さじかげんだと思うわけッ!

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King of NO.2

2008-10-18 21:26:16 | 
いつだったか好きな戦国武将の話をして、またそのうちに話をしましょうなんていったきりでしたので、今日その話をしましょう。

わたしの地元は山梨県ですので、やはりひいきは甲斐武田氏なんです。
俗に武田二十四将と呼ばれる武将はもとより、それ以外のあまり知られていない武将もよく調べましたね。
武田二十四将だって、実は24人ぴったりいるわけではなく、いろいろなバージョンによって構成人員が違うんで、実際は30を超えます。
前回の話で、わたしは原昌胤(1531?~1575)が好きだという話をしました。
原昌胤は、父の代から陣馬奉行と呼ばれる陣の組み立てなどを行う要職に就いており、その信頼の度合いはかなりのものだったようです。
さらに、執政官としても活躍したといいます。
まぁ…地味ですよね。
戦の成り行きを見守り、戦況をつぶさに報告し、判断する役割ですので、華々しい槍働きは望めません。
また、山本晴幸(1493~1561)や真田氏のように謀略を巡らすような性質でもありませんので、やはり地味です。
まぁそういう地味なところが、好きなんですけどね。地味だけど、仕事をきっちりするといういぶし銀な活躍が。
いぶし銀と言えば、信玄の実弟である武田信繁(1525~1561)も好きです。
父・信虎(1494~1574)の溺愛を受け、一時は武田家当主と目された信繁ですが、冷静だったというか、野心がなかったというか。父ではなく、兄に与することを選択します。
以後は、兄ではなく当主として接し、「お屋形さま」と呼んだとか呼ばないとか。
文武に優れ、人望にも厚い信繁は、副将のお手本として江戸時代でも大変な人気があったそうです。
つまり、「戦国武将 King OF NO.2」だったわけですね。
渋い! 渋すぎる! わたしもこうなりたい!
…とまぁ、無理だとは思いつつ、そう思ってしまうほどのお気に入りです。

さて、ところで。
今日は何の日でしょう…っていっても、わかりませんよね。
計五回行われた川中島合戦中、もっとも激戦と言われている第四次合戦が行われた日だそうです。もちろん、新暦換算しての話です。
ということはですよ。
今日は、晴幸や信繁らの命日でもあるわけです。
もし、信繁の命が今少し長らえていれば、歴史は大いに変わったのかも知れないと言われるほど影響力があった信繁。
この合戦で亡くなったからこそ伝説となったのかも知れませんが、それでも口惜しい限りです。