようなことがあったならば、なおさらです。

 追記
 実は私、「ウィンダミア卿夫人の扇」を読んだのがあまりにも以前なので、大筋以外は忘れてしまっていまして、読み直そうと文庫本を注文しまして、本日とどきました。どびっくり! です。アーリン夫人の過去のスキャンダルについて男同士が話す場面で、なんと「それからヴィースバーデン事件は?」と、あるじゃないですか。いうまでもなく、レディ・ジョージアナが子供たちを捨てて、モリノーと駆け落ちしたのは、ヴィースバーデンです。
 ここまで、あからさまって………、オスカー・ワイルド!!!


 そして………、バーティが実はヘンリー・レベリーの息子ではなく、モリノーの息子だったのだとするならば、バーティにバッツフォードを残したリーズデイル伯爵は、まったくの他人だということになり、「真面目が肝心」で、ひろい子のジャック・ワージングに資産をゆずったジェントリー、カーデュ氏を思わせるのです。
 で、たとえバーティがミットフォード家の血筋ではなく、セフトン伯爵家の血筋であったにしましても、良家の結婚相手としてふさわしくない血筋、というわけではないですし、めでたしめでたし、なわけです。

 とはいうものの、どうも私には、バーティの母、レディ・ジョージアナの実像が、はっきりと思い描けません。
 彼女の曾孫のダイアナ・ミットフォードのように、二度目の夫を愛しぬいたのでしょうか。
 しかしダイアナは、子供を捨ててギネス家を出て行きはしなかったのです。二人の息子をともなって家を出て、ともに暮らしています。
 あるいはジョージアナの後半生は、オスカー・ワイルド描くアーリン夫人のように、平凡な幸せを捨てたことを後悔するようなものだったのではないかと、想像してみたりもします。

 なんにせよバーティ・ミットフォードは、スキャンダルの中、幼くして母に捨てられたわけです。
 
 「恋の波紋」の最後は、コリン・ファースがジャック・ワージングを演じる「真面目が肝心」で。The impottance of being earnest-YouTube


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