長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

満光寺の鶏 その5

2015年03月09日 | 日本史
前回までに、発生年次が曖昧な伝承が、いつ発生したのかを検証し、一つの可能性を提示しました。

が、調べているうちに、この満光寺の鶏の話は、作り話ではないのか、という疑念が湧いてきたのです。

それは、その3で信玄侵攻ルートを調べていたときのこと。
偶然、山住神社のHPにあたり、色々と読んでいると「三方原の戦いで負けた徳川家康がこの神社に逃げ込んだところ、山犬が吠えて山全体に共鳴し恐れをなした武田勢が逃げて行った。」という逸話がある。

いやいやいや、山住神社は浜松城から70km近くも離れてます。
家康、いくらなんでも逃げすぎでしょうよ。

で、更に山住神社で検索をかけると
「三方原の時に窮地に陥った家康を狼が守って無事に家康は逃れた。これは山住神社のお使いのおかげである。」
というものや、
「三方ヶ原の際に戦勝を祈願した」
と、書いてあるHPもあります。
戦勝祈願ならば十分にありえます。家康としては山住神社への神頼みを行ったのでしょうが、いつしか、神の霊力により直接的に家康が助けられた、という話が出現してきた、と考えられます。

で、ふと気づく。

私は、満光寺の鶏は、実際に家康が救われた前提で考えていましたが、そもそも発生していないのでは、と。

うまい話を聞くと「そんな話を信じるものか。」と冷笑するタイプですが、なぜか今回の話を考える際、その発想がなかったことに気が付く。

振り込め詐欺にひっかかる人の気持ちが少し理解できた気が。。。

と、言うわけで、もう一度、逸話をよく読んでみようと思う。
山吉田の部屋」なるHPが今まで見た中で最も詳しく書かれていたので、これを参考にする。

慶長6年(1601年) 徳川幕府が全国的に検地を実施。幕府直轄天領となっていた山吉田村は、検地奉行;伊奈備前守忠次による検地を受け、満光寺を止宿とした。このとき伊奈備前守が満光寺の由緒を尋ね、山家三方衆の誘引、柿本城開城など満光寺住職朝堂玄賀和尚の功績がわかり「御当家に附いて功有開山也、且又古跡の霊地なり」として三石の黒印を受領した。

※山吉田の部屋のHPから文書。

 上記の内容を解説します。

① 山吉田村は徳川幕府の直轄地。
② 江戸幕府が山吉田村の検地(すごく意訳すると税収を決めるための地価調査)を慶長6年(1601年)に実施。
③ 検地奉行は伊奈備前守忠次。
④ 伊奈の宿泊先は満光寺。
⑤ 伊奈は寺の由来を聞いた。
⑥ 山家三方衆(井伊谷三人衆の間違いと思われる。)を徳川家の味方にしたこと、初代和尚が武田軍と徳川方領主鈴木氏が柿本城から撤退する際、武田軍と交渉し話し合いをまとめた功績があった。
⑦ 伊奈備前守は「この寺を開いた和尚は、徳川家に対して大変功績があるし、由緒ある霊地。」として3石の所領を黒印状により保証した。

 あれ?
鶏の話は?
 鶏に三石を与えた、とは書いてないし、鶏を理由に寺に所領を与えたとも書いていない。。。

 まず、②の慶長6年(1601年)に注目。
 実は、宇利城の戦いで有名な宇利の慈廣寺にも伊奈忠次の黒印状が、やはり慶長6年に発行され寺領は3石となっていた、ということが新城市誌(昭和38年発行 115頁)で確認できます。また、蒲郡市のHPを見ると安楽寺というお寺に伊奈忠次が同年に寄進状を発行しています。

 蒲郡市のHPには「伊奈備前守忠次は、関ヶ原の戦いの翌年、三河各地の寺社に寄進状を出している。」との記載があります。

 なぜ、と、考えていると愛知県史資料編13に書いてありました。
領主変更にともない尾張・三河両国の武家領・寺社領では、徳川氏の奉行により知行地の確認や年貢確保などの作業が十一月末より進められた。これは家康の命により東海道に宿駅を設けた際、近辺の家康ゆかりの寺社に対し、寺領を寄進したものと推測され・・・」(631頁)

 なるほど!

 関ヶ原の戦いにより全国的に大名の再配置を行われ、尾張と三河は徳川家のものになります。
 これが慶長6年に寺社への寄進状(黒印状)が集中して発行された原因かと。
 寄進(寄付)の理由についても蒲郡市のHPでは触れられていますが、満光寺も同様の理由かどうかは定かでは無いです。なんにせよ、三河でいくら税収が取れそうかを伊奈忠次に調べさせ、その際、伊奈には一定の権限が委譲されて寺社領を保障することができたことが想像されます。
 
 ところで、この伊奈忠次って誰?

※ウィキペディア写真

 この人、三河の出で家康に仕えるのですが文官として出世します。二度ほど徳川家を出奔していますが、江戸の地割や河川の付け替え、検地など、民政官として抜群の活躍をし、伊奈流という流派が確立するほど民政の手腕に優れていたとされています。で、家康から信頼されて絶大な権限を任され、あちこちの税の徴集を行うための地価評価も行っています。そして、善政を行ったことでも知られており、名代官でもあったようです。
 どうも、仕事のしすぎで過労になり意識不明になってしまったこともあるようで、奇跡的に復活したり、と、意外と掘り下げると面白い人です。

 その後、満光寺は慶安2年(1649年)に、今度は20石の寺領の朱印状をもらいます。山吉田の部屋のHPにはこの際の朱印状の写しと思われる書状の写真が載っています。
 どうも、三代将軍家光の頃には、慶長年間の黒印状を基に加増の朱印状が全国的に発給されていたようで、慈廣寺も慶安2年にやはり15石6斗の朱印状を得ています。

 たぶん、伊奈忠次は家康の命を受け、基本的に寺社に所領を寄進する前提で、何か寄進する理由を探したのだろう、ということが考えられます。
 きっと、善政で知られる伊奈のことですから、相手の話を聞いて寄進するストーリーを自分で組み立てて相手に「それは、・・・ということなんだな?」と結論を誘導したのではないかと思われ、そうしたテンプレートを用意していた可能性もあります。

 ただ、伊奈の際に鶏の話は出てこない。
 そもそも、鶏に家康が感謝したのであれば、戦が落ち着いたらすぐに三石を寄進すると思われます。実際、山住神社では、天正元年に御礼参りしたとか天正四年に宝剣を奉納しただのの話があります。伊奈の際に三石が始めて出てくるので、家康を逃がしたこと三石の関係性の薄さが気になるところ。

 そして、山吉田の部屋でも言ってますが、山吉田地域は徳川氏の直轄領から海老菅沼氏領に代わり、圧政に苦しめられたようです。その際に、鶏が三石の扶持を貰っていたことから鶏を羨んで領主批判をする民謡ができた、と、されています。たぶん、直接的な領主批判ができないため、伊奈の際の話に尾鰭が付いて、いつしか鶏に三石、という逸話の形成につながっていったのではないか、ということが私の最終的な結論です。

 ただ、現地の話を聞いて回ったわけではなく、あくまで資料やらWEBの情報やらに頼って考えておりますので、本当は鶏の話があったんだ、という証拠がみつかるかもしれません。
 まぁ、個人的には伝承にケチをつける気は毛頭なく、単に面白そうだから、と、調べ始めた経緯と推論を載せているだけですので、このブログの内容を「そうか、これが確定的な結果か!」と思われてしまうと、変な歴史を私が作り出してしまうことになるので、それだけはご注意ください。笑。

 ぜひ、満光寺の鶏の話で「いやね、地元ではちゃんと証拠が。」などの情報があれば、コメント欄などにお寄せいただければ幸いです。

 あー、でも、昨年末くらいから、ずっと鶏の話関連のことを調べ続けていましたし途中で混乱もしましたが、なんとか自分なりの一定の答えがまとまって良かったですわ。本当に調べてる途中に違う視点が見つかって文書の修正を余儀無くされることも多かったので、読みづらい文書になっている可能性もありますが、ご容赦を。

 どっかのタイミングで、再度資料を読みなおして書き直してみたい、と、思うテーマでした。
 
 しかし、今回の件で、また書きたいことが別に大量に発生しました。
 当分、ネタに困ることはなさそうです。