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小田原周辺のマイナースポットや些細な出来事を少しずつ
小田原の端々



城下町小田原で長く続いてきた庶民文化で風前の灯火となってしまったのが銭湯で、昭和30年代前半には30軒近くの銭湯が市内に点在していた。その銭湯も高度成長にともなうライフスタイルの変化などによって年々減少の一途を辿り、とうとう市内に残る銭湯は1軒だけとなってしまった。かつて小田原にあった銭湯の事を知ることの出来る資料は数少ないが、昭和時代に数年に一度発行されていた小田原商工年鑑内に小田原市内にあった銭湯名と住所の記載が残されている。一番古く辿れるのが1659年発行の小田原商工年鑑で、それによると小田原市内には27軒の銭湯が記載されている。以下、年代別の小田原商工年鑑による銭湯の移り変わりを整理する。
【1956年に小田原市内に存在した銭湯】※所在地は旧町名
1.福の湯…緑一
2.草津湯…緑二
3.緑 湯…緑三
4.相模湯…新玉一
5.光妙湯…新玉二
6.有馬温泉…新玉ニ
7.若松湯…新玉四
8.藤の湯…新玉四
9.万年湯…万年一
10.浪花湯…万年二
11.消花湯…万年二
12.清水湯…幸一
13.御幸湯…幸二
14.衆楽湯…幸三
15.久の湯…十字二
16.寿の湯…十字二
17.十字湯…十字二
18.中島湯…中島
19.田浦湯…井細田
20.鈴の湯…井細田
21.螢田湯…蓮正寺
22.三泰浴場…蓮正寺
23.政の湯…山王原
24.すみの湯…山王原
25.新玉湯…鴨宮
26.日の出湯…曾我原
27.泉 湯…国府津

【1961年に小田原市内に存在した銭湯】
1.福の湯…緑一
2.みどり湯…緑三(緑湯からひらがな表記に改名)
3.相模湯…新玉一
4.光妙湯…新玉二
5.若松湯…新玉四
6.藤の湯…新玉四
7.万年湯…万年一
8.浪花湯…万年二
9.清水湯…幸一
10.御幸湯…幸二
11.衆楽湯…幸三
12.久の湯…十字二
13.十字湯…十字二
14.中島湯…中島
15.田浦湯…井細田
16.鈴の湯…井細田
17.螢田浴場…蓮正寺(螢田湯から改名)
18.ゆりの湯…南板橋(新規)
19.政の湯…山王原
20.寿美の湯…山王原(すみの湯から改名)
21.日の出湯…曾我原
22.日の出湯…鴨宮(新規)
23.泉 湯…国府津

1961年に発行された小田原商工年鑑によると草津湯・有馬温泉・消花湯・寿の湯・三泰浴場・新玉湯の6軒の記載が無くなり、新たにゆりの湯と日の出湯の2軒が登場。1956年からの5年間で2増6減で23軒の銭湯が今から50年前の小田原にあったことが分かる。【その2に続く】





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小田原城址公園内の城内臨時駐車場跡地では平成22年から御用米曲輪の発掘調査が行われている。発掘開始から何度か現地説明会が開催されており、さる10月19日にも発掘調査説明会が開催されたのでランニングの帰りに立ち寄った。 10月19日の午前10時から午後3時までの間、城内臨時駐車場跡地の発掘現場で発掘調査説明会が開催された。今回の第5次調査の現地説明会はこの後11月と12月にも1回ずつ開催が予定されている。説明会の入口は弓道場横。今回の発掘場所は、野球場だった時のセンター周辺に位置する場所。昨年度の発掘現場にはパイロンで規制されているため近づけず、今回の発掘現場のみが見学出来るようになっていた。今回の発掘では、昨年度の発掘で確認された庭状遺構から続く池の部分が新たに発掘。上の写真の中央左側の部分で池の周囲は45m以上あるとのこと。この池の遺構は戦国時代のものと推定されており、池の護岸に石が貼り付けらている。その貼り付けられている石は供養塔の一部を再加工したもので、大きさは10cm~40cm四方のものが使われている。このような構造の池は全国的に例がなく珍しいようだ。発掘現場の一画には、出土した供養塔の一部が展示されている。護岸に使われているのは五輪塔や宝塔などの基礎や笠の部分の石材。計算によると2000個以上の供養塔の一部分の石材が護岸に使われているようだ。それら供養塔の中には墓碑として使われていたものもあったに違いないので、今回見つかった池の遺構は少し気味の悪さも感じる。来月には更に発掘が進んだ状況を見学できるようなので、次回の現地説明会も忘れずに出かけたい。

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いままで散策の途中などに市内にある色々な史跡に立ち寄っては写真を撮っているが、中には気味が悪く感じ再訪しようと足が向かない場所が何ヶ所かある。そんな場所のひとつが田島にある風外窟で、3年ほど前に一度訪れたが、夕暮れ近い時間だったこともあって、寂しい山の中の崖地に横穴が開いている風外窟はえらく気味の悪い場所に感じた。以来、近くを通っても立ち寄る気も起きなかったが、先日別件の探索で田島の山中に出かけたので寄ってみることにした。田島の山中にある風外窟への行き方は大まかに2つのルートがあり、一つは国府津駅裏の農道経由で曽我丘陵の尾根道沿いから向かうルートと、もう一つは県道72号から農道を上り向かうルート。今回は県道72号からのルートで風外窟へ向かう。まずは県道72号の国府津新幹線ガード下をくぐり小田厚の高架下へと向かう。県道72号の小田厚高架下の曽我丘陵側を見ると、上下線の高架の間に細い農道が山へと続いている。その細い農道を進む。かなりな急勾配の細い農道を進むと、途中で2度ほど分かれ道になるが、いずれも左側の農道を進む。竹林を過ぎると今まで上り坂だった農道は下り坂になる。この途中に通る竹林は手入れされた竹林ではないので、立ち枯れた竹が風に揺れて他の竹にぶつかると、なんとも気味の悪いきしんだような音がする。細い農道を下りきると窪地のような場所で行き止まり。県道72号から歩いておよそ15分ほど。ここが風外窟の入口になる。写真には写っていないが左側には朽ちた小屋があって、なんとも寂しい場所に感じる。風外窟は写真奥の林の中。雑草の生い茂った耕作放棄地のような場所を横切り風外窟の入口へ。入口には看板のほか、ポストのようなものも設置されている。入口に設置されたこの木製のポストのようなものは、田島歴史同志会による資料BOX。扉を開けると上下二段に分かれていて上には風外窟の説明書、下段には記帳が納められている。訪問記録帳をめくると、最近の訪問者は今年の8月の日付。ここを訪れた人全員が記帳している訳ではないだろうが、やはり訪問者は少ないようだ。資料BOXから説明資料を手に風外窟へ。南向きの山の斜面に大小いくつかの横穴が開いている。この横穴は古墳時代末期の7世紀頃に造られた横穴墓で、曽我丘陵には多くの横穴墓が点在している。横穴墓は山の岩盤をくりぬいた造りになっており、この地方の豪族の墓であったと推定される。その古墳時代の横穴墓に江戸初期に風外慧薫という禅僧が山篭りで7年ほど棲んだという伝承があり、この横穴墓群は風外窟と呼ばれるようになった。横穴墓の横には風外慧薫の説明板が設置されている。風外慧薫は1568年現在の群馬県に生まれ10代より禅僧として修行。1617年、風外慧薫50歳のときに小田原市成田の成願寺の住職に就いたが、住職の座を捨て曽我山の岩窟へと山篭り。以降7年間にわたり曽我山の岩窟に篭り修行の傍ら多くの書画を残した。風外慧薫の達磨絵などは平塚市指定重要文化財として平塚市博物館に収蔵されている。久しぶりに風外窟を訪れたが、以前ほどの気味の悪さは感じなかったがやはりもともとは墓跡なので、一人だと少し心細く感じる。夜に訪れるのは絶対に勘弁だが、風外慧薫はここで7年間も暮らしたというから、やはり相当特異な禅僧だったに違いない。

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明治34年、現在の二の丸広場の場所に小田原御用邸が設けられ、明治天皇の第六皇女常宮昌子殿下と第7皇女周宮房子殿下が毎年のように避寒滞在された。両殿下は小田原滞在中に学校行事を見学したり神社で植樹を行うなど地元民とも親しく接したとのこと。その両殿下が明治38年にお手植えしたイチョウが現在も小田原高校にあると知り出かけた。小田原市城山の県立小田原高等学校の前身である神奈川県第二中学校は明治年間は現在の小田原駅の場所に所在。その神奈川県第二中学校に常宮・周宮両殿下が来校したのは明治38年3月17日。両殿下は授業の様子などを見学後に、来校記念として校舎表門の左右にイチョウの苗木をお手植えした。その後、神奈川県第二中学校は大正3年6月に現在の八幡山に移転。両殿下お手植えのイチョウも正門の左右に移植された。イチョウを見るため、競輪場側にある旧正門に向かった。旧正門から中へ進み右手を見ると大きなイチョウの木がある。根本にはプレートが設置されていた。プレートには「常宮殿下御手植えの公孫樹」の記載。明治38年にお手植えされたイチョウだ。明治38年は1905年なので樹齢は110年近い。このイチョウをお手植えした常宮昌子殿下は当時7歳だった。この常宮昌子殿下お手植えのイチョウは八幡山に移植後、同じ場所でずっと生育したため結構な大きさになっていた。現在は木の周辺に部室関連の施設や園路のフェンスが設置されてしまい写真が撮りづらい。樹高は20m以上はありそうだ。続いて正門を入り左手を見ると常宮昌子殿下お手植えのイチョウよりひと周りほど小さなイチョウがあった。やはり根本にはプレートが設置されている。プレートには「周宮殿下御手植えの公孫樹」の記載。このイチョウをお手植えした周宮昌子殿下は当時5歳だった。周宮殿下お手植えのイチョウは八幡山に移植後、さらに校舎の建設などで2度ほど校舎敷地内で移植されている。そのこともあってか常宮殿下お手植えのイチョウと比べると小さい。この両殿下お手植えのイチョウは、二宮神社で育てられていたものを譲り受けたもので、お手植え当時は1m80cmほどの高さだったとのこと。やはり100年が経過するとイチョウはかなりな大きさになる。小田原市内のイチョウの大木はここ数年で枝が折れたり、枝下ろしされて見栄えが悪くなったりするものが多いので、この両殿下お手植えのイチョウは末永く残ってほしい。

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小田原駅には色々な鉄道の路線が乗り入れているので市内に駅が多いが、その中でも地名とまったく無関係の駅名なのが大雄山線の五百羅漢駅である。小田原市扇町の大雄山線五百羅漢駅は小田原駅から3つめの駅で、駅名は駅近くの玉宝寺に安置されている五百羅漢像にちなんでいる。その大雄山線五百羅漢駅のホームには名所案内板が設置されている。名所案内の一番上は駅名ともゆかりのある玉宝寺で、その他は飯泉観音と酒匂川が記載されている。名所案内板を良く見ると、玉宝寺と飯泉観音の間の部分に白いテープが貼られていて削除したようになっている。白いテープの下には以前記載していた名所のシールが張られていて、透かして読むことが出来た。白いテープの下には「多古城跡 徒歩約5分」の表記。一体どうして削除されたのか興味があったので、多古城について調べてみることにした。図書館でいくつかの文献を探して分かったことは、多古城は存在したのかどうかもはっきりとしない城で、多古城については僅かな史料と伝承しか残っていない。多古城についての一番古い資料は天保10年(1839年)に脱稿した新編相模風土記稿巻二内に「史蹟、村の中程の山上をいふ。東西二町許、南北四十間。城主の名伝えず。今は陸田なり。」と江戸時代には、すでに城は無く伝承のみが残っているだけ。また、別に白山社の東側にあったとの伝承もあるが、現在の白山神社も昔は山の上の方にあったようなのでやはり多古城跡ははっきりとしない。参考までに白山神社に行ってみたが多古城跡を案内するような標識や看板は無かった。現在、白山神社の東側には白山中学校がある。多古城の築城については荘園時代から室町時代までと諸説あるが、現在まで多古城の存在をうかがわせるような出土品や史料も無く、多古城跡の所在もはっきりとしないので五百羅漢駅の名所案内板から削除されるのも分かるような気がする。

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