アテルイらの反乱が平定されて以降、大和の統制下に下った蝦夷達は「俘囚」と呼ばれるようになります。
俘囚達は全国各地に強制移住させられますが、ほとんどの土地は稲作不適合地だったようです。初めは「俘囚料」なる手当が支払われていましたが、これが地方の財政を逼迫させ、徐々に支払が滞るようになってくる。生活に窮した俘囚達は、山に逃げて狩りをする者や、反乱を起こす者達が出始める。そうなるとまた「所詮、蝦夷など野蛮だ」という偏見が広がる悪循環。
俘囚達はいきなり反乱を起こしたわけではなく、嘆願書を提出して話し合いの場を設けようとしたにもかかわらず、それが無視されたためのやむを得ぬ反乱だったことが解明されています。
俘囚側はちゃんと筋を通そうとした。それを無視したのは大和側です。にもかかわらず、野蛮人とは…。
地元に残った俘囚達も困窮していました。初期の頃は「饗応」という配給制度があったようですが、国家財政の窮乏と共にそれも行われなくなり、税の徴収は苛烈を極めるばかり。
元慶2年、秋田地方で大規模な反乱が発生します。
世に言う、「元慶の乱」です。
2度に渡って秋田城を攻め落とし、俘囚達は秋田川(現・雄物川)以北の独立を宣言。中央政府は秋田権守に藤原保則を派遣し、対応に当たらせます。
藤原保則は、俘囚達の本意は独立ではないことを見抜き、鎮守府将軍・小野春風を彼らのもとに遣わします。
小野春風は俘囚達と膝突合せて日夜談判を繰り返し、税の緩和と、投降した者達の罪は問わないという大幅な譲歩を示し、乱を終息させます。
秋田の民も強かった。力ずくでは乱を収めるのは難しいとみた、藤原保則の慧眼が功を奏しました。
アテルイの乱よりおよそ80年。中央政府も多少は“学んだ”ということでしょうか。
というより、この時点においてすでに、大和による東北の統制力が衰えを見せ始めていた、と言うことかも知れません。
9世紀後半から10世紀前半にかけて、大地震やそれに伴う大津波。火山の噴火に土砂災害等、日本は天災続きでした。
貞観11年(869)。東北地方を襲った大地震と、それによって発生した巨大津波は、太平洋沿岸に多大な損害を与えました(貞観大震災)。犠牲者の数は数万人規模に達し、陸奥国府多賀城とその城下町も大変な被害に見舞われたようです。
その2年後、貞観13年(871)には鳥海山が噴火しています。大地震の後数年以内に火山が噴火するというデータは、ここにおいても裏付けられるわけですが、この火山灰による凶作が続き、にも拘らずの苛斂誅求に堪えかねた人々の叫び。
それが元慶の乱だった。
10世紀に入り延喜15年(915)。青森、秋田県境の十和田湖火山が大噴火します。火山灰は遠く京の都にまで達しました。この火山灰によって東北地方の農業生産は壊滅的な打撃を受けたことでしょう。
天慶2年(939)には出羽国で俘囚の反乱が起きています。その1か月前には、関東で平将門の乱が起きており、度重なる天変地異とそれに伴う人心の荒廃が、乱の引き金となっていると言えます。
立て続けの災害と戦乱は、確実に国家財政を逼迫させていきました。復旧復興に頭を悩ませた中央政府は、それまでの奥羽政策を転換させます。
それまでは、東北の民を公民とするための慰撫教化に務めていましたが、国家財政の破綻は律令制度の維持を困難にさせ、その結果、中央政府は東北と距離を置く方針に転換したようです。
特定の税さえ納めてくれれば、後は好きにして構わない。
簡単に言えばそういうことでしょう。
10世紀後半頃、北東北では地元民同士での小規模な戦闘が繰り替えされたようです。それはやがて特定の勢力による一定のまとまりを見せ始め、奥六郡(岩手県中央部)においては、胆沢城の権益を握る安倍氏が台頭し、秋田仙北郡においては、やはり秋田城の権益を握る清原氏が台頭し、北東北における二大勢力となっていくのです。
【続く】