荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『デッド・サイレンス』 ジェームズ・ワン

2008-04-20 09:31:00 | 映画
 数十年前に女腹話術師の恨みを買った一族が、腹話術人形を使ったあの手この手の手法で、じわじわと皆殺しと血統断絶への危機に晒される、という大筋を持つ『デッド・サイレンス』は、果たしてこれはいつ製作された作品なのだと疑問を呈したくなるアナクロな作品である。手法として古風で、作者の気構えとして古風なのである。つまりこのアナクロニズムは、作者自らが喜んで引き受けた存在理由そのものでさえある。

 たとえば、ティム・バートンの映画というのは、過去の恐怖映画への目配せであったり、ゴシック的造形への傾倒であったりと、古めかしさという意匠で武装しており、それが功を奏して息の長い固定客を作り出し、また作者自身もそういう趣向の人なのであるが、にもかかわらず、(作者自身さえ望んでいないかもしれぬ)絶対的な現代性を持ってしまっている。

 ところが『デッド・サイレンス』という映画はまったく屈託なくアナクロニズムを疾走している。主人公も含め出演俳優がいずれも凡愚な面構えをしているのだが、それはあえて選択された凡愚さなのだろう。むしろ開巻一番、愛妻を惨殺された夫が徐々に連続殺人の渦の中へ、犯罪の謎解きの渦の中へと埋没していく姿は、嬉々とした演出によって、ある種の清々しさに到達している。「だから言わんこっちゃないんだ、そっちへ行くなとせっかく教えてやったのに、馬鹿な奴らだ」という呟きが劇場内のあちこちから洩れ出てくるかのようだ。こうした観客像もまた、アナクロニズムを形成する良きプレーヤーである。

 監督は、華僑系マレーシア人のジェームズ・ワン。それにしても、チャン・イーモウといいアン・リーといい、さらにこのジェームズ・ワンといい、アメリカでチャンスを物にするアジア人作家がいずれもコンサバな作風ばかりなのが気になる。しかしだからこそ成功を手にしたのでもあるだろうから、一概には責められないが…。


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