陶磁という美術ジャンルもまた、ひとりの作家の格闘と、受けた傷の歴史の集積のたまものなのだ、と悟ったのは、忘れもしない受験浪人時代にビデオで溝口健二『雨月物語』を初めて見たことによってであった。森雅之が演じた主人公の陶芸職人(琵琶湖を渡るシーンがあるからおそらく信楽焼だろう)は、その才覚ゆえに上流階級の怨霊に取り憑かれるが、自分が留守をしている間に妻が戦国武将の手にかかって命を落としたことで、おのれの愚かさに気付かされる。
ラスト、もはや幽霊となった妻の遺言的ナレーションどおり忠実に、すべてを忘れて作陶に没頭する森雅之の腰を屈めた姿に、僕はほとんど号泣に近い涙を浮かべたのだった(そして遺児となった子がすべてを許したかのような足どりの軽やかさで庭先の亡母の墓前に花を生けようと駆け寄るパンニングのカットへの、とめどない感動)。
ものの本などには溝口の美術に対する凝りようは、単なる見栄の発露だとか、国宝コンプレックスだ、とか言われる節もあるようだが、それは鼻持ちならない界隈でのことだろう。こと僕に関する限り、美術の愛し方、無条件降伏の仕方を、溝口に習った、と胸を張って言える。
ラスト、もはや幽霊となった妻の遺言的ナレーションどおり忠実に、すべてを忘れて作陶に没頭する森雅之の腰を屈めた姿に、僕はほとんど号泣に近い涙を浮かべたのだった(そして遺児となった子がすべてを許したかのような足どりの軽やかさで庭先の亡母の墓前に花を生けようと駆け寄るパンニングのカットへの、とめどない感動)。
ものの本などには溝口の美術に対する凝りようは、単なる見栄の発露だとか、国宝コンプレックスだ、とか言われる節もあるようだが、それは鼻持ちならない界隈でのことだろう。こと僕に関する限り、美術の愛し方、無条件降伏の仕方を、溝口に習った、と胸を張って言える。
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