清水宏に『都会の横顔』を撮らせたプロデューサー佐藤一郎の企画による『渡り鳥いつ帰る』(1955)を、『都会の横顔』に引き続き見る。こちらも初見。
東京・向島の赤線地帯「鳩の街」を舞台に、娼婦たちの哀しい生きざまをグランドホテル形式(と、喩えるのは、だいぶ滑稽な気もするが)で時間差的に描き分けたという点では、ちょうど「鳩の街」に対して隅田川の対岸となる吉原を扱った翌年公開の溝口健二の遺作『赤線地帯』(1956)と似かよった内容である。蛇足だが、グランドホテル形式というのは、特定の場所(同じ町内、同じホテル、同じ酒場、同じ寝台列車などなど)にたくさんの登場人物がそれぞれの事情で集まり、それぞれの小さな物語を同時多発的に交錯させる説話形式を指す。ハリウッドで生み出された映画話法である。
また、森繁久彌の役どころが、娼家「藤村」の左うちわの主人という点は、その後の森崎東『喜劇 女』シリーズにおけるストリッパーの派遣事務所「新宿芸能社」の主人を演じた時の愉快そうな森繁を思い出させる。ただし、森崎作品が呼び起こす鄙びた哄笑とは正反対に、このスタジオシステム全盛期のメロドラマは、「原作・永井荷風」という看板も手伝って、古女房役の田中絹代をはじめ、住みこみの遊女たちに高峰秀子、桂木洋子、淡路恵子、久慈あさみ、遊女から足を洗ったお節介娘に岡田茉莉子、森繁が捨てた先妻に水戸光子というふうに、あまりにも豪華な女優陣が大集合し、賞狙い作品のような構えとなり、かえって原作者・荷風ごのみの場末の風味は希薄となってしまった。たしか『日乗』でも、この映画の出来については、あまりよく書いていなかったのではなかったか。このあたりは非常に難しいラインであって、神代辰巳の登場まで待たねばならない。
そんな中、一番いいと思ったのは、腺病質な遊女を演じた桂木洋子。ストーリーの発端と終息を占め、陰の主役とも言える。この作品の時点ですでに時代錯誤ともいえる竹久夢二的やるせなさを醸し、服毒自殺をはかるラストまで、ほとんど全編を苦悶の表情しか浮かべない。「鳩の街」の女というより、戦前の「玉の井」から化けて出た亡霊にしか見えないのである。こういうのを「凄絶な脆弱さ」とでも呼べばよいのだろうか。
東京・向島の赤線地帯「鳩の街」を舞台に、娼婦たちの哀しい生きざまをグランドホテル形式(と、喩えるのは、だいぶ滑稽な気もするが)で時間差的に描き分けたという点では、ちょうど「鳩の街」に対して隅田川の対岸となる吉原を扱った翌年公開の溝口健二の遺作『赤線地帯』(1956)と似かよった内容である。蛇足だが、グランドホテル形式というのは、特定の場所(同じ町内、同じホテル、同じ酒場、同じ寝台列車などなど)にたくさんの登場人物がそれぞれの事情で集まり、それぞれの小さな物語を同時多発的に交錯させる説話形式を指す。ハリウッドで生み出された映画話法である。
また、森繁久彌の役どころが、娼家「藤村」の左うちわの主人という点は、その後の森崎東『喜劇 女』シリーズにおけるストリッパーの派遣事務所「新宿芸能社」の主人を演じた時の愉快そうな森繁を思い出させる。ただし、森崎作品が呼び起こす鄙びた哄笑とは正反対に、このスタジオシステム全盛期のメロドラマは、「原作・永井荷風」という看板も手伝って、古女房役の田中絹代をはじめ、住みこみの遊女たちに高峰秀子、桂木洋子、淡路恵子、久慈あさみ、遊女から足を洗ったお節介娘に岡田茉莉子、森繁が捨てた先妻に水戸光子というふうに、あまりにも豪華な女優陣が大集合し、賞狙い作品のような構えとなり、かえって原作者・荷風ごのみの場末の風味は希薄となってしまった。たしか『日乗』でも、この映画の出来については、あまりよく書いていなかったのではなかったか。このあたりは非常に難しいラインであって、神代辰巳の登場まで待たねばならない。
そんな中、一番いいと思ったのは、腺病質な遊女を演じた桂木洋子。ストーリーの発端と終息を占め、陰の主役とも言える。この作品の時点ですでに時代錯誤ともいえる竹久夢二的やるせなさを醸し、服毒自殺をはかるラストまで、ほとんど全編を苦悶の表情しか浮かべない。「鳩の街」の女というより、戦前の「玉の井」から化けて出た亡霊にしか見えないのである。こういうのを「凄絶な脆弱さ」とでも呼べばよいのだろうか。
今年2月24日に感想をアップしてあります。