江戸幕藩体制における農民政策を表現した言葉に、
【百姓は生かさぬよう殺さぬよう……】
というのがありますね。
死なない程度に徹底的に搾り取れ!という意味だとして、江戸時代がいかに農民や庶民に対して過酷であったか、江戸時代が暗黒時代であったことを証明する言葉であるとして、折あるごとに取り上げられてきた言葉です。
しかしこれは、本来の意味ではないらしい。
この言葉の元になっているのは、徳川家康の重臣であった本多正信が云ったとされる次の言葉
【百姓は財の余らぬように、不足になきように治むる事道也】
であるようです。
意味としては「贅沢はできないが、日々の暮らしに困らない程度の財は残せるような政策に務めることが、百姓を治めるには最良の道である」ということです。
決して「死なない程度に搾り取れ!」なんて言ってないわけです。
これは華美で贅沢な暮らしを戒め、質素倹約を奨励する、ある種道徳的な意味合いをもった政策で世を治めようというもので、これは農民、庶民に限らず、武士においても例外ではありません。質素倹約は武士においてこそ重要な生活信条として意識されていました。
幕府の重要ポスト、老中や若年寄などの役職を務められるのは、10万石以下の譜代大名に決められており、同じ譜代でも、10万石より多い石高の大身、つまり「金持ち」の大名はこうした役職に就くことは出来ず、外様大名はもちろん、御三家などの親藩大名も幕政に参画することはできませんでした。
幕政に参画できるのは基本、決して金持ちとは言えない10万石以下の譜代大名に限られていたわけです。
これは富と権力が一か所に集中するのを避けるという意味もあったようです。金の無い奴に政治権力を持たせ、金のある奴には政治権力を持たせないように調節していた。これで全体的にある程度のバランスがとれるように配慮をしていたらしいんです。
これを見るに、徳川幕府の政治信条は基本、「中庸」にあった、といえるかもしれませんね。
もちろん、この「中庸」がすべて上手く行っていたわけではありません。苛斂誅求とならざるを得ない状況も多々あったであろうし、田沼意次のように、富と権力が一個人に集中した例は少なからずあります。
もっとも田沼意次の場合、貨幣経済を発展させるなど政治的手腕には相当高い者が有り、必ずしも悪徳政治家とは言えない側面もあって、その評価そのものはまた別の話なのですが、
それは置いといて。
ともかくも、徳川幕府には、百姓に対する苛斂誅求をはじめから是とする意図などなかったわけですよ。むしろみんなで一丸となって、質素倹約、慎ましく囁かな生活に務めましょうという、道徳心の強い政策を行おうとしていたことが見えるわけです。
そうした意味合いを持った言葉が、いつの間にか意味合いを曲げられて伝えられてきた。
この、「生かさぬよう殺さぬよう……」云々は、歴史の教科書に載っていました。あたかも江戸時代が暗黒時代であるかのように曲げられた言葉が、教育現場で教えられ、江戸時代の曲げられたイメージというものが国民に植え付けられてきた。
まるで、誰かが「意図」したかのように。
徳川幕藩体制の時代が、暗黒時代であるとした方が都合の良い人たちとは誰でしょうね?そりゃあやっぱり、幕藩体制を潰した人たち
でしょうねえ。
富と権力が一か所に集中するのが当たり前のようにされたのは、明治以降のことです。なるほど、やはり
そういうこと、なんでしょうかねえ。
分かりませんけどね……(笑)
本当は質素倹約に慎ましく暮らしていた徳川幕府も、反体制からは真逆に印象づけられた…。
心より反省いたします…。
嫌なことから目を背けるのではなく、向き合わなくてはなりませんね。
飢饉の時は江戸に浮浪者として農民が流れる、豪農が小作を養えないでしょうから。
それだけ、お米が税ってことにだんだんと無理が来た、そしてお米をお金にする商人は貨幣価値を都合良くしていたから、田沼意次などはそこに目を向けたのでしょうね。
私は政治家として、田沼意次は素晴らしいと思うのですが、松平定信とかの質素倹約主義より。
藩単位で上手くいくことと、国単位でやれることは本当は違うかと。
本当に色々と、清濁合わせ呑むって難しいでしょうね。
幕末から明治って、徳川方も、倒幕側もトップにいる人たちは余り魅力的では無く、結果その後散った人達の方が志があったよな、って思い返します。
今気になるのは江戸幕府開くまで、家康はどんな風に江戸を開拓していったのか?とか、ですね。
北条氏も鎌倉周辺に居たはずだし、田沼意次は本当は印旛沼の開拓?干拓とか事業もしたかったはずだし。
わざわざ江戸幕府にしたんですもんね、その流れとか知ってみたい。
東京オリンピックの選手村、0m地帯に築かれる予定だそうですが、その前に地震など来ないといいけど、逆に知らしめる為に来たらどうしよう、とか色々歴史と含めて最近考えちゃいます。
江戸、関東を開発することは、徳川家の悲願だったことは確かでしょうね。
その後室町幕府も秀吉も、京都に拠点をおいたことでやはり武家らしさを失っていく。あくまでも武士であろうとした家康は頼朝に倣い、京都から遠く離れた関東の僻遠、江戸に幕府を置いたようです。
他にも理由はあるかもしれませんが、私に云えるのはここまでです。
どちらも、転覆されることを恐れていた、
リーダーはいつの時代も同じ、という気がしました。
江戸幕府は、一揆などを起こされても困るし、富と権力を持つ者が出るのを恐れて、贅沢させないという質素倹約という名の元、江戸幕府の上に立つことが出来るような者が出ないように枠決めをし
明治天皇は、天皇以外の血筋が、線香供養で浄化されるのを恐れて神仏分離した。
どっちも、政策の根底にある思いは似たよーなもんじゃん と思ってしまうのでした☆
徳川の政策は現代にまで引き継がれています。一見華美に贅沢に生きている(生かされている)ようでも、日本人の生活はあのバブルの時期ですら、住宅費、教育費の負担が重く、決して余裕はなかったのです。しかも1948年、1950年の公務員法改正によって公務員のスト権が奪われ、学校教育は政府によって教育内容を統制されて国民に必要な基礎知識がなく、国民には効果的な抵抗、反撃はできないのをいいことに、1億愚民化政策を進めた結果が、政治的無関心です。