京橋フィルムセンターで上映された費穆(フェイ・ムー)の『田舎町の春(小城之春)』(1948)が、たいへんな傑作だったとの由。見られなくて残念。この手の人民共和国成立前の上海映画の古典というものは、意外と中国映画祭のたぐいでも上映されないし、平気で20年くらいは待たされてしまう。去年のTIFFで初めて見ることのできた馬徐維邦(マーシュイ・ウェイパン)も、苦節20余年の機会だったのである。
仕事を抜け出して、試写にて婁燁(ロウ・イエ)の新作『スプリング・フィーバー』を見てきた。江蘇省の省都・南京の街並みが、まるでイ・チャンドンの撮る韓国の地方都市のように、鄙びた、それでいてギラギラした欲望の都として妖しく明滅する。なかなかの佳作。ただし、邦題は東京フィルメックス上映時の『春風沈酔の夜』から変えなくてよかったのではないか。
本作で引用された小説『春風沉醉的晚上(春風沈酔の夜)』の作者である知日派の文学者・郁達夫(1896-1945)しかり、さらに魯迅、周作人などといった、長江下流デルタ(江蘇省、浙江省、上海市)あたりのいわゆる江南文化人と、彼らの留学先としての日本のかかわりは、20世紀世界史のなかで、ユニークにしてきわめて重要なパートを形成していると、個人的には思っている。古代より日中の知的交流は、決して中原(洛陽、長安)や華北(北京など)中心に興ったのではなく、寧波、蘇州など江南との交流から体得した曖昧模糊、朦朧体めいた文明作法が、日本の唐風なるものを造りあげたのである。気体やガスを描くことを得意とした牧谿のような本国の都では無名な画家が、室町時代の日本でスターとして一級扱いされた事情が、じつはここにある。
ちなみに郁達夫は、終戦の年、シンガポールで日本人に日本語で道案内したというだけで、官憲から射殺されてしまったらしい。『スプリング・フィーバー』を見ながら、この南京という街が、日本軍による大虐殺で世界的に有名になった都市であるということが、片時も頭から離れなかったのは、私の勝手な想念にすぎないだろうか。南京は、歴史の大部分で利潤追求型の商都の顔をしているものの、その一方で、三国の呉、東晋、十国南唐、そして明初、民国臨時政府…というふうに、東夷北狄の侵入に対して漢民族のナショナリズムが勃興した時に、その受け皿となった性質を有している。だから、どこかに大ブルジョワの甘美なデカダンスと、峻烈な不服従の香りとが同居している。一度も行ったことがないが、いずれ訪れてみたい街である。
11月6日(土)より、渋谷シネマライズほか全国順次公開
http://www.uplink.co.jp/springfever/
仕事を抜け出して、試写にて婁燁(ロウ・イエ)の新作『スプリング・フィーバー』を見てきた。江蘇省の省都・南京の街並みが、まるでイ・チャンドンの撮る韓国の地方都市のように、鄙びた、それでいてギラギラした欲望の都として妖しく明滅する。なかなかの佳作。ただし、邦題は東京フィルメックス上映時の『春風沈酔の夜』から変えなくてよかったのではないか。
本作で引用された小説『春風沉醉的晚上(春風沈酔の夜)』の作者である知日派の文学者・郁達夫(1896-1945)しかり、さらに魯迅、周作人などといった、長江下流デルタ(江蘇省、浙江省、上海市)あたりのいわゆる江南文化人と、彼らの留学先としての日本のかかわりは、20世紀世界史のなかで、ユニークにしてきわめて重要なパートを形成していると、個人的には思っている。古代より日中の知的交流は、決して中原(洛陽、長安)や華北(北京など)中心に興ったのではなく、寧波、蘇州など江南との交流から体得した曖昧模糊、朦朧体めいた文明作法が、日本の唐風なるものを造りあげたのである。気体やガスを描くことを得意とした牧谿のような本国の都では無名な画家が、室町時代の日本でスターとして一級扱いされた事情が、じつはここにある。
ちなみに郁達夫は、終戦の年、シンガポールで日本人に日本語で道案内したというだけで、官憲から射殺されてしまったらしい。『スプリング・フィーバー』を見ながら、この南京という街が、日本軍による大虐殺で世界的に有名になった都市であるということが、片時も頭から離れなかったのは、私の勝手な想念にすぎないだろうか。南京は、歴史の大部分で利潤追求型の商都の顔をしているものの、その一方で、三国の呉、東晋、十国南唐、そして明初、民国臨時政府…というふうに、東夷北狄の侵入に対して漢民族のナショナリズムが勃興した時に、その受け皿となった性質を有している。だから、どこかに大ブルジョワの甘美なデカダンスと、峻烈な不服従の香りとが同居している。一度も行ったことがないが、いずれ訪れてみたい街である。
11月6日(土)より、渋谷シネマライズほか全国順次公開
http://www.uplink.co.jp/springfever/
『田舎町の春』と聞いて一瞬映画が浮かんでこなかったのですが、『小城之春』ですね。田壮壮が『春の惑い』でリメイクした映画ですね。
むかし、93年から98年まで北京に留学していた時にテレビで見たような記憶があるんですが、ほとんど覚えていません。『春の惑い』を見た時に、チーパオのヒロインがか細い手でゲンコツで障子を突き破る場面は元の映画にもあったような気がしましたが。
留学していた頃がちょうど第6世代の監督たちが弾圧されていた時期で、その先輩格の田壮壮はプロデューサー業に徹していて、でも作られる映画はアンドロイドアスリートの話とか、トンデモ映画ばかりでした。あの頃に比べると、今のロー・イエとかジァ・ジャンクーのようなインディーズ監督が活躍しているのが夢のように思えます。『ココシリ』のルー・チュアンとか『麻花売りの女』のチョウ・シァオウェンのような若手の鬼才が、国から押し付けられた大作で崩壊してしまったのを見ると、中国映画は本当に自分で自分の首を絞めているような痛さを感じてしまいます。
長文で失礼しました。
いやぁ、充実したコメントを有難うございます。蒙が啓かれます。そうらしいですね、田壮壮『春の惑い』はこの『田舎町の春』のリメイクだということですね。田壮壮といえば、『呉清源』はいい映画だと思いました。
また、『小城之春』に『田舎町の春』という邦題をつけるのは、いくらなんでもおかしいだろう、という議論を友人としていたばかりです。本作の舞台となった蘇州は、田舎町とは明らかにちがいますよね。近代日本に当てはめれば、鎌倉や奈良のごとき文人の隠遁地でしょう。
『夜半歌聲』 9/19(日)20:15 金沢シネモンド
『夜半歌聲続集』 9/23(木)20:05 金沢シネモンド
馬徐維邦の代表作ですが、わたくしは未見。仕事が埋まっていてとてもではないが旅などできぬ身が口惜しいところです。