荻野洋一 映画等覚書ブログ

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2本の台湾映画(@東京国際映画祭)

2007-10-27 16:38:00 | 映画
 東京国際映画祭、結局見に行くことができたのは、「エドワード・ヤン(楊徳昌)監督追悼特集」の『青梅竹馬(タイペイ・ストーリー)』(1985)と、「アジアの風」部門の林靖傑(リン・チンチェ)監督『遠い道のり』(2007)の2回のみ。会期はまだ今日、明日とあるが、仕事があり無理だ。偶さか新旧の台湾映画2本のみとなったが、この選択にはスケジュール的な理由以外にこれといった理由はない。

 しかし物事には、ある種の必然というものもあるわけで、20余年の時空を跨ぎ、『タイペイ・ストーリー』と『遠い道のり』は、奇しくも同じ種類の人々のことが語られているのだ。簡単に言えば、過密化し、経済競争の激化した首都・台北での生活に対し、ストレスが臨界点まで達してしまった人々である。

 『タイペイ・ストーリー』の冒頭近く、建築デザイン会社に勤めるヒロインと彼女が慕う上司が、自社ビルの窓から台北の街を見下ろして吐く、「自分が手がけた建物がいくつもあるはずなのに、そこに存在しているかどうかもわからない。どれも同じ物に見える。」という台詞は、今なお胸にぐっと迫るものがある。

 ところが、20年後に同じ種類の人々を語る『遠い道のり』では、自分を取り巻く世界との和解が、田舎のリズム、自然の神秘、素朴な先住民との触れあいの中で試みられようとしているのだ。『おもいでぽろぽろ』とか『阿弥陀堂だより』とか『深呼吸の必要』とか、ここ10年くらいの日本映画の有象無象で描かれ、現在その総仕上げを中田英寿が派手に実践している、田舎や未開地への〈プチ失踪〉を媒介にした〈自分捜し〉運動である。

 だが『遠い道のり』を世界との安易なる和解を図る不誠実で退屈な作品と非難することをためらうのは、やはりこの作品に登場する三人の失踪者がそれぞれ、たけし映画のごとく、名前の剥奪された路上の〈単にいる人〉に変貌する、その一歩手前までに達しようとしているかに見えるためである。


P.S.
『青梅竹馬』の邦題を『タイペイ・ストーリー』とするのは、個人的に抵抗がある。Taipei Storyはあくまで英題であり、僕が初めてこの作品を見た当時は(つまり日本で初めて紹介された当時は)、『幼なじみ』という邦題であった。だから自分としては『幼なじみ』または原題の『青梅竹馬』を使用したいと思う。


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