荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『女が眠る時』 王穎(ウェイン・ワン)

2016-03-15 23:35:04 | 映画
 予告を見てだれの目にも分かるのは、この『女が眠る時』が、アメリカで言えば昨年の『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』とか、日本だと宮沢りえ主演の『ゼラチンシルバーLOVE』といった、どちらかというと女性観客層を市場とするファッショナブルな官能ラブロマンスを狙っているらしいことだ。一般観客はどうか知らないが、マニア層にはもっとも斥けられる分野だ。
 監督をウェイン・ワン(王穎)がつとめている。アメリカに比重を置いた活動で一定のキャリアを築いてきた香港出身のウェイン・ワンだが、どういう映画作家なのかいまだに摑みどころがない。今回の『女が眠る時』も、4人の男女の心理的駆け引き、狂気と倒錯、危険な情事ということだと思うが、じつに曖昧模糊とした作りである。ただ、曖昧にしたいという作り手の意図は分かるから、その曖昧さをもって批判したところでしかたがない。東映はなぜ最近、行定勲『真夜中の五分前』(2014)といい、国際的合作でこういう、いかようにも解釈できる難解な心理的サスペンスを作ろうとするのだろうか。興味深い路線ではあるけれど、私たち観客の勝手なイメージでは、東映のカラーからだいぶかけ離れているように思える。
 情事を覗き見する西島秀俊、覗かれていることを承知でみずからの狂気を小出しに見せびらかすビートたけし。この2人の男優は悪くないが、もうひとつ弱いのが、ヒロインにして「欲望の曖昧な対象」たる忽那汐里である。直近の出演作は『黒衣の刺客』『海難1890』だが、『黒衣の刺客』の彼女の出演シーンは蛇足に思えた。以前はもっとよかったのだが、現在もっと彼女を生かす方法があるはずだ。どうすれば生かし切れるのかと、『海難1890』を見終えた直後に考え込んでしまった(私が考え込んだところで、なんの役にも立たない)。狙っている線は水原希子あたりだと思うけれど、水原の域に達するには修行が足りない。
 眠っている忽那汐里の肢体を、あたかもバルテュスのごとき少女視姦図的な陰鬱な光のもとにとらえた鍋島淳裕の撮影がすばらしくて、ただし、それが無償のクオリティになってしまっている。原作者はスペインの小説家ハビエル・マリアスという人で、この人はなんとジェス・フランコ(正しい表記はヘスース・フランコ)の甥っ子なのだそうだ。十代の頃にヘスース・フランコの『ドラキュラ 吸血のデアボリカ』(1970)のシナリオ翻訳を手伝ったのが、文芸の道の第一歩だったという。ならばウェイン・ワンには、ヘスース・フランコゆかりのこの変態的な秘儀を日本で撮るというせっかくの機会を、もっともっと突きつめてほしかった気がする。

 ついでにウェイン・ワン(王穎)についての思い出を少し──。この人は有名原作の映画化が好きらしく、代表作はエイミー・タン原作の『ジョイ・ラック・クラブ』(1993)と、ポール・オースター原作の『スモーク』(1995)だろう。私たちの世代にとっては、『アマデウス』でモーツァルト役だったトム・ハルスを主演に迎えたフィルム・ノワール『スラムダンス』(1987)が、蓮實重彦の映画雑誌「リュミエール」の表紙を飾ってビックリさせた以上のことを、ウェイン・ワンはしていない。
 私はその後、卒業記念旅行(?)で香港の街を徘徊したとき、まだ日本では未公開だった『一碗茶』(1989 その後の邦題は『夜明けのスローボート』)を、モンコック(旺角)地区の映画館で見て、『スラムダンス』同様、イラン出身の撮影監督アミール・モクリはやっぱりいいなという感想を持ったことを覚えている。最近はそのアミール・モクリも、『ピクセル』だの、あの腹立たしい『トランスフォーマー ロストエイジ』だのといった、どうしようもない大味な凡作ばかりやっているが。
 この『一碗茶(夜明けのスローボート)』の主演女優がコラ・ミャオ(繆騫人)で、現在のウェイン・ワン夫人である。その次の『命は安く、トイレットペーパーは高い』(1989)にも出ているが、あいにくそちらは見そびれている。このコラ・ミャオという人、昨年リバイバル公開されたエドワード・ヤンの傑作『恐怖分子』(1986)で、主人公を裏切る不倫妻を演じた人だと言えば、今の若い人たちにも分かってもらえると思う。今回の『女が眠る時』のエンドクレジットで、コラ・ミャオの名前をプロデュース陣のなかに発見したとき、「たぶん彼女は、夫に『恐怖分子』みたいな、不可解なのに強烈な印象を残すラブサスペンスを撮ってほしかったんだろうな」と、なんとなく合点がいった。


全国東映系で公開
http://www.onna-nemuru.jp


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