郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

新撰組と自由民権運動

2006年01月05日 | 土方歳三
雉子(きじ)啼くや 躓(つまず)く石に残る闇

土方歳三の義兄、佐藤彦五郎の句です。この句、好きです。
佐藤彦五郎は、歳三の姉・のぶの夫、なんですが、天領多摩の日野の名主で、歳三は早くに母を亡くして、歳が離れたこの姉が母代わりでしたので、子供のころから、我が家のように、佐藤家へ出入りしていたんですね。
その佐藤家が、天然理心流の道場を持っていて、土方歳三は、そこで剣に目覚めたわけです。
なぜ、多摩の名主が剣道場を持っていたか。

やはり、攘夷でしょう。
攘夷感情を、単純な外国人排斥、異人斬りとのみ結びつけるのは、あまりに一面的です。勤王佐幕にかかわらず、当時の日本人の大多数が、共通して持った感情なんですが、そこには大きな幅があり、どう対処すればいいのか、具体的な方策について、深刻な対立となったわけです。
黒船来航のとき、日本にはそれに対抗するなんの軍備もないことを、改めて、大多数の人々が覚ったのです。

幕末、なぜまず水戸藩が中心になったかといえば、ペリー来航に先立って、国防強化の必要性を強く唱え、その書が、いわば当時のベストセラーとなっていたから、です。
会沢正志斎の『新論』です。
水戸藩は、徳川御三家の一つ、つまり最大の親藩なのですが、黄門さま、水戸光圀公以来、『大日本史』と呼ばれる壮大な日本史編纂を延々と続けていまして、幕府の公式な歴史観、まあ、現代に例えていうならば検定教科書史観ですか、とは、趣の違った尊皇思想を育んでいたんです。
尊皇思想とはいっても、もちろん幕府を否定するようなものではなかったのですが、それが、です。より尊皇の方へゆれるには、ひとつの事件がありました。
ペリーの来航より二十数年前のことです。
水戸藩領の大津浜に、イギリスの捕鯨船の船員が上陸したのです。
関東の水戸藩領に英国船が押し入って来た、というのは、それだけで、幕府にも衝撃的だったのですが、当の水戸藩にとってはなおさらです。
このとき、『大日本史』の編纂に携わっていた水戸の儒学者、会沢正志斎は、筆談役として取り調べに出向きます。筆談役って……、イギリス人とどうやって? と、ちょっと不思議なんですが、イギリス人が中国人を連れていたんじゃないのでしょうか。それならば、漢文でやりとりができますから。
ともかく、これは水戸藩にとって、世界を肌で知る生の機会となり、世界の中の日本を強く意識して、尊皇攘夷の観念が燃え上がるのですね。
なぜって……、そうですね。つまり、このままでは西洋列強に太刀打ちできない、もっと国防を強化し、反対に世界へ押し出していかなければならず、そのためには日本独自の求心力が必要だ、ということです。

ともかく、ペリー来航時の日本は、武士は役人になっておりましたし、対外を考えるならば、まったく軍隊のない状態、といっても過言ではなかったのです。
すでにロシアの南下事件などもありましたし、識者は、もう長年、国防強化を叫んでいたのですけれども、一口で国防強化といいますが、それは、幕府の体制を大きく変革しなければ取り組めないことで、さしせまった脅威がなければ、急激な変革は、だれにとっても望ましいものではなかったのです。
そこへ、黒船です。
海防は緊急な問題となり、各地で、駆り出された郷士や農民たちにも、火がつくんですね。彼らの攘夷感情は、いつしか、自分たちが国を守るんだ、という、ナショナリズムとなります。
自分たちが国を守る、ということは、自分たちにも意見を言わせて欲しい、という政治参加につながるんです。
普仏戦争で、愛国者イコール共和主義者といわれ、『ベルリンへ!』と開戦を求めたフランスの戦争推進勢力が、民主主義の理念を追求する人々であったと同じように、ナショナリズムと民権運動は、本来、表裏一体のものであったのです。

天領三多摩の剣道勃興も、巨視的に見るならば、ナショナリズムの芽生え、でした。
島崎藤村の『夜明け前』の世界ですね。
自分たちが自分たちの手で郷土を、そして国土を守らなければ、という気負いが、江戸の文人たちとの交流も深く、文雅に造詣の深かった多摩の名主たちを、剣道に向かわせたのです。

天然理心流は多摩の剣法です。理心流三代目宗家、近藤周助は、多摩の豪農層を門人として、その援助で、江戸にも道場を持っていました。近藤勇は、やはり多摩の豪農の出で、養子となって周助の後を継いだわけです。
佐藤彦五郎や、やはり新撰組を支援した多摩の名主、小島鹿之助は、天然理心流の門人であると同時に、スポンサーでもありました。
幕府瓦解までの新撰組の核にあったのは、多摩の土着の人間関係です。
佐藤彦五郎は、甲陽鎮撫隊の甲州出陣に際しては、春日隊という多摩の農兵を組織し、新撰組に協力しています。
冒頭の句は、その敗戦のときに詠まれた句だと、言われているんです。

そして明治、多摩は、自由民権運動の地となります。新撰組のスポンサーだった小島鹿之助は、新撰組の顕彰に心血をそそぐと同時に、自由民権運動の闘志たちを、応援するようになります。
明治の自由民権運動は、ナショナリズムと民主主義が一体となった、反政府運動です。佐藤家もまた、民権運動にかかわっていたようですし、だからこそ彼らは、土方歳三の遺品を多摩に運んだ市村鉄之助が、西南戦争で、西郷軍に参加して死んだと、語り伝えたのではないでしょうか。
いえ、あるいは、それが事実だったのかもしれませんが、その語り伝えには、多摩の人々の願いが込められているように、感じるのです。
明治10年の時点において、西郷軍は、自由民権派をも含む、反政府勢力の希望の星でした。当時の錦絵の描き方や報道を見れば、人々が鬱屈した思いを、いかに西郷軍に託していたかが、はっきりとわかります。
福沢諭吉も、「言論が封じられたときには武力で抗議するしかない」と、西郷軍を擁護しておりますしね。

……って、えーと、これで、平太郎さまにいただいたTBへの反論になっておりますでしょうか(笑)

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