風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

縄文武士道 その4 生命観

2014-06-23 14:24:20 | 歴史・民俗
 

        


岩手県内陸部に伝わる伝統芸能「鹿踊り」(ししおどり)。

その起源には諸説ありますが、私はおそらく、縄文時代以来の、動物霊の葬送儀礼ではなかったか、と思っています。

縄文人は鹿や猪、兎などの森の動物を狩って食料としていました。彼ら縄文人は、そうした糧となってくれた動物たちの霊に感謝を捧げ、丁重にあの世へ送り返した。

 

縄文遺跡で発見される貝塚ですが、一般的には「ゴミ捨て場」であったかのように言われていますが、どうやらそうとばかりも言えないらしい。大量の貝殻に混じって、他の動物の骨や壊れた土器片、人骨まで発見されることもある。

これは単なるゴミ捨て場ではなく、やはり葬送儀礼の行われた場所ではなかったか。

食糧となってくれた貝の霊を送り、動物の霊を送り、壊れた土器の霊を送り、また人間も送った。

ここに、縄文人の生命観が窺えるような気がします。





大いなる大自然の中で、すべての存在は生かされている。

それは人間も他の動物もみんな同じ、森の木々も、山も、川も、海も、人が作った土器などの物質も、みなすべて大自然の大いなる伊吹の中で生かされている。縄文の人々はそう考えていたに違いない。

みなすべて、大自然=神によって生かされた存在。

大自然は時にやさしく、時に災害などの災いも呼ぶ。しかし縄文人はそうした災いをも神の顕現であるとして祀った。和魂と荒魂の両方を祀る形態は、そのような世界観から生まれたものではないでしょうか。いずれも神の一側面に過ぎない、どちらも神の顕現なのだ、と。

それは人間も同じ、同じ人間の中に穏やかな面もあれば激しい側面もある。でもそれは、同じ一人の人間の中にある。

やさしくも厳しい大自然の中で生きて行く。そうした中で人々は、おそらく、すべての存在と「和」することを学んだのでしょう。

人の犠牲となってくれた動物たちと和するために、丁重にその霊をあの世へ送った。アイヌの方々はイ・オマンテで熊の霊を送る際、「また来いよ」と言って送るそうです。また来るためには、一度あの世へちゃんと送り返さないといけない。

あの世へ帰れなかった霊は、この世へ帰ってくることも出来ないのです。

あの世とこの世の循環。環=和ですね。

生きるとは、この循環=和を乱さないことだと、考えていたのかもしれない。




日本には古来より「客人(まろうど)神」という信仰があったそうです。

他所からやってきた人(神)を丁重にもてなすことで、幸いが得られ、邪険にあつかうと禍がもたらされる。

それは時に貴種であったり、神そのもの(蘇民将来伝承など)であったりするわけです。

他所からやってくる人は、新しい情報や技術、品物を持ってきてくれるし、時には新鮮な「子種」を置いて行く。非常にありがたい存在なわけですね。だから生命の循環を乱さないために、客人を歓待した。

もちろん、宿が無くて困っている人を単純に助けたいという情もあったでしょうが。




この「客人神」、現代でも人気がありましたね。

どこからともなくやってきて、ひょんなことから関わった一般庶民の家に泊めてもらい。

悪い奴らを懲らしめて、「カッカッカッ」と笑って去って行く、老人とその一行。

悪い奴らは、大概この老人一行を邪険に扱うんですね、そして最後に大きなしっぺ返しを食らう。視聴者はそれを観て胸が透く。

極めて日本的な勧善懲悪であり、日本古来の信仰に則った物語でもあったのです。

だからこそ、長い間人気を誇った番組だったのです。終了してしまったのは大変残念なことです。








「鎮まれ、鎮まれい!この紋所が目に入らぬか!」

「こちらにおわす御方をどなたと心得る!?畏れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!」

「一同の者、御老公の御前である。頭が高い!控えおろう!!!」


一同「ハハァー」



                      


                      



さて、和をもって他者と接する縄文人ではありましたが、その他者が明確に危害を加える(と彼らが判断した)者達であった場合、彼ら縄文人は徹底的に戦ったことでしょう。

危害を加える、それはすなわち、生命の循環を乱す行為でした。



原日本人とも言われる蝦夷たちが、古代日本において中央の政策に対し反乱を起こしたのは、おそらく自分達が先祖代々培ってきた伝統、生命の潮流を急激に乱されることを好としなかったからではないでしょうか。

蝦夷は彼らが代々つちかってきたものを守りたかった、だから、それを乱す者たちに反旗を翻した。

その蝦夷の戦い方は、勇猛果敢で堂々としており、潔く、爽やかですらあった。

そんな蝦夷と戦った中央の武士達は、ある意味衝撃を受けたのかも知れない。その蝦夷流の「もののふの道」はやがて中央の武士達に大きな影響を与え、それが日本の武士道として確立されていく。



なんてことを、つらつらと最近考えております。






この話、あともう少し続く…かな。



      

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2 コメント

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お疲れ様です。 (Unknown)
2014-06-23 17:25:44
敵ながらあっぱれ。好きな感情思考です。先生のおしゃる通りと思います。関東での蝦夷の墓石の数多く
に。ありがとう御座います。出合いも運縁いろいろで、避けられない戦いもあるし。環境は大きいと思いました。m(__)mハハア~。で御座います。ありがとう御座います。
父の愛情と母の愛情は、時間差こうげきに似ていると思いました。
Unknown (薫風亭奥大道)
2014-06-23 19:23:41
蝦夷は戦う時は徹底的に容赦なく戦うけれど、基本的には戦いは嫌いなんだと思う。だから相手の言い分も聞くし、もはやこれまでとなったら、潔く引くし、和議を申し出られたら、堂々と話し合いの場に出ても行く。まあ、それで騙されちゃったりすることもあるのだけどね。
こうした潔さ、爽やかさは、まさしく後々の「武士道」そのものだと思う。これは源氏にはなかったとしか思えないものなんです。そうしたことは次の記事で書きますので、よろしくね~。

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