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 風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

黄金の國【前九年合戦編】承前 アテルイから安倍氏へ、9世紀から10世紀の東北

2013-06-04 22:30:14 | 黄金の國
  

アテルイらの反乱が平定されて以降、大和の統制下に下った蝦夷達は「俘囚」と呼ばれるようになります。

俘囚達は全国各地に強制移住させられますが、ほとんどの土地は稲作不適合地だったようです。初めは「俘囚料」なる手当が支払われていましたが、これが地方の財政を逼迫させ、徐々に支払が滞るようになってくる。生活に窮した俘囚達は、山に逃げて狩りをする者や、反乱を起こす者達が出始める。そうなるとまた「所詮、蝦夷など野蛮だ」という偏見が広がる悪循環。
俘囚達はいきなり反乱を起こしたわけではなく、嘆願書を提出して話し合いの場を設けようとしたにもかかわらず、それが無視されたためのやむを得ぬ反乱だったことが解明されています。

俘囚側はちゃんと筋を通そうとした。それを無視したのは大和側です。にもかかわらず、野蛮人とは…。

地元に残った俘囚達も困窮していました。初期の頃は「饗応」という配給制度があったようですが、国家財政の窮乏と共にそれも行われなくなり、税の徴収は苛烈を極めるばかり。

元慶2年、秋田地方で大規模な反乱が発生します。

世に言う、「元慶の乱」です。



2度に渡って秋田城を攻め落とし、俘囚達は秋田川(現・雄物川)以北の独立を宣言。中央政府は秋田権守に藤原保則を派遣し、対応に当たらせます。
藤原保則は、俘囚達の本意は独立ではないことを見抜き、鎮守府将軍・小野春風を彼らのもとに遣わします。
小野春風は俘囚達と膝突合せて日夜談判を繰り返し、税の緩和と、投降した者達の罪は問わないという大幅な譲歩を示し、乱を終息させます。
秋田の民も強かった。力ずくでは乱を収めるのは難しいとみた、藤原保則の慧眼が功を奏しました。

アテルイの乱よりおよそ80年。中央政府も多少は“学んだ”ということでしょうか。

というより、この時点においてすでに、大和による東北の統制力が衰えを見せ始めていた、と言うことかも知れません。



9世紀後半から10世紀前半にかけて、大地震やそれに伴う大津波。火山の噴火に土砂災害等、日本は天災続きでした。

貞観11年(869)。東北地方を襲った大地震と、それによって発生した巨大津波は、太平洋沿岸に多大な損害を与えました(貞観大震災)。犠牲者の数は数万人規模に達し、陸奥国府多賀城とその城下町も大変な被害に見舞われたようです。

その2年後、貞観13年(871)には鳥海山が噴火しています。大地震の後数年以内に火山が噴火するというデータは、ここにおいても裏付けられるわけですが、この火山灰による凶作が続き、にも拘らずの苛斂誅求に堪えかねた人々の叫び。

それが元慶の乱だった。

10世紀に入り延喜15年(915)。青森、秋田県境の十和田湖火山が大噴火します。火山灰は遠く京の都にまで達しました。この火山灰によって東北地方の農業生産は壊滅的な打撃を受けたことでしょう。
天慶2年(939)には出羽国で俘囚の反乱が起きています。その1か月前には、関東で平将門の乱が起きており、度重なる天変地異とそれに伴う人心の荒廃が、乱の引き金となっていると言えます。

立て続けの災害と戦乱は、確実に国家財政を逼迫させていきました。復旧復興に頭を悩ませた中央政府は、それまでの奥羽政策を転換させます。
それまでは、東北の民を公民とするための慰撫教化に務めていましたが、国家財政の破綻は律令制度の維持を困難にさせ、その結果、中央政府は東北と距離を置く方針に転換したようです。

特定の税さえ納めてくれれば、後は好きにして構わない。

簡単に言えばそういうことでしょう。

10世紀後半頃、北東北では地元民同士での小規模な戦闘が繰り替えされたようです。それはやがて特定の勢力による一定のまとまりを見せ始め、奥六郡(岩手県中央部)においては、胆沢城の権益を握る安倍氏が台頭し、秋田仙北郡においては、やはり秋田城の権益を握る清原氏が台頭し、北東北における二大勢力となっていくのです。

【続く】

黄金の國【コラム】2 悪路王伝説と田村麻呂 そして今を生きる我々が思うべきこと

2013-06-01 21:56:27 | 黄金の國


蝦夷と呼ばれた東北の民は、何故頑強な抵抗を繰り返したのか。

当時の東北人は狩猟採集と共に稲作も行っていたし、様々な産物をもって交易も行っていたようです。大自然に感謝し、生命を慈しみ、彼らなりの“豊かな”伝統文化の中に暮らしていた。

その先祖代々大切にしてきた大地を、愛しき故郷を、大和は寄越せという。土地も人民もすべて国のものだという。

何の話だ?国とはなんだ?

我々はただ、愛する故郷で、先祖代々伝えられてきた文化伝統を守って暮らしてきただけだ。

それを何故奪う?何故見下されねばならぬ?

彼らはただ、守りたかった。愛する故郷を、先祖より伝えられた文化を。

自分達の誇りを。


                


岩手県平泉町の西の端にある、達谷窟西光寺(たっこくのいわや せいこうじ)。岩手県随一の古刹です。

この窟=洞窟には、悪路王という名の“鬼”(盗賊)がおり、近隣の民を悩ませていた。それを退治したのが坂上田村麻呂。

田村麻呂は出陣の際、清水寺の観音様に守護を祈願し、その御蔭で強敵悪路王を退治出来たとして、洞窟の前に清水寺と同じ様式の毘沙門堂を建立し、兜跋毘沙門天を本尊として祀った。

これが達谷窟毘沙門堂の縁起です。



私はこの毘沙門堂の中に入ったことがあります。真夏だというのに、洞窟の冷気が漏れ出てくるのか中はひんやりとしており、居並ぶ天部達の像を、飽かずに眺めていたものです。

この悪路王伝説がいつごろから流布されたのか、少なくとも十一世紀から十二世紀、平安時代末期から鎌倉時代ごろには全国的に広まっていたようです。田村麻呂は観音様や毘沙門天の御加護を受けたスーパーヒーローで、その御加護によって悪辣なる鬼、悪路王を退治したという筋立てにより、仏の功徳を説いた仏教説話として、全国に広めた集団がいたのでしょうね。

ところでこの悪路王、モデルとなったのはアテルイではないか、と言われています。しかしアテルイの本拠地は胆沢であって、達谷窟は磐井郡。確かに田村麻呂最大の敵はアテルイでしたから、悪路王をアテルイと比定したくなるのは理解できるのですが、果たしてどうでしょうか。

まあ、アテルイであるにしろないにしろ、、この洞窟には“なにか”があったのでしょう。だからこそ、毘沙門堂で塞ぐ必要があった。



達谷窟毘沙門堂の御本尊は兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)。これは北方を守護する神、すなわち北方から来る敵を退ける神です。

北方から来る敵とは、当然蝦夷。つまりこの毘沙門堂は、蝦夷を封じ込めるために建てられたとも、考えられます。

蝦夷を封じ込める?洞窟の中に?

古来、洞窟は冥界の入り口である、と考えられていたようです。洞窟内に遺体を安置する風習は日本各地にありました。
それと共に、洞窟はいざという時に立てこもる要塞とも成り得ます。もしどこか別の場所に出入り口があったなら、自由にゲリラ戦を仕掛けることも出来る。実際達谷窟は青森県の外ヶ浜まで繋がっており、蝦夷達は行き来をしていたのだ、という噂話がまことしやかに流布されていたといいますから、征討軍側の恐怖感たるや、相当なものがあったやもしれません。

つまり達谷窟は、蝦夷達の先祖の霊に護られた鉄壁の要塞だった。そして冥界の出入り口でもあることから

蝦夷の「怨霊」が出てくる窟でもあった。

だから、毘沙門天の霊力によって、封じ込める必要があった。

征討軍側の恐怖感が建てさせたお堂だったのだ…。

以上は私の妄想にすぎませんので、その点、よしなに。



田村麻呂英雄譚は日本全国に流布されました。庶民を守った英雄、それはこの東北においても同じでした。

しかし田村麻呂は、アテルイと戦い彼を捕え、京の都まで護送して、結果的に死に至らしめた人物です。忌み嫌われこそすれ、英雄として崇拝されるなど、普通なら考えられないのではないでしょうか。

これは何故なのでしょう?

田村麻呂の征討が行われたのは8世紀から9世紀。田村麻呂英雄譚が流布されるのが十一世紀頃とすると、およそ2~300年の開きがあります。その間に、東北人の“意識”が変わったのではないでしょうか。

田村麻呂の征討の後、多くの移民団が東北へ入植し、代わりに多くの蝦夷達が日本国中へ強制移住させられました。地元へ残った蝦夷達は、そのまま稲作農耕を始める者や、山へ逃れて非農耕的な“山の民”の生活を選ぶ者と別れていきました。里へ残った蝦夷達はやがて移民達と交わり、同化していく。
その過程で、蝦夷とは自分達のことではなく、もっと北に住むと言うエゾ=アイヌのことだと思うようになった。

アイデンティティの転換。田村麻呂への、ある種熱狂的ともいえる憧憬には、そうした背景があるのかも知れません。

しかし本当の記憶は、先祖の「記憶」としてDNAに刻み込まれているはず。表面の意識と、深層の記憶との乖離…。

これが東北人特有の、ある種のコンプレックスの本になっているのかも知れない…。

これも私の妄想、ということで、よしなに。




このような歴史を見て行きますと、やはり大和国家のやり方は理不尽に思え、蝦夷達が可哀そうに思えてくる。普通に人情のある人間なら、それは当然の感情だと思う。

それ故、稀な例とはいえ、反国家や反天皇の方向に走る人もいるようです。まあそんな人はホントに稀ですが、怒りや悲しみの感情に捕われる人は多いことでしょう。

かく言う私がそうだった。東北の先人達のことを思う度、怒りに身を震わせていた。悲しみに溺れていた。

しかし、我々は「今」を生きる「日本人」です。大切なのは「今」と「これから」。

遠い過去の怒りに、遥かな時代の悲しみに捕われてはいけない。

我々が先人達に向けるべき思い、それは「感謝」です。

愛する故郷を、掛け替えのない大地を、

守ってくれて、ありがとう。

蝦夷と征討軍との区別なく、いくさで命を落とした「すべて」の先人達に感謝の思いを向けること、あなた方が守ろうとした大地を、決して徒や疎かにはしない。

縁あって、このブログを読まれている方々も、出来ればそのような思いを、先人達に捧げていただければ幸いです。

「今」を生きる「日本人」として、歴史に捕われることなく、しかして歴史を忘れることなく、「今」と「これから」を生きて行きたい。

なんてことを思う、今日この頃。





さて、次章からは奥州安倍氏、【前九年合戦編】に突入します、たぶん…(笑)





                 

黄金の國【アテルイ編】~4~アテルイ残照

2013-05-29 19:05:26 | 黄金の國


桓武天皇は、いや歴代天皇は、この日本列島を稲の穂の黄金の輝きで埋め尽くすこと、瑞穂の国とすることに、強烈な使命感を覚えていたのかも知れません。

稲は神より賜りしもの。日本の祭司王たる天皇と稲作とは切っても切れない密接な関係があるようで、だからこ列島を稲穂で埋め尽くすことは、神より与えられし使命。

そのためには、従わぬものども、まつろわぬ“蛮族”どもを武力によって蹴散らすことも、致し方ない…。



坂上田村麻呂の戦略は、軍事力で押し込む策をとらず、圧倒的な経済力の差を見せつけることによって、蝦夷たちの士気を削ぐ戦略だったようです。

東北、特に岩手県辺りには、田村麻呂創建によると伝えられる神社仏閣がやたらと多い。そのすべてが本当だとは到底思えなかったのですが、田村麻呂本人ではないにしろ、田村麻呂の意を受けた役人達が東北中に散って寺社の創建を勧め、民心の慰撫に務めたとするなら、田村麻呂が創建者として伝えられたとしても不思議はない。

豊富な経済力をもって寺社を創建し、神仏の功徳を説き、民衆を神仏に帰依させることで、民衆の心を朝廷側に靡かせる。武力で強引に従わせて怨念を残すよりも、遥かに良策です。田村麻呂は為政者としても、相当な手腕を発揮したようです。

延暦21年(802)。田村麻呂は関東などからの移民約四千人を率いて胆沢の地に入ります。
そしてアテルイ達の本拠の対岸、北上川の河畔に一辺670メートルもの巨大な城、胆沢城を建設します。広大な胆沢平野の真ん中に、大和の巨大な城が築かれて行く。それをなすすべもなく見ている他ないアテルイ達。
戦おうと思えば戦える、しかし戦ったところでどうなる?大和は後から後から兵を送り続けるだろう。胆沢の地は、胆沢の民は、愛する故郷は益々疲弊するばかりではないか。そんな戦いになんの意味がある?
アテルイの心中に、はっきりと「敗北」の二文字が浮かんだのは、この時だったでしょう。

胆沢城の建設より三か月後、アテルイは腹心のモレら五百余人を率いて田村麻呂に投降します。

アテルイとモレは京へと護送されます。田村麻呂はその戦いの中で、アテルイらに一目置いていたのでしょう。彼らの命を助け、朝廷の為に働かせた方がお互いの為になると考え、アテルイらの助命嘆願を働き掛けます。しかし居並ぶ公卿達の、蝦夷に対する偏見は根深く、「虎を野に放つようなマネは出来ない」として、アテルイとモレの処刑が決定されます。

アテルイとモレは、河内にて処刑されました。故郷を愛し、故郷の為に戦い、異国の地で果てた。そこに怨みはあっただろうか。無念はあっただろうか。




延暦24年(805)。未だ東北での戦火が燻る中、桓武天皇は対蝦夷戦争と都の造営という二大事業を中止することを決定します。
度重なる戦争と遷都は、確実に国の財政を疲弊させていました。それでも一定の成果はあった。桓武天皇はまるで死期を悟られたかのように、御自らこの事業の幕を引かれ、その翌年、崩御されました。



胆沢城には軍事の拠点、鎮守府が置かれ、多賀城の政庁と共に、奥羽支配の拠点となっていきます。
東北産の良馬は現代でいうベンツ並に珍重され、遣唐使は東北産の砂金を唐に持ち込み、「黄金の国ジパング」のイメージ作りに一役買ったようです。またアザラシの毛皮などの北方産の品々も胆沢城などを介して京に持ち込まれ、それらの利権を通じて、胆沢城の在庁官人だった安倍氏が力をつけてくるわけですが、
それは次章以降にて。



どちらか一方だけが絶対的に正しいとか、そんなことはないんです。どちらのサイドも、守りたいものを守ろうとした。信じる道を進もうとした。
その思いと思いが、不幸にもぶつかってしまった。

この国が形成されていく過程で、このような争いは幾度となく繰り返され、その度、多くの命が奪われた。
多くの怒りが、痛みが哀しみが、
多くの怨みが残された。

でもこの方々の御蔭で、現在の我々は生かされている。我々はそれを忘れてはいけない。

この方達の残した怨みを、怒りを、哀しみを、我々が受け取ってはいけない。それではまた、同じことの繰り返し。

ただ感謝あるのみ。もう終わったんだ。もういいんだ。

もう眠って、いいんだよ。

ありがとう。あなた方のことは、忘れない。






まだ終わりじゃないですよ。まだまだ続きます。

黄金の國【コラム】征夷大将軍とは

2013-05-26 22:04:41 | 黄金の國


                     
                         坂上田村麻呂〈wikipediaより転載〉



征夷大将軍というのは、対蝦夷戦争用に立てられた臨時職だったんです。

対蝦夷戦争の朝廷側の総大将は、それまで「征東大使」「持節征東大使」「征東将軍」「征東大将軍」等々一定せず、その権限も限定的なものでした。

しかしそれでは、強敵蝦夷と戦うには上手くない。現場において臨機応変に対処できるよう、その権限を強化したのです。

征夷の“夷”は言うまでもなく蝦夷の”夷”です。これは中国の中華思想による外国の蛮族、「東夷」「西戎」「南蛮」「北荻」からきています。大和から見て東、実際には東寄りの北ですが、まあ東だから夷ですね。

つまり征夷大将軍とは、蝦夷と戦うために特別に立てられた位だったわけですね。

初代征夷大将軍は大伴弟麻呂。二代目が毘沙門天の化身と謳われた坂上田村麻呂です。
三代目の文室綿麻呂以降、征夷大将軍の座は置かれず、源頼朝の登場まで待つことになります。


                 
                       源頼朝〈wikipeiaより転載〉



頼朝の征夷大将軍は、奥州平泉の王、藤原秀衡に対抗するためだった、と思われます。

藤原秀衡は鎮守府将軍と陸奥守という、奥州における政治・軍事両方の最高権威を与えられたことで、奥州の最高権威者として君臨していました。それに対抗しうる位と言えば、全国の武士に号令をかけることが出来る、武門の最高権威、征夷大将軍しかなかった。それに相手は蝦“夷”ですから、これ以上ふさわしいものはなかった、と思われます。
もっともこれには異論もあって、朝廷側が頼朝に位を与える際、“たまたま”与えただけで、頼朝自身は必ずしも、征夷大将軍にこだわっていたわけではないという説もあります。個人的には、前者の説の方がドラマチックで好きですね(笑)

頼朝以降、鎌倉、室町、江戸と征夷大将軍職は継承されていくわけですが、これ以上は煩雑になりますので、とりあえずこのくらいで。


                
                      徳川家康〈wikipeiaより転載〉


                
                      誰?

黄金の國【アテルイ編】~3~征夷大将軍・坂上田村麻呂

2013-05-25 22:10:42 | 黄金の國


「坂東の安危はこの一挙にあり。将軍よろしくこれを勉むべし」
(続日本紀)

桓武天皇が、征東将軍紀古佐美に賜った言葉です。

まるで「皇国の興廃この一戦にあり」と謡っているかのようです。奥州を版図とすることに、桓武天皇はその人生を賭けていたと言っていい。

奥州を版図とし、奥州の民を公民に加え、奥州の沃野を黄金の花で埋め尽くすこと。桓武天皇はこれを、なんとしてでも成し遂げたかったようです。



延暦8年(789)3月。多賀城に集結した征討軍は一気に北上し、わずか20日後には衣川にまで進軍します。迎え撃つアテルイ軍!
征討軍は精鋭四千に北上川を渡河させ、アテルイ軍の本拠地、巣伏を攻撃しようとします。アテルイ軍は三百の軍勢で対峙しますが、多勢に無勢で、アテルイ軍は奥地へと後退していきます。
勢いに乗った征討軍の精鋭四千が追撃し、奥地へと侵入していきます。
すると突然、森の中に隠れていたアテルイ軍総勢千二百が、征討軍の両脇から挟み撃ちの奇襲攻撃を仕掛けます。征討軍は総崩れとなって後退しますが、彼らの後方には、北上川が奔流となって流れており、逃げ場がない。大混乱に陥った征討軍は、川に飛び込んで溺死するものだけで千を超え、想像だにしなかった大敗北を喫してしまいました。

この報告を聞いた桓武天皇の御心中、いかばかりでありましたでしょうや。

アテルイは勝ちました。しかし、戦に巻き込まれて焼き討ちにされた村落は17村。焼失家屋は約八百戸に及び、アテルイの心が晴れることはなかったでしょう。




桓武天皇はあきらめません。外交戦術に長けた大伴弟麻呂を使って、アテルイの周辺から切り崩していく作戦を取ります。
まずは宮城県側の実力者たちを懐柔して、後方支援体制を強化すると、延暦11年(792)にはアテルイの本拠地・胆沢の北、斯波(岩手県紫波郡)の長アヌシキを懐柔。連合の結束が崩されて、アテルイはじわじわと包囲されていきます。

延暦13年(794)。大伴弟麻呂は節刀を賜り、史上初の征夷大将軍に任命され、戦場におけるすべての権限を委任されます。その副将となったのが、坂上田村麻呂です。
坂上田村麻呂は大陸からの渡来人の子孫で、漢の皇帝の末裔を称していたようです。
大伴弟麻呂はすでに60歳を過ぎており、実際の戦場は田村麻呂にまかせ、自身は後方にいて、政治的手腕を発揮したようです。両軍は再び激突し、今度は征討軍の勝利となりました。
この二度目の対戦の経緯については、資料が散逸しているため詳細がわからないのですが、この敗戦があっても、アテルイはまだまだ意気軒昂、勢力を温存していました。
しかし、アテルイは内心、虚しさを憶えていたかも知れません。大和はどこまでも諦めるつもりはないらしい。これ以上戦い続けることに意味があるのだろうか…。



桓武天皇は直ちに三度目の征討軍の編制に入ります。これで最後、これで決める!桓武天皇の決意の下選ばれた将軍は、前回の戦で功績を挙げた坂上田村麻呂でした。

征夷大将軍・坂上田村麻呂の誕生です。

【続く】

黄金の國【アテルイ編】~2~アテルイ登場

2013-05-22 22:04:45 | 黄金の國


ここで東北における水田稲作の歴史的変遷を、ざっとおさらいしてみましょう。

青森県田舎館村の垂柳遺跡には、今からおよそ二千年ほど前の水田の跡があります。弥生時代中期、西暦1世紀に入るか入らなないかくらいの頃、津軽地方にすでに稲作が伝播していた。

寒さは厳しいと言っても、夏には関東と同じぐらいまで気温は上がる。少し工夫さえ凝らせば、津軽でも稲作は出来得た。しかしその後気候が寒冷化するに伴い、津軽の人々は稲作を捨てたようです。

元々東北は、春と秋にマスやサケが川を遡上してくるし、山中には木の実や山菜などの幸が豊富にあった。縄文時代中期頃の遺跡、三内丸山遺跡では、栗の木を栽培していた跡が見つかっており、リスクの大きい稲作に頼らずとも、十分に豊かな暮らしは出来ていたのです。

北東北に稲作が定着し難かったのは、苦労もリスクも大きい稲作に、抑々の必要性を感じなかったし、魅力もなかったからでしょう。


それでも仙台平野あたりでは、水田稲作は弥生時代の始まりと共に行われていたようです。

4世紀には仙台平野に、大和の文化の影響を受けた前方後円墳が作られています(雷神山古墳、遠見塚古墳)。稲作を通じて“豊か”になった土地の豪族が、大和の影響の下に築いたものでしょう。

         

         中央が雷神山古墳。右上は小塚古墳。
         1975年撮影。現在、古墳の周囲は撮影時より都市化している。


5世紀になりますと、仙台平野からポンと跳んだ、岩手県の胆沢平野に、最北端の前方後円墳、角塚古墳が出現します。水田稲作を通して権力と経済力を手にした豪族が、大和の文化の影響の下に築いたものでしょう。このように、古墳時代中期頃には、岩手県内陸南部の辺りまで、水田稲作は「ある程度」定着していたのです。

                    

                    角塚古墳


しかし大和は、それでは“足りない”と思った。

奥羽全土を公地となし、奥羽の民すべてを公民とする。

そこにはある種の、悲壮な使命感すら覚えます。

それは結果的に、東北の民の自由意思を貶めた。

誇り高き東北の民、心優しき東北の民は、雄々しき戦士(弓士→ユミシ=エミシ)でありました。

我が故郷を守るため、先祖伝来の愛しき大地を守るため、

彼らは立ち上がりました。



砦麻呂の乱の後、朝廷は征討軍を派遣しますが、この征討軍の士気は最低だったようです。時の光仁天皇は再三、征討行動を取るように要請しますが、軍は言を左右にしてなかなか行動を起こさない。ついに冬季に入り、「今年はもう動けません」と報告してくる始末。光仁天皇は激怒し、やむなく征討軍は、東北の冬に軍を動かすという愚をやらかし、案の定大敗を喫してしまいます。

光仁天皇は事実上の敗北宣言をすると、桓武天皇に皇位を譲位されました。

後を受けた桓武天皇は、時間をかけて軍の再編成に務め、並々ならぬ決意で事に臨みます。

そうして砦麻呂の乱から8年後、延暦7年(788)満を持した桓武天皇は、征東将軍に紀古佐美を任命し、五万三千の大軍をもって反乱鎮圧にあたらせます。

これに対するは、胆沢の民の族長、大墓公阿弖流為。

その頃の東北には、国家と呼べるようなものはなく、小部族がそれぞれの地域を治めている状態だったと思われます。阿弖流為(以後アテルイと表記)はその部族を連合させ、部族連合の長となって、大和の軍勢に立ち向かったのです。

大墓公、これは「おおはかのきみ」「おおつかのきみ」「たものきみ」等々の読みがあって一定していませんが、大きな墓、ということで連想されるのが、上述した角塚古墳です。

アテルイは、かつて胆沢地方一体に勢力を持ち、角塚古墳を築いた一族の子孫だったのではないでしょうか。その血筋から、他の族長達からも一目置かれる存在だった。

もちろん、部族連合の長たるにふさわしい器量を持った人物でもあったでしょう。

征討軍対部族連合軍。両者は北上川畔の巣伏(岩手県奥州市)で激突します。

【続く】

黄金の國【アテルイ編】~1~朝廷の対奥羽政策

2013-05-19 22:19:35 | 黄金の國


大和朝廷は東国に住む人々のことを「エミシ」と呼んでいました。

その語源には諸説ありますが、初めは「毛人」後に「蝦夷」の字をあてて「エミシ」と読ませた。

蘇我蝦夷という人物がおりますように、人名に使われるくらいですから、元々はそんなに悪い意味ではなかったのでしょう。

ただ、「夷」という字はいわゆる卑語です。中国の中華思想では、東の果てに住む蛮族を「東夷」と呼び、蔑んでいました。これを訓読みすると「あずまえびす」になりますね。

つまり「蝦夷」の字をあてた背景には、中国(当時は唐)の中華思想の影響があるということでしょう。

日本が唐に負けない文化国家となるために、唐の制度等を積極的に取り入れて行く。それが律令制であり、都のかたちであったりしたわけです。

そしてなにより、唐への対抗意識から、我が日本も唐に負けないだけの高い文化を持った国家であるということを示すため、周辺の「まつろわぬもの」達を平らげる必要を感じた。

唐への対抗意識が、逆に唐の中華思想に見習ってしまうという皮肉。

まつろわぬものたちの集まるところ。

それが、東北だったのです。

それに東北には広大な沃野が広がっており、ここを律令制下に組み込むことによって、経済的にも潤うことになる…。



とはいえ、大和朝廷は東北に対し、初めから攻撃的だったわけではありません。まずは「柵」と呼ばれる砦を築き、「柵戸」という移民を送り込んで水田を作らせる。東北の民は基本的に平和主義ですから、彼ら柵戸のことも比較的友好的に受け入れたことでしょう。両者の間では人的、物的交流もあったはず。東北の民としても、新しい文化や技術を持つ柵戸を拒絶する理由は、あまりなかっただろうと思われます。

650年代に阿倍比羅夫率いる水軍が、秋田、北海道方面に遠征していますが、これは蝦夷と戦ったというより、宴を催して懐柔することに務めていたようです。

この阿倍比羅夫の子孫が東北に土着して勢力を拡大させ、その一族の一部が、後に奥六郡(岩手県中央部)を支配する安倍一族となった。

…のかも知れません。しかし、地元の人達の血も当然入っていることでしょうから、そういう意味では、彼ら安倍一族も同じ東北人「蝦夷」であると言えます。

いやそれ以前に、東北で生まれ育ったというだけで、彼らは立派な「蝦夷」だ。

気が付かれたかも知れませんが、阿倍比羅夫は「阿倍」、安倍一族は「安倍」。その他「阿部」、「安部」等も元は同じ「阿倍」から派生した一族と考えられます。以上余談。

さて、朝廷側の政策はこのように比較的友好的に進んだようです。奈良時代の中ごろには、現在の宮城県仙台市の南に、陸奥国府多賀城が建設されます。こうして着々と東北を大和の版図に組み入れる政策が進んでいきました。

しかし、先述した金の発見の前後辺りから、朝廷の政策が強引さを強めて行ったようです。

大量の金と、大量の稲を産む沃野と。

この二つの“黄金”が、朝廷側の野望を拡大させたのでしょうか。



天平宝字4年(760)に桃生城(宮城県石巻市)。神護景雲元年(767)には伊治城(宮城県栗原市)が建設され、軍事力による支配が増強されていきます。中央から派遣された官僚達は地元の人々に対しあからさまに差別的な態度をとり、にわかに敵対的ムードが高まっていきます。

宝亀5年(774)。桃生城が焼き討ちされ、奥羽38年戦争の幕が切って落とされます。朝廷側はさらに北、現在の岩手県胆沢地方に勢力を伸ばそうと、現在の岩手県一関市辺りに攪べつ城を建設します。
宝亀11年(780)。その視察の途上、伊治城に立ち寄った陸奥守・紀広純が、地元伊治郡の大領(領主)・伊治公砦麻呂(これはりのきみあざまろ)によって殺害されるという大事件が勃発します。砦麻呂は朝廷の側について働き、数々の武功を立てたにも関わらず、官僚達に差別的な待遇を受けていました。しかし砦麻呂の反乱の原因は、もっと別のところにあったようです。

近年の伊治城跡発掘の結果、建物の下から複数の墳丘墓が発見されました。つまり伊治城は、墓を削って築かれた城だったのです。

その墓は当然、伊治の民の先祖の墓、砦麻呂の先祖の墓であったことでしょう。

自分が屈辱を受けるのは仕方がない、民の平安のためなら幾らでも耐えてみせる。

しかし、先祖への冒涜は…。

砦麻呂の乱は多くの東北の民の共感を呼び、数日後には大軍となって多賀城に押し寄せ、多賀城はなすすべなく焼け落ちてしまいました。



国守の殺害と国府の焼き討ち。この前代未聞の大事件により、両者の対立はもはや収拾のつかない状況へと発展していくのです。

【続く】




黄金の國【序章】みちのく山にこがね花咲く

2013-05-16 21:33:07 | 黄金の國


【すめろぎの御代栄えむとあずまなるみちのく山にこがね花咲く】
大友家持 万葉集 巻十八



天平21年(746)。奥州小田郡涌谷の地にて金が採れ、大仏に鍍金する金の不足に悩んでいた聖武天皇は甚くお喜びになり、年号を「天平勝宝」と改元されました。

その時の陸奥守は百済王敬福(くだらのこにきしけいふく)。日本に亡命し、帰化した百済の王族の子孫です。

一説によれば、百済系の鉱山技術者を使って、敬福が金を採掘させたのではないかとも言われています。おそらくはずっと以前から、奥州で金が採れることは知られており、だからこそ百済人の敬福を陸奥守として派遣し、採掘させたのかも知れません。金発見の報のタイミングの良さは、あるいはある種の「演出」だったのかも。

金が発見された山、宮城県遠田郡涌谷町の箟岳山は、遥か太古の北上川の大氾濫によって、北上山地(岩手県)から運ばれてきた巨大な山塊だったようです。

金が採れたのは主に岩手県の沿岸部から内陸の北上山地辺り。普通は地下に眠っているはずの金が、この辺りでは地表に砂金というかたちで露出していました。何故なのでしょう?



最新の地質学の研究によると、遠いいにしえの頃、現在の岩手県の北上山地から北半分は、海に浮かぶ島だったようです。そこへ南から、別の島が寄ってきて激突した。
当時の地殻変動は、現在からは想像もつかないくらい激しいものだったようです。激突の衝撃によって、南半分の地表が捲れ上がり、最終的に隆起して出来上がった山が、岩手県の早池峰山です。

早池峰山には、「蛇紋岩」という岩があちこちに露出しています。この蛇紋岩、普通は地底深くにしか存在しない岩石で、この蛇紋岩によって、大地が捲れ上がり、隆起したことが証明されるわけです。
北上山地周辺に大量の金が露出しているのは、島同士の激突の衝撃によって金が作られ、さらに大地の隆起によって地表に露出したものと思われるわけです。



日本列島は大地を修理固成された龍神が、最後に身を休ませた場所であるとか。だから日本列島は龍の形をしている。

霊的にはそうなのでしょうが、物理的には、上記のような過程を経て、現在の日本列島となった、と考えられるのです。

日本が後に「黄金の國ジパング」と呼ばれる、その遠因が、太古すでにして、東北に用意されていたわけですね。



「…みちのく山にこがね花咲く」。この金の“発見”によって、奥州はにわかに、きな臭い空気に包まれて行く。それはやがて、「奥羽30年戦争」を引き起こす契機となっていくのです。

【続く】