荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『家族はつらいよ』 山田洋次

2016-04-06 21:31:32 | 映画
 長崎への原爆投下に材を取りながら、不謹慎の一歩手前まで死体と近親相姦的に戯れてみせた快作『母と暮せば』(2015)から、わずか3ヶ月あまり。早くも山田洋次の新作が届けられた。これはやはり、自他共に現在が山田洋次の全盛期だとの認識が存在する証拠だろう。
 そして今回の新作は『家族はつらいよ』。セルフ・パロディもここまで来ると下卑ていると言わざるを得ないけれども、『母と暮せば』のような渾身の一作のあとにちょこんとした『家族はつらいよ』を持ってくるあたりは、『東京物語』のあとの『早春』を作った小津安二郎を意識しているのは間違いない。山田には、『東京物語』のお粗末なリメイク『東京家族』(2012)という前科がある。
 『家族はつらいよ』は、『東京家族』のキャストがそのままスライドしている。橋爪功と吉行和子の老夫婦、長男夫婦の西村雅彦と夏川結衣、娘夫婦の中嶋朋子と林家正蔵、末っ子の妻夫木聡とその婚約者に蒼井優。彼らは、かつての『男はつらいよ』寅さんシリーズのキャストのように、同じ構造をなぞってみせる。そのなぞり具合にはどこか橋田壽賀子ドラマに近い田舎臭さがある。
 「寅さんシリーズは松竹の象徴」などと判で押したように形容されると、どうも以前から違和感を拭えなかった。戦前の島津保次郎も小津も成瀬も清水宏も、そして戦後の木下惠介も渋谷実も中村登も、東京を描いているはずの寅さんシリーズほど田舎臭くはなかった。たとえ地方の僻地を舞台にしていても、もっと垢抜けていた。

 山田洋次の作家人生を要約するのは難しくはない。明確だからだ。まず第1期の〈プレ寅さん時代〉。この時期はまだ、大島渚、吉田喜重らの退社した大船撮影所におけるヘゲモニーを完全には掌握してはおらず、森崎東、前田陽一ら同僚を相手に少しばかりリードしているに過ぎない。
 第2期は言わずと知れた〈寅さん時代〉であり、「遅れてきたプログラムピクチュア」として、にっかつロマンポルノと双璧をなし、山田を大船の玉座に着けることとなると同時に、その玉座に幽閉もしたのだ。もしこの長大なシリーズに幽閉されていなければ、大島や吉田ほどではないにしても、山田洋次はもう少し国際舞台で名の知れた映画作家になったかもしれない。
 第3期は、1995年の寅さんシリーズ終焉、2000年の松竹大船撮影所閉鎖に伴って「遅れてきたプログラムピクチュア」をたたみ、ごく短期間の〈時代劇3部作〉時代となる。時代劇で腕に磨きをかけた山田は、現在の第4期〈先行作家へのトリビュート〉シリーズの真っ只中にいる。この第4期は、小津や市川崑にオマージュを捧げつつ、自己の出自をパロディとして提示している。異色作といえる『母と暮せば』も例外ではなく、死んだ一人息子(二宮和也)の残された部屋に小津『淑女は何を忘れたか』のポスターが貼ってあったように、松竹大船の出自開陳なのである。

 時代区分にしたがって見るなら、左翼文化人にありがちな庶民礼讃、ふるさと回帰がどうにも教条的な足枷となって、山田の映画を井の中の蛙にしてしまう傾向がある。『おとうと』(2010)のホームレス用ホスピスで息絶える笑福亭鶴瓶、『母と暮せば』の「上海のおじさん」加藤健一など、出来の悪く往生際の悪い男たちの系譜が、山田映画の最も愛すべきところで、その点で言うと、今回の『家族はつらいよ』の落ちぶれた私立探偵(小林稔侍)は線が弱く、『ディア・ドクター』から出てきたような笑福亭鶴瓶の医師もカメオでしかなく、教条性の外部にはみ出していくものに乏しい。


丸の内ピカデリー他、松竹系などで公開中
http://kazoku-tsuraiyo.jp


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