郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

「桐野利秋とは何者か!?」vol2

2019年01月19日 | 桐野利秋

「桐野利秋とは何者か!?」vol1の続きです。


薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書 564)
桐野 作人
NHK出版


 伝記を書きますのに、本人の日記があれば、それは、とても重要な史料ですよね。丁寧に解読するべきものだと、私は思います。
 もちろん、日記は本人の主観で書くものですし、また当時の日記は秘密に書くものではなく、後世に見られることがほぼ前提です。したがいまして、日々の出来事を、それなりに取捨選択して書いていたりもするわけです。
 しかし、そういうことも含めて、丹念に読んでこそ、それを書いた本人と、真摯に向き合えるのではないでしょうか。

 桐野の「京在日記」は、幕末も押しつまった慶応3年9月1日から12月10日までの3ヶ月あまりのものしか、現存していません。
 しかしこの時期、倒幕の勅命、大政奉還、龍馬暗殺、王政復古と、まさに激動の渦の中に桐野はいます。
 この日記は、昭和45年(1970年)、田嶋秀隆氏の手により、読み下して活字化されているのですが、少部数発行の非売品。長らく、手に入れることが困難でした。
 ところが2004年、栗原智久氏が、現代語訳され、解説付きで出版されましたおかげで、手軽に手にできるようになりました。

桐野利秋日記
栗原 智久
PHP研究所


 いや、しかし。
 どびっくりの高値ですねえ。
 これって、大河ドラマ効果でしょうか。がっくり。
 私は、中村さまのご厚意で非売品のコピーも持っていますし、もちろん、栗原氏の現代語訳も持っているのですが、コピーは見づらいですし、通常、このブログを書くときなど、きっちり製本されました現代語訳を手にすることが多い次第です。

 まあ、ともかく。
 例えば人物の特定など、解読の難しい部分もあるのですが、栗原氏の解説もありますし、文章自体は、それほど難しい日記ではありません。
 それが、ですね。
 桐野作人氏は、いったいなんでこんな!!!、というような、ちょっとびっくりするような読み方をされていたりするんですね。

 例えば、桐野利秋と龍馬暗殺 後編に書きました、以下。

 10月28日の桐野の日記には、そんな殺伐とした状況をうかがわせる記事があります。
 桐野の従兄弟の別府晋介と、弟の山之内半左衛門が、四条富小路の路上でいどまれ、「何者か」というと、「政府」との答え。「政府とはどこか?」とさらに聞けば、「徳川」とのみ答え、刀をぬきかかったので、別府が抜き打ちに斬り、倒れるところを、半左衛門が一太刀あびせて倒した、というのです。
 大政奉還があった以上、薩摩藩士は、すでに幕府を政府とは思っていません。
 一方で、あくまでも徳川が政府だと思う幕府側の人々にとって、大政奉還は討幕派の陰謀なのです。


 この5日前、慶応3年10月23日の日記に、桐野は「10月の初めころから病気だったが、症状が重くなってどうしようもなくなった」というようなことを書いていまして、26日には藩医・石神良策に往診してもらっています。
 石神良策につきましては、楠本イネとイギリス医学に詳しく書いていますので、ご覧になってみてください。

 で、桐野は石神に、10月26、27、28、11月1日と続けて診てもらってまして、最後の11月1日にやっと「病が快方へ向かう」と記してあります。11月4日には近所を散策するまでに回復しましたが、しかし、28日から石神が同行しましたもう一人の医師・山下公平は、この11月4日にも見舞いにきています。

 つまり、桐野の従兄弟の別府晋介と弟の山之内半左衛門が、路上で斬り合いになった、という10月28日の時点で、桐野はまだ病が篤く、伏せっていたらしいんですね。
 で、どこからどう読んでも、この斬り合いは、従兄弟と弟が当事者です。もっとも、別府がさしていた刀は、桐野の刀であったそうなのですが。

 それが、ですね。
 桐野作人氏は、第2章で「剣客としての桐野」を描くにあたりまして、「桐野が弟、従兄弟と歩いていると斬りかかられた」という話に仕立ててしまっているんです。日記の原文では、前日に見舞いに来てくれた藤屋権兵衛のもとへ「従兄弟と弟を御礼に遣わした」と書いていますのに、どこをどうひねったら、「桐野は一間ほど後ろに飛び退いて、刀を半分ほど抜きかけたところ、別府が先に刺客を斬ってしまった」なんぞという光景が出現するのでしょうか。

 もう一つ、日記からです。
 桐野作人氏の著作、p.233「桐野の和歌」より、以下引用です。

 桐野の日記でもっとも意外なのは、和歌や漢詩を少なからず詠んでいることである。和歌は十五首、漢詩は二編載っている。 

 和歌が意外ですかね? 土方歳三も俳句を作っていますし、ねえ。どっちもド下手くそですが、土方の俳句の方が少しだけましかなあ、という気がします。
 桐野の和歌につきましては、昔、書きました。

 大政奉還 薩摩歌合戦

 ここのコメント欄で、私、書いております。

 11月3日条を最初見たとき、「あれ、これなかなかうまい!」と思いましたら、「長府の奥善一、京都に於ける作」とあって、がっかりしましたです(笑)

 私、まちがえて「奥善一」としか書いていませんが、11月3日条には、漢詩が二つと和歌が一つありまして、「長府の奥膳五郎、六郎、善一、京都における作」となっています。
 つまり、どこからどう見ましても、この漢詩二編、和歌一首は、長府の奥氏たちの作品なんですね。
 この日以外、桐野は漢詩は日記に書いておりません。

 和歌につきましては、確か「鹿児島県史料 西南戦争」に市来四郎が桐野について書いた文章がありまして、そこにもいくつか載っていますし、一応、師匠について勉強していたようなことも書かれていました。(すみません。コピーが出てこなくて、不確かです)

 桐野が漢詩を作ったかどうかは、ちょっとわかりません。
 いくつか、桐野のものと称されます漢詩の軸物は残っているようなのですが、それらが本当に桐野の筆であるかどうかは確かではないですし、例え桐野の真筆であったとしましても、その漢詩にいたりましては、あるいは友人の有馬藤太や中井桜洲が作ったかもしれません。

 で、日記から離れまして、先に出てまいりました従兄弟の別府晋介、です。
 wikiー別府晋介は、ほぼ「西南記伝」をもとに書いているのではないかと思うのですが(私は手を入れていません)、「鹿児島郡吉野村実方で別府十郎の第2子として生まれる」とあります。桐野の母・スガの実家は別府家ですので、通常、スガと別府十郎は兄妹、あるいは姉弟だったと理解されます。

 ところがですね。
 桐野氏著作p.78「桐野利秋とは何者か」より、引用です。
 
 父十郎が利秋の母スガの妹と婚姻し、その二男として晋介が生まれた。兄は九郎という(塩満郁夫「別府晋介と西南戦争」)

 私、塩満氏の論文を持っていませんので、中村さまに見ていただきました。
  「桐野利秋とは何者か!?」vol1のコメント欄に中村さまご本人が書き込んでくださっていますが、塩満氏の「別府九郎と西南戦争」では、九郎の父十郎の姉スガ、となっています、ということなんです。もっとも、年を計算すれば、十郎の妹スガ、かもしれないようですけれども。

 もう一つ、p.29、別府晋介の項目より。

 同5年に征韓論が起こるや、八月、外務大丞の花房義質が朝鮮国に派遣されることになり、晋介はその同行を命じられている

 いや、明治5年に征韓論は起こっていません!!!


アジア歴史資料センター

 上のリンクで、レファレンスコードB03030134500、「対韓政策関係雑纂/明治五年日韓尋交ノ為花房大丞、森山茂一行渡韓一件 第一巻」の明治5年8月10日、朝鮮尋交手続並目的をご覧ください。外務卿・副島種臣が正院に提出したものです。
 国交交渉が上手くいっていない現状を延べた後、次のように言っています。

 和館(草梁倭館)は、嘉吉以来、わが人民が行き来して住み、我が国の国権が行われて来た場所なので、捨てるわけにはいかない。いずれ使節を立てて談判するまで、便宜的な取り計らいをする 

 ということでして、要するに、外務省が釜山の草梁倭館を確保するための諸策を実行しようと、花房は渡韓したわけです。
 別府たちを派遣しましたのは、対馬(草梁倭館も含まれます)を所轄する鎮西鎮台(熊本鎮台)司令長官の桐野ですが、どこからどう見ましても、目的はいずれ正式に使節を立てるときのための草梁倭館偵察のためでしょう。

 これにつきましては、次回かその次か、明治6年政変を取り上げますとき、もっと詳しく書きます。

 いずれにせよ、です。
 細かいことばかり、と思われるかもしれませんが、何事も細かいことの積み重ねです。
 不審なほどに変な間違いが多いですし、あるいは桐野作人氏は、ゴーストライターにでも書かせたのか、と勘ぐりたくなるほどです。

 日記をちゃんと読んでくれていない、というだけで、著作全体への不信感が芽ばえたのですが、次回からは、もう少し大きな問題に取り組む予定です。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする