

映画の最初で、主人公のパレスチナ青年オマール(アダム・バクリ)がロープをつたって、高い壁を身軽に越えていくさまをとらえる。掃射砲の射撃音が聞こえるが、オマール青年はそんな音もどこ吹く風、壁の向こう側に住むガールフレンド(リーム・リューバニ)の家にを訪れる。このガールフレンドの兄とは幼なじみで、最近、対イスラエル武装グループを結成して、計画を練ったりしている。
知っておかねばならないのは、分断壁が、イスラエルとパレスチナの境界であるグリーンラインに沿って建っているのではないことだ。壁はパレスチナ自治区内を乱雑に横断し、パレスチナ人の日常を分断する。この分断壁は、いわば「ベルリンの壁」の陳腐なるパロディである。イスラエルは、彼らを戦時中にホロコーストで虐殺したドイツ人が戦後冷戦期に作りあげたのと同じことをしているのだ──その数倍の高さで。まるでパレスチナ人が「進撃の巨人」のような大きさをもつかのような用心深さで。
主人公オマールはその壁を軽々と乗り越えてみせる存在だが、その引き換えに、彼の心のなかに壁が打ち立てられてゆく。壁を打ち立てるのは、彼を内通者に仕立てようとするイスラエル警察だけではない。同胞たちとの友情、そしてガールフレンドへの愛が、オマールをがんじがらめに縛りつけ、壁のなかに追いこんでいくのだ。このダブルバインド的閉塞が『オマールの壁』という作品に、単なる政治的アジテーションに留まらぬ苛酷さをまとわせる。
この映画は2度、茶の時間が描かれる。私たちのような外国人にとっては一種のエキゾチズムかもしれないが、この茶の時間がすばらしい。もっとも、序盤の茶と終盤の茶とでは、主人公たちの情況はまったく変わり果ててしまってはいる。フランスの映画作家ブリュノ・デュモンの『ハデウェイヒ』(2009)でも、アラブ人テロリスト家庭での茶の時間が印象深く描かれていたが、いつかはまったく血生臭くない、単に退屈なマンネリズムとしての茶の時間を映画のなかに見てみたいものだ。
ガールフレンドが白磁のカップソーサーに敷いた伝言の紙切れが、じつに切ない。人間は時に、やむにやまれず間違った選択をしてしまう。それがたぶん間違っているとは自覚していても、それでも選択してしまうのである。ついぞ読まれることのないあの紙切れに対する未練ならざる無念が、主人公を急き立ててゆく。それを知っているのは、私たち観客だけである。だから、その行く末をしっかと見ておくべきなのだ。
4/16(土)より角川シネマ新宿、渋谷アップリンクほか全国順次ロードショー
http://www.uplink.co.jp/omar/
*写真は掲載許諾済み