朝日新聞によれば、日露戦争の時の浜寺俘虜収容所(大阪府高石市)の俘虜の暮らしぶりを示す写真が発見されたという。
「日露戦争(1904~05年)で捕虜となったロシア兵が送られた日本各地の収容所のうち、最大規模だった「浜寺俘虜(ふりょ)収容所」(大阪府高石市)での捕虜の暮らしぶりを伝える写真などが、収容所長を務めた軍人の孫宅に多数保管されていたことが分かった。専門家は「当時の収容所生活を伝えるまとまった史料は少なく、非常に貴重だ」と話している。」
日露戦争当時、高石に収容所 捕虜生活の写真発見
リンク先にはその写真が五枚示されている。リンクが切れないうちに是非ご覧いただきたい。
「「高石市史」によると、旧高石村の海岸部約26万平方メートルの土地を借り上げて捕虜収容所が設置されたのは、旅順陥落直後の1905年1月。最も多い時期には、同村の人口の8倍にあたる約2万8千人以上がここで生活していた。当初は木造バラックの建設が間に合わず、一部の捕虜はテントに収容されたという。収容所内には病院や礼拝堂なども設けられた。
終戦に伴い、1906年2月に捕虜の送還が終了して閉鎖された。跡地は現在は住宅地や公園になっている。」
私も数年前に行ってみた。浜寺俘虜収容所の痕跡はほとんど何も残っていない。ただ南海電鉄・高師浜駅前に次のようなプレートがあっただけであった。
プレートには次のように記されている。
「浜寺俘虜収容所跡 明治37年(1904年)より始まった日露戦争では、多くの俘虜が日本に連行され、翌年1月第4師団司令部により、ロシア人俘虜収容所が設置されました。その範囲は紀州街道西側の北は芦田川から南は王子川に至る地域で、大部分が高石村の土地でした。 当時高石村の人口は約3、500人で、収容された俘虜は約28、000人であり、村人にとっては大きな出来事でした。その後俘虜は、明治39年(1906年)2月までには、全員ロシアに送還されました。
現在も高師浜2・4丁目、千代田2・4・6丁目一帯に残る整然とした道路は、俘虜収容所の区画の名残と言われています。 1995年3月高石市」
また高石市から南の泉大津市の市営墓地の一角にはロシア人墓地がいまだにきれいに整備されている。そこには収容所所長の隈部潜少将が記した記念碑がある。
碑文は次のように読める
「魯国俘虜収容於浜寺者二万八千有余
人而死者八十九畢此地地村人所献
彼我有志者相謀建墓標魯人更建記念
碑於場中央遊魂亦以可瞑矣
陸軍少将隈部潜記并書」
ロシアの俘虜28000人あまりの中の死者89人。その墓を有志が作り、更にロシア人が中央に碑を作って魂を慰めているというような意味であろう。
次の写真がロシア人が作った碑。
さらに整備されているロシア人墓地の様子である。
「日露戦争(1904~05年)で捕虜となったロシア兵が送られた日本各地の収容所のうち、最大規模だった「浜寺俘虜(ふりょ)収容所」(大阪府高石市)での捕虜の暮らしぶりを伝える写真などが、収容所長を務めた軍人の孫宅に多数保管されていたことが分かった。専門家は「当時の収容所生活を伝えるまとまった史料は少なく、非常に貴重だ」と話している。」
日露戦争当時、高石に収容所 捕虜生活の写真発見
リンク先にはその写真が五枚示されている。リンクが切れないうちに是非ご覧いただきたい。
「「高石市史」によると、旧高石村の海岸部約26万平方メートルの土地を借り上げて捕虜収容所が設置されたのは、旅順陥落直後の1905年1月。最も多い時期には、同村の人口の8倍にあたる約2万8千人以上がここで生活していた。当初は木造バラックの建設が間に合わず、一部の捕虜はテントに収容されたという。収容所内には病院や礼拝堂なども設けられた。
終戦に伴い、1906年2月に捕虜の送還が終了して閉鎖された。跡地は現在は住宅地や公園になっている。」
私も数年前に行ってみた。浜寺俘虜収容所の痕跡はほとんど何も残っていない。ただ南海電鉄・高師浜駅前に次のようなプレートがあっただけであった。
プレートには次のように記されている。
「浜寺俘虜収容所跡 明治37年(1904年)より始まった日露戦争では、多くの俘虜が日本に連行され、翌年1月第4師団司令部により、ロシア人俘虜収容所が設置されました。その範囲は紀州街道西側の北は芦田川から南は王子川に至る地域で、大部分が高石村の土地でした。 当時高石村の人口は約3、500人で、収容された俘虜は約28、000人であり、村人にとっては大きな出来事でした。その後俘虜は、明治39年(1906年)2月までには、全員ロシアに送還されました。
現在も高師浜2・4丁目、千代田2・4・6丁目一帯に残る整然とした道路は、俘虜収容所の区画の名残と言われています。 1995年3月高石市」
また高石市から南の泉大津市の市営墓地の一角にはロシア人墓地がいまだにきれいに整備されている。そこには収容所所長の隈部潜少将が記した記念碑がある。
碑文は次のように読める
「魯国俘虜収容於浜寺者二万八千有余
人而死者八十九畢此地地村人所献
彼我有志者相謀建墓標魯人更建記念
碑於場中央遊魂亦以可瞑矣
陸軍少将隈部潜記并書」
ロシアの俘虜28000人あまりの中の死者89人。その墓を有志が作り、更にロシア人が中央に碑を作って魂を慰めているというような意味であろう。
次の写真がロシア人が作った碑。
さらに整備されているロシア人墓地の様子である。