郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

大河『西郷どん』☆あまりに珍な物語 Vol.1

2019年01月02日 | NHK大河「西郷どん」

 あけましておめでとうございます。
 旧年中に書くつもりでいたのですが、遅れに遅れ、年が明けてしまいました。
 遅くなりましたが、大河『西郷どん』☆「琉球出兵」と「薬売の越中さん」後編の続きです。

 バイクでこけて腕を折り、手術入院、退院リハビリと、いろいろありまして、なにも書けないでいるうちに、大河『西郷どん』は終わりました。
 そもそも、かなり見る気が失せていたのですが、えーと、突然、レオン・ロッシュが登場し、「幕府に戦力を貸すから、薩摩をくれ」 と、もう、どう転んでも絶対にありえなかったことを叫び、しかもそれが、幕末も押し詰まった慶応年間の焦点となり、あげくの果てに、鳥羽伏見の戦いから逃亡した将軍・徳川慶喜は、「国を売るように勧めるレオン・ロッシュが怖くて逃げたんだ!!!」なんぞと、大嘘をぬかす始末。
 「いくらシナリオライターが歴史に無知だからって‥‥‥、そりゃないわ!!!」と、のけぞり、脱力、お口ぽかーん。

 もともと、まともには見ていませんで、食事の支度をしながらBSで、とか、ゲームをしながら地上波で、とか、だったんですが、維新から明治6年政変、西南戦争へと話が進むにつれ、俳優さんの顔を見ると不愉快にさえなり、言及するのもばかばかしい状態。
 『花燃ゆ』とどっちがひどい?って、中村さまや山本氏と電話で話題にしていたんですが、どうなんでしょうか。
 ドラマとしての出来は『花燃ゆ』の方がひどいかもしれないんですが、個人的にはやはり『西郷どん』かもしれません。
 まあ、『花燃ゆ』の方は、ろくに資料を読み込んでいない出来事が多かったですから、ドラマにあきれて資料を読んで勉強、というパターンが多かったのですが、薩摩の方は、さんざん資料を読み込んでいまして、先に書きました「琉球出兵」と「薬売の越中さん」くらいしか、あらためて勉強してみよう、という気にもならないんですね。ただただ、あきれ果て、ドラマに関心を無くしただけでして。

 桐野のことは、とりあえず置いておきます。
 次回、桐野作人氏の著作の感想とともに、まとめて書きたいと思います。

 ドラマの流れとしては、結局、後半の主柱は、西郷と大久保の関係、ということらしいんですけれど。
 瑛太の大久保利通は、最初から、ミスキャストだよなあとうんざりする感じでしたが、鈴木亮平の西郷には、多少の期待はあったんです。
 誠実そうな雰囲気はありますし、風格に欠けまくりとはいえ、もしかして、回を重ねればなんとかなるのかなあ、と思ったりしていたんです。

 鈴木亮平って、アメリカの日系人で、アイスダンスの名スケーター、アレックス・シブタニに、兄弟かと思うくらいそっくりなんです。

Maia & Alex Shibutani's Figure Skating Highlight | PyeongChang


 アレックス・シブタニは、妹のマイヤ・シブタニをパートナーに、過去、全米選手権で優勝2回、平昌オリンピックでは銅メダルを手にし、今シーズンは休養中です。
 二人はユーチューバーでもありまして、大会を裏側から撮ったものには、羽生結弦や浅田真央など、日本の有名シングル選手なんかもよく写っていたりしたものですから、私もけっこう見ていて、ファンでした。
 兄妹ですからアイスダンスで求められる、恋人や夫婦のような濃厚な情感はなく、しかし、軽やかで、清潔感、スピード感があって、とてもチャーミングな二人です。

 だから、鈴木亮平も、シブタニ兄妹が銅メダルを手にしたように、化けたりするのかなあ、とひそかに期待していたりしたのですが、今や、顔を見るのも嫌です。

 細かな事実関係の相違は、この際、置いておきます。
 といいますか、よく見ていなくて、見る気も無く、指摘するのもめんどうです。
 まあしかし、一つだけ大きな点を指摘しますと、西南戦争挙兵の時点で、西郷隆盛は正三位で、日本陸軍の陸軍大将ですし、桐野利秋と篠原國幹は正五位陸軍少将です。

 アジ歴 行在所達第4号

 太政大臣三条實美は、明治10年2月25日付けで、西郷、桐野、篠原の官位を取り上げろ、と通達しています。
 西郷軍は2月15日に鹿児島を出発し、21日に熊本城を包囲したわけですが、つまりこの時点で、西郷軍は現役の陸軍大将に率いられた軍隊だったわけでして、反乱軍と呼べるわけはないんです。
 当時の日本陸軍におきまして、陸軍大将は最上位で、明治10年に西郷が大将でなくなりましたあとは、西南戦争終結後、つまりは西郷死去後の10月10日付けで、有栖川宮熾仁親王(和宮さまのかつての婚約者です)が任じられています。次いで大将となりましたのは、長州出身の山縣有朋ですが、鹿鳴館時代、明治23年のことです。つまり、明治22年、大日本帝国憲法発布にともなう恩赦で、西鄕隆盛一人が赦され、正三位を追贈された後のことなんですね。
 それほどに、西郷隆盛こそが日本陸軍の頂点に立つ陸軍大将にふさわしい、といいます暗黙の空気に、明治前半期の日本はおおわれていたんです。

 えーと。ドラマの冒頭でも使っていたように思うのですが、上野の西郷像除幕式のとき、糸夫人が初めて像を見て「うちの人はこげなお人じゃなかった」というエピソードがあります。これは別に顔がちがいすぎる、というようなことではなく、あまりに像の服装がラフすぎまして……、見ようによっては寝間着姿みたいですし、「うちのお人は、こんないいかげんな格好をして人前に出るような、礼儀知らずではなかった」と、夫人は言いたかったのだ、という説が一般的です。

 このページの見出し画像にあげています月岡芳年の西郷像もそうなのですが、大方、西南戦争時の西郷の服装は、陸軍大将の軍服で描かれます。
 実際西郷は軍服姿で出陣していまして、それはそのまま陸軍大将が率いる軍は、正当な日本陸軍だ!という西郷の意思表明です。
 これは事実ですから、ドラマでも、そう描かれていたようなのですが、なんというのでしょうか、西郷の態度が桐野を責めてみたり(事実としてありえないことは、次回書きます)、薩摩藩士を憐れむようであってみたり、「政府に尋問の筋これあり」と、毅然として立ち上がった陸軍大将、とはとても見えないんですね。
 うじうじグダグダうじうじグダグダ、とても気持ちの悪い西郷でした。

 うじうじグダグダうじうじグダグダ、とても気持ちの悪いのは、大久保にも言えることでして、明治6年政変は西郷と大久保の大喧嘩で起こったというところまでは、なんとか事実を描こうとしているのかなあ、という気配も見えましたが、そこからがいけません。
 史実として、以降の大久保のやり口は、例えば江藤新平に対して、など、かぎりなく冷酷でしたし、西郷は、佐賀の乱も萩の乱も、反乱側に同情的であった節が見えます。
 その大久保が、果たして、大喧嘩の相手の西郷、鹿児島に帰っていて多くの兵を率いることが可能な陸軍大将を、なにもしないで許容した、なんぞということがありうるでしょうか?
 大久保は大久保なりの苛烈な信念を持って、故郷も西郷も叩き潰そうと挑発をしかけた、と見る方が妥当ですし、自然でしょう。

 で、です。陸軍大将の軍服を着て、「新政厚徳」の旗をかかげて出陣した西郷に、「大久保は倒されるべきだ」という信念が、なかったとでもいうのでしょうか。
 
 wiki-西郷隆盛像

 wikiによれば、です。上野の西郷像建立に際して、「さる筋から大将服姿に猛烈な反対が起こった」ということなんですが、さる筋って、どこからどう考えましても、長州陸軍初の大将、山縣有朋だったんじゃないんでしょうか。
 それで、です。薩摩閥から日本陸軍に残って山縣に協力していました、西郷の従兄弟・大山巌によれば、「ガリバルディのシャツだけの銅像から思いつき、西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兎狩りをした飾りの無い本来の姿にこそあるとして発案した」のだそうです。

明治、イタリア統一戦争(リソルジメント)の英雄でしたガリバルディに、西郷はよく擬せられました。年はガリバルディが20ほど上でしたけれども、同世代人といってもいいでしょう。
 西南戦争中、姉の国子に「おまんさあ、どげなおつもりで戻ってきやしたか。大恩ある西郷先生に刃向かい、生まれ故郷を攻め立て、血をわけた兄弟に大筒をむけるとは、人間としてできんこつごわんそな。腹切りにもどってきやしたとごわんそな」 と詰めよられたという大山です。
 「西郷どんはガリバルディのように、維新の後は一切の名利を捨てて隠遁していたかったのに、周囲がさせなかっただけ」だと信じてしまいたかったでしょうし、打倒大久保の決然とした意志など、見たくもなかったでしょう。

 とはいいますものの、ガリバルディは、ニース(現フランス領)の出身でして、日本で桜田門外の変が起こりました1860年(万延元年)、イタリア統一とひきかえに、ニースはフランス領となります。
 イタリア文化圏にあったニースですが、統一のための取り引きの結果、そうなったわけでして、生まれ故郷を失うこととなったガリバルディは、激怒したといわれています。
 まして故郷鹿児島に住む西郷が、です。鹿児島への無分別な政府の挑発を容認できないことくらい、大山にはわかっていたと思うのですが、まあ、あれですね。あれよあれよという間に、大久保がやっちまっていたのかもしれません。

 ずいぶん昔の記事ですが、民富まずんば仁愛また何くにありやで書きました小河一敏は、大久保利通にまつわる、ある有名なエピソードを語り残しています。
 完結・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族に出て来ます田中河内介、彼は明治天皇の母方の一族・中山家の家司で、明治天皇は幼い頃、母親の実家で育てられていましたから、子守もしてもらっただろう近しい人です。
 西郷島流しの原因となりました、薩摩藩上意討ちの方の寺田屋事件の中心に、この田中河内介がいて、小河も加わっていたのですが、志虚しく事破れて、田中河内介は薩摩の船上で惨殺され、海に投げ捨てられます。

 維新が成って後の話です。明治天皇は田中河内介をなつかしく思い出されて、「これからいくらでも活躍できる人なのに、すでに殺されてしまったと聞く。いったい誰がしたことだろうか」とつぶやかれたんですね。
 そこで小河は、「河内介を殺したのはこの男です」と、そばにいた大久保利通を指さした、といいます。
 薩摩藩が殺したことは確かなんですが、だれが命令したのかはわかりません。大久保であった証拠はないんですが、大久保は鎮圧側で動いていたわけですから、命令していても不思議はないですし、あるいは小河は、薩摩藩内のだれかから、大久保の命令だったと聞いていた可能性もあるでしょう。

 岩下方平(岩下長十郎の死参照)は、西郷、大久保と同じ下加治屋町に生まれた薩摩の家老で、共に倒幕に動いた人ですし、息子の長十郎は、維新後、大久保の渡欧の際の通訳を務めてもいます。明治6年政変に際しても新政府側に残りましたし、決して西郷側に立った人ではないのですが、明治20年代に書き残した回顧録では、かなり大久保に批判的でした。
 維新成ってからの大久保の政治手法には納得がいかず、ついていけなかった、とした上で、「大久保は非常の人だった。維新なった後は後進に道を譲って引退していれば、西郷と大喧嘩をすることもなく、西南戦争の悲劇は防ぐことができたかもしれなかったのに」と、嘆いているんですね。
 非常の人、つまりは、革命という非常の場では異才をふるったが、事が成った後には、その異才が行き過ぎて悲劇をもたらした、ということです。

 私もいま、大久保の果断は旧秩序の破壊には必要だったけれども、新秩序の構築には向いていなかったのではないか、と思っています。

 文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編で引用しましたが、明治10年7月、西南戦争の最中に、アーネスト・サトウは、友人への手紙にこう書いています。

 わたしは、これほど人民の発言を封ずる政府は、ありがたい政府ではなく、そういう政府に服従するよう西郷にすすめるのは、理にかなったこととは思えないと述べた。 

 長くなりましたので、続きます。
コメント (5)
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