郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編

2008年08月22日 | アーネスト・サトウ
 現在、私、アーネスト・サトウ vol1を放ったまま、バーティ・ミットフォードに迷っていってしまっているんですが、それは、「なぜ彼が、まだ欧州ではよくは知られていなかった極東の島国へ渡る決心をしたのか」というvol1の最後の疑問が、けっこう難しいものであったから、でもあります。
 当時のイギリスの社会情勢、文化、外交姿勢、そこでサトウが置かれていた状況などなど、ともかく、知らなければいけないことがあまりに多すぎまして(私が無知なだけの話なんですが)、とりあえずまわりから………、つまり、とっかかりのいいミットフォードから、埋めていっているわけなのですが。

アーネスト・サトウの生涯―その日記と手紙より (東西交流叢書)
イアン・C. ラックストン
雄松堂出版

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 上記の本は、サトウの日記に加えて手紙の訳文が、けっこう多く収録されていまして、萩原延寿著「 遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」 の記述を補うに恰好の参考書です。
 この中に、明治12年(1879)、ですから、西南戦争の2年後、琉球処分について、F.V.ディキンズ(幕末、英国海軍軍医として来日。「パークス伝」の著者)に手紙を書いているのですが、この一節が………、笑っちゃいけないんでしょうけれど、なんとも笑えました。

 もし私が琉球人(沖縄人)であったなら、彼らと同じように感じたでしょう。それは全く体に合わない黒い服を着て、二週間も着古したようなワイシャツを着た、江戸から派遣された人々に開化を強いられるよりも、昔ながらのやり方に従った方が、遙かに好ましいということなのです。

 「二週間も着古したようなワイシャツ」って!!!
 笑い転げたんですが、なかなかに奥深いサトウの皮肉、でもあります。

 町田清蔵くんとパリス中尉で引用しました、フランスのパリス中尉の以下の感想。(「フランス艦長の見た堺事件」より。)

 われわれの京都での滞在の残りの二日間は、買い物や見物に充てられた。
 また、われわれを持て成してくれた人々とより広く知り合うこともできた。
 あの老練な司令官に加えて、いつもわれわれと一緒にいた若い将校がその一人であるが、私が今まで出会った日本人の中で、彼はもっともヨーロッパ化された男で、ワイシャツを着、付け外しできるカラーを付け、フロックコートを羽織っていたのである。
 下着類を使用するなどということは、彼の同郷人らには思いもつかぬことだった。金のある連中は、頻繁に衣服を取り替え、古くなったものは捨て去るが、そうでない連中は、いつまでも同じ服を着続け、自分の体を頻繁に洗うことによって、洗濯不足を補っているのである。


 衣服というのは、文化です。
 その社会の文脈にそってあるものですから、その衣服の生まれた社会をよく知ることなく、うわべだけをまねて着ますと、とても変なことになります。
 当時の日本の衣類は、ひんぱんに洗濯するものではなかったわけでして……、といいますか、今でも着物は、肌襦袢をも含めて、洗濯を前提に作られていません。
 しかし、当時の西洋の中流以上の洋服は……、いえ、労働者や農民であっても晴れ着は、カラーやワイシャツを、ぴしっとのりをきかせ、清潔に、そして純白に保つことが、基本だったんですね。
 よれよれのうす汚れたワイシャツは、だらしのない生活を意味し、おそらく……、着る人の人格を疑わせるものであったとさえ、いえるのではないでしょうか。
 ところが、明治初期の官吏たちの大多数は、普段着ならばともかく、公の場で、権威の象徴として洋服を着ながら、ろくに西洋社会を知らないで、珍妙な着方をしているものですから、西洋人から見れば、なんともあきれ果てる光景であったわけです。

 明治の洋服は、軍服にはじまったわけでして、これは、いわば機能性を求めたものです。
 なにしろ、江戸300年の太平の間、戦闘服にはほとんどなんの変化もなかったのですから、兵器や戦術の近代化を進めますと、衣服も動きやすい洋服を、ということになります。
 しかし、当時の西洋の軍服といいますのは、儀礼服的な要素も相当に強く、華やかなものでした。
 幕末、横浜に駐屯した英仏陸軍ですが、イギリスは上着が真っ赤で、フランスはズボンが真っ赤、です。
 将校の軍服ともなれば、当然、金モールきらきら。
 結局、武官が派手な洋服だから文官も、ということだったのでしょうか。
 明治3年(1870)には、陸海の軍服とともに、官吏の制服が決められています。

 しかし、どうもこの性急な洋服導入は、世界的にもまれな、奇異な自文化否定、であったのではないかと……、サトウの皮肉に笑い転げた後で、ふと思いました。
 以前にも幾度かご紹介しましたが、ピエール・ロチ著の「江戸の舞踏会」は、明治18年(1885)の鹿鳴館の舞踏会を、実録風に描いたものです。以下、村上菊一郎・吉氷清訳の「江戸の舞踏会」より引用です。

 ちと金ぴかでありすぎる、ちとあくどく飾りすぎている。この盛装した無数の日本の紳士や大臣や提督やどこかの官公吏たちは。彼らはどことなく、かつて評判の高かったブーム某将軍を思い出させる。それにまた、燕尾服というものは、すでにわれわれにとってもあんなに醜悪であるのに、何と彼らは奇妙な恰好にそれを着ていることだろう! もちろん、彼らはこの種のものに適した背中を持ってはいないのである。どうしてそうなのかはいえないけれど、わたしには彼らがみな、いつも、何だか猿によく似ているように思える。

 この舞踏会には、清国大使の一行も招かれていたのですが、「猿によく似た」日本人の洋装にくらべ、こちらは、実に堂々としていました。

 十時、大清国の大使一行の入場。矮小な日本人の全群衆の上に頭を抜き出し、嘲けるような眼つきをした、この十二人ほどの尊大な連中。北方の優秀民族の支那人たちは、その歩き方のうちにも、そのきらびやかな絹の下にも、大そう上品な典雅さを具えている。そしてまた、彼ら支那人は、その国民的な衣服や、華やかに金銀をちりばめ刺繍をほどこした長い上衣や、垂れた粗い口髭や、弁髪などを墨守して、良い趣味《ボン・グウ》と威厳とを表している。

 フランス海軍士官だったピエール・ロチは、このとき、けっして、清国に好感を持ってはいませんでした。
 現在のベトナムをめぐって起こった、清仏戦争の直後だったのです。清国は善戦したといってよく、イギリスの調停により、フランスはかろうじて面目を保ったような形で、あるいは、だからこそ、なのかもしれませんが、国の指導者レベルにおいて(というのも、この時期一般の日本人は、ほとんど洋服なぞ着ていませんので)、「軽薄に西洋の猿まねをする醜い日本人」と、「自国文化に強烈な自信を持った威厳ある清国人」という印象を、受けていたようです。

 たしかに、不平等条約を解消するにあたって、近代的な法整備は必要なことでしたし、軍の近代化なくして西洋列強に対抗することはできず、また産業育成も必要なことではあったでしょう。
 しかし、似合わない洋服やら鹿鳴館のダンスパーティやらが、なんで必要だったのかは、ちょっと理解に苦しみます。
 いえ……、私はけっこう、このなんとも珍妙な鹿鳴館風俗が、好きではあるんですけれども。………けれども、です。いとも簡単に伝統文化を投げ捨て、うわべをなぞっただけの洋服着用やら建築やらダンスやらは、「日本人にはオリジナリティがない」という西洋での評価を、決定的なものにしたのではなかったでしょうか。

 明治維新は革命でした。
 明治の指導者は、大多数が元は貧しい下級士族でしたし、洋化官僚もそうでした。
 服装ひとつをとっても、伝統文化の中にあるかぎり、成り上がり者の彼らには、威厳をもって着こなす自信がなく、西洋文化を模倣して新しい権威体系を作りあげなくては、国の指導者としての尊厳に欠ける、ということだったのでしょう。

 しかし、ほんとうにそうだったのでしょうか。
 結局、西郷隆盛は、陸軍大将の軍服によってではなく、質素な着物を愛用していたという伝説によって、十分に権威たりえたのではなかったでしょうか。
 そして、明治新政府の洋化が、うわべの権威を求めるものであった以上、西洋文明への本質的な理解とはほど遠いものとなり、日本人を愛したアーネスト・サトウにさえも……、いえ、日本人を愛していたサトウであったからこそ、かもしれませんが、激しい嫌悪を催させるものとなったのではないでしょうか。

 明治5年(1872)だったと思いますが、大久保利通が岩倉使節団の一員として渡航し、洋装の写真を撮って西郷に送ったおりに、西郷が確か「醜い」というように評した返事を、書いていたように記憶しているのですが、サトウは、確実にその気分を西郷と共有していました。
 そしてさらに、明治新政府は、明治6年政変以降、うわべの洋化に権威を求めた上で、専制政治を行ったのです。
 サトウにとっての西洋文明は、もちろん、専制政治を許容するものでは、ありませんでした。
 明治10年7月、西南戦争の最中に、アーネスト・サトウは、日記にこう書いています。(「西南戦争 遠い崖13 アーネスト・サトウ日記抄」より)
 

  わたしは、これほど人民の発言を封ずる政府は、ありがたい政府ではなく、そういう政府に服従するよう西郷にすすめるのは、理にかなったこととは思えないと述べた。


 アーネスト・サトウは、もちろん、イギリス公使館の一員であることを強く認識していましたので、けっして、西郷軍への共感を公言することなく、後年にも、同僚のA.H.マウンジーが書いた「薩摩反乱記」の書評を断っています。ただの旧弊士族反乱であるかのような「薩摩反乱記」の描き方に対して、あきらかにサトウはちがう意見を持っていましたが、イギリス外交官として、それを公然と口にすることは、イギリスのためにならない、という判断です。

 1895年(明治28年)、日清戦争の直後、モロッコ駐在特命全権公使だったサトウは、やはりディキンズへの手紙に、こう書いています。

  私が日本に滞在中、日本が第3位、第4位の地位に上ると信じたことは一度もありませんでした。国民はあまりにも単なる模倣者であり、基本的なものに欠けているように思えました。しかし、私が一度でも疑わなかったことの一つは、サムライ階級の騎士的勇気でした。

 おそらく、アーネスト・サトウには、日本人が西南戦争によって、なにか基本的なものを自ら押しつぶしたように、見えたのではないでしょうか。
 その青春の日に、維新の動乱を日本人とともにしたアーネスト・サトウは、時を超えて、江藤淳氏がその晩年に述べた以下の感慨を、共有していたのではないかと、そんな気がするのです。

  このとき実は山県は、自裁せず戦死した西郷南州という強烈な思想と対決していたのである。陽明学でもない、「敬天愛人」ですらない、国粋主義でも、排外思想でもない、それらをすべて超えながら、日本人の心情を深く揺り動かして止まない「西郷南洲」という思想。マルクス主義もアナーキズムもそのあらゆる変種も、近代化論もポストモダニズムも、日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を一度も持ったことがなかった。
「南洲残影」より)



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