国際学どうでしょう

私が気にしている情報のメモ

松花江上

2006-09-18 00:12:13 | 歴史
中国の検索サイト百度についての記事をネットで読んだ。百度は中国人の李彦宏さんらが始めたベンチャーであり、中国ではグーグルやヤフーを押しのける勢いがあるという趣旨であった。

もっとも批判もないわけではない。(検閲の問題はさておき)百度は、広告と検索が一体化していて、検索の結果として上位に広告料を支払ったサイトが来る場合がある。例えば「癌」という言葉で検索をすると、百度では癌治療の病院のサイトが上位に来るということである。私の中国語は吹けば飛ぶようなものだが、確かに検索してみるとその通りであった。

百度には「MP3」検索というのもある。これに関しては、訴訟を起こされている。百度自身は著作権を侵しているのではなく、単にリンクを貼っているだけだと抗弁しているという。昔々、中国人の友人に聞いた「九一八」の歌でも検索してみようと思った。(ちなみに九一八は、1931年に柳条湖事件の起きた日であり、日本では満州事変と呼びならわされているものである。中国では満州は禁句なので日付で呼ぶと聞いた)

検索の二番目に出てくる曲は、確かに「九一八、九一八」と歌っている。これはどこかで聴いた覚えのある曲だ。よく考えると「私の家は山の向こう」に似ている。有田芳生さんが書いたテレサテンの評伝『私の家は山の向こう』付録のCDに収録されている、1989年5月、香港での中国民主化運動支持集会ライブで彼女が唄っていた曲だ。

だが相当異なっている。いろいろ調べた結果(といっても私の中国語は吹けば飛ぶようなものなのだが)、これは「私の家は山の向こう」の元歌であり、「松花江上」という題名のものである。松花江はいうまでもなく、満州(中国東北)を流れる大河である。張学良軍が満州事変のため満州を撤退したとき、故郷を思って歌ったものらしい。もちろんその主題は、いつになれば日本帝国主義を追い出して故郷に帰り、家族が一堂に会することができるだろうかということである。いろいろとややこしいことはあるが(「松花江上」が「私の家は山の向こう」になった経緯などはややこしそうだ)本日の分かったことはこれだけである。

The Rise of Baidu (That’s Chinese for Google)
百度に関するニューヨークタイムズの記事

松花江上
ここに歌詞が掲載されている。またリンクをたどって歌のMP3ファイルが得られる。
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米政府が自民・穏健野党へ秘密支援

2006-07-21 00:26:59 | 歴史
冷戦後に広まった認識では、日本の戦後政治(冷戦崩壊まで)は、つまるところ、米ソ冷戦の国内版であったということである。誤解を恐れずに極言すれば、自民党=アメリカの応援団、社会党=ソ連の応援団と言ったことになろうか。

社会党は、あからさまにソ連を応援したと言うよりも、日米安保反対・非武装中立を唱えるという意味で反米的であった。それに「敵の敵は味方」という政治の論理を当てはめれば、ソ連の応援団ということになるということなので、社会党支持の皆さんは怒らないでほしい。

その社会党がいつまで政権を本気で執る気だったのか?うろ覚えでは、岸信介内閣の1958年選挙が、社会党の議席の最大であった。その後の選挙で敗北し、ついには当時の中選挙区制のもとで、共倒れをおそれ同一選挙区複数候補者の立候補を躊躇することが通例となった。これでは政権はとれない。だからおおざっぱなな話、1960年代前半までか?

1950年代末には、社会党の勢いに対して、自民党内でも警戒がなされていた。竹下登元首相が初当選したのもこのころであるが、自民党議員の先輩から、野党になったときの心構えを考えるように言われていたという。(これも典拠うろ覚えだ)

10年ほど前、アメリカの情報機関が日本の保守党に資金を提供していたと言うことが話題になった。それが今回、アメリカの公文書で再確認されたという記事が出ていた。しかも時期的に、上記の社会党が政権とるかもしれないと恐れられていた時期と重なる。さらに社会党を分裂させて、穏健野党を作り出すことにも関係しているらしい。多分民社党のことだろう。これは好奇心を刺激させられる。

「米政府が自民・穏健野党へ秘密支援 米外交文書で確認
2006年07月19日06時19分
 米国務省は18日、ジョンソン政権(1964~68年)下の対日外交文書集を刊行し、複数の自民党幹部と野党内の穏健派を対象とした米政府の「秘密支援作戦」(資金援助)が、50年代後半から64年まで存在していたことを裏付ける文書を公開する。中央情報局(CIA)による自民党への資金援助については、94年に米紙ニューヨーク・タイムズが報道したが、公文書で確認されるのは初めて。野党の一部にも資金が及んでいたことが明らかになり、戦後史に新たな光が当てられることになる。」
(http://www.asahi.com/politics/update/0719/001.html)

記事にも書かれているように、もう現実政治ではなく、戦後史の話になったんだな。また余裕ができたら、この公文書を見てみたい。
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ニコライ2世処刑される-1918年7月16日

2006-07-16 18:22:27 | 歴史
ニューヨークタイムズの「今日は何の日」から。1918年7月16日、エカテリンブルグにおいて、ニコライ2世が殺害された。これに関する当時のニューヨークタイムズの記事の翻訳が以下のもの。

その中には、ソビエトの公式説明が載っていて興味深い。ソビエトの見解によれば、本来はニコライ2世に対して裁判が行われる予定であった。しかしそれは何らかの事情で遅れた。その間、ニコライ2世を奪還する反革命陰謀が露見されるという異常事態の中、ウラル地方ソビエトはやむなくニコライを殺害したということである。

ソビエトの見解では、処刑されたのは皇帝だけとある。しかし皇后と皇太子、ならびに4人の娘もすべて同時に処刑されている。

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ウラルソビエトの命令によりロシアの前ツァーリが殺害される

ニコライは、チェコスロヴァキア軍による奪還が恐れられたために7月16日に銃殺された。

妻と世継ぎは無事

ボリシェビキ政府は行為を認め、反革命の陰謀のせいにしている

囚人の文書は押収されている

前皇帝の日記とラスプーチンの書簡はすぐに公開される」


ロンドン、7月20日--ロシアの声明によれば、ロシアの前ツァーリ、ニコライ・ロマノフは、7月16日に射殺された。

前皇后と世継ぎのアレクセイ・ロマノフは、安全な場所に移されている。

メッセージによれば、ソビエト委員会から前皇帝を奪う目的を持つ、反革命陰謀が発見された。チェコスロバキア軍団が接近しているという事実にかんがみて、ウラル地方委員会議長は、前支配者を処刑するという決定をして、7月16日に遂行された。

ボリシェビキ政府の中央執行機関は、前皇帝の問題に関係する重要な文書を持っていると述べている。その中には皇帝の日記と、革命直前に殺害されたラスプーチンからの書簡も含まれている。これら文書は近いうちに公開されるという。

ロシアのメッセージは次の通り。

「第五大会により選出された、中央執行委員会の第1回会議において、ウラル地方ソビエトから直接受信した、ニコライ・ロマノフ射殺に関するメッセージが公開された。

「最近、ウラルの州都エカテリンブルグは、チェコスロバキア軍団接近によりひどく脅かされていて、ソビエト権力の手から前ツァーリを奪還する目的の反革命陰謀が発覚した。この事実にかんがみて、ウラル地方ソビエト議長は、前ツァーリを殺害する決定をし、その決定は7月16日に執行された。

「ニコライ・ロマノフの妻と息子は、安全な場所に移されている。

「発見された陰謀に関する文書は、特使によりモスクワに伝えられた。人民に対する罪で裁かれるために、前ツァーリを裁判に移すことは最近決定されていた。のちに事情があり、この方針をとることが遅れていたのだ。

「ニコライ・ロマノフを射殺する決定を、ウラル地方ソビエトに強いた状況を議論した上で、中央執行委員会議長は、次のように判断をした。

「ロシア中央執行委員会は、その議長の名において、ウラル地方ソビエトの決定を通例のこととして受け入れる。

「中央執行委員会は、ニコライ・ロマノフの問題に関する、非常に重要な文書を持っている。すなわち最後の日まで彼がつけていた日記、彼の妻と子どもたちの日記、そして彼の通信文書。後者には、グレゴリー・ラスプーチンのロマノフ家に対する書簡も含まれている。これらの資料は精査され、近い将来に公表される。」

予示された処刑

ロシアの前ツァーリが暗殺されたという噂は、6月24日以来続いていた。これらのうち最初のものは、彼は、エカテリンブルグにおいて、赤軍により殺害されたと述べていた。この報道はのちに否定されたが、この否定のすぐ後に、ニコライは、エカテリンブルグでの裁判の後に、ボリシェビキにより処刑されたというジュネーブ電報が続いた。この報道は、ストックホルムからワシントンに届いた情報により確認されたように思われた。

次の報道は、ボリシェビキの外務人民委員チチェリンからの電信傍受と言われるものである。その中において、ニコライは死んでいると述べられていた。さらに別の報道では、エカテリンブルグからペルミに移される間に、護衛により斬られたいうものであった。これらすべての報道は、直接的な裏付けがない。

昨日の通信が真実であることは、疑いがないと思われる。それはロシアの無線通信の形式をとり、ロシアの無線通信施設がボリシェビキ管理下にある以上、前皇帝の死についての公式見解であると思われる。
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(http://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/big/0716.html#article)
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浜寺俘虜収容所

2006-07-10 00:22:45 | 歴史
朝日新聞によれば、日露戦争の時の浜寺俘虜収容所(大阪府高石市)の俘虜の暮らしぶりを示す写真が発見されたという。

「日露戦争(1904~05年)で捕虜となったロシア兵が送られた日本各地の収容所のうち、最大規模だった「浜寺俘虜(ふりょ)収容所」(大阪府高石市)での捕虜の暮らしぶりを伝える写真などが、収容所長を務めた軍人の孫宅に多数保管されていたことが分かった。専門家は「当時の収容所生活を伝えるまとまった史料は少なく、非常に貴重だ」と話している。」
日露戦争当時、高石に収容所 捕虜生活の写真発見
リンク先にはその写真が五枚示されている。リンクが切れないうちに是非ご覧いただきたい。

「「高石市史」によると、旧高石村の海岸部約26万平方メートルの土地を借り上げて捕虜収容所が設置されたのは、旅順陥落直後の1905年1月。最も多い時期には、同村の人口の8倍にあたる約2万8千人以上がここで生活していた。当初は木造バラックの建設が間に合わず、一部の捕虜はテントに収容されたという。収容所内には病院や礼拝堂なども設けられた。
 終戦に伴い、1906年2月に捕虜の送還が終了して閉鎖された。跡地は現在は住宅地や公園になっている。」

 私も数年前に行ってみた。浜寺俘虜収容所の痕跡はほとんど何も残っていない。ただ南海電鉄・高師浜駅前に次のようなプレートがあっただけであった。


プレートには次のように記されている。

「浜寺俘虜収容所跡 明治37年(1904年)より始まった日露戦争では、多くの俘虜が日本に連行され、翌年1月第4師団司令部により、ロシア人俘虜収容所が設置されました。その範囲は紀州街道西側の北は芦田川から南は王子川に至る地域で、大部分が高石村の土地でした。 当時高石村の人口は約3、500人で、収容された俘虜は約28、000人であり、村人にとっては大きな出来事でした。その後俘虜は、明治39年(1906年)2月までには、全員ロシアに送還されました。
 現在も高師浜2・4丁目、千代田2・4・6丁目一帯に残る整然とした道路は、俘虜収容所の区画の名残と言われています。 1995年3月高石市」

 また高石市から南の泉大津市の市営墓地の一角にはロシア人墓地がいまだにきれいに整備されている。そこには収容所所長の隈部潜少将が記した記念碑がある。



碑文は次のように読める

「魯国俘虜収容於浜寺者二万八千有余
人而死者八十九畢此地地村人所献
彼我有志者相謀建墓標魯人更建記念
碑於場中央遊魂亦以可瞑矣
陸軍少将隈部潜記并書」

ロシアの俘虜28000人あまりの中の死者89人。その墓を有志が作り、更にロシア人が中央に碑を作って魂を慰めているというような意味であろう。

次の写真がロシア人が作った碑。


さらに整備されているロシア人墓地の様子である。

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