トレンティーノに滞在中、ホテルのテレビで元ボローニャ大学の教授で作家のウンベルト・エーコが亡くなったことを知りました。享年84歳、世界的なベストセラーとなった『薔薇の名前』の作者で、ショーン・コネリーが主役で映画化されたことでも知られています。小生のかつて雑誌の映画紹介欄で取り上げたことのある内容の深い作品です。そのウンベルト・エーコがマクロビオティックを評価しており、マリオ・ピアネーゼとも知り合いだったというのです。
実は、マリオさんを初め、その仲間たちには必ずしも好感されなかったであろう小生のスピーチの内容は、具体的には触れなかったものの、エーコの『薔薇の名前』も背景にあったのです。好感されなかったであろうとするのは、前回の時もそうであったのですが、桜沢=マリオを称揚する余り、他の分野(音楽・文学・哲学等)への関心が薄く、時にはプロフェサー・スドウは博識だからと言って、議論が進展しないこともあったからです。
以下、2016年2月19日、ローマの日本文化会館で開かれた「桜沢如一記念講演会」でお話した内容のあらましをご紹介しましょう。
哲学としてのマクロビオティック
桜沢と同世代人であったフランスの哲学者Bergson(1859-1941)は次のように言っています。「我々の過去は我々に従い、その途上で現在を拾っては絶えず大きくなっていく」と。その一方で「過去が現在の中で生き残ることがなければ、持続というものはなく、ただ瞬間があるばかりである」とも指摘しています。
桜沢がBergsonの『哲学入門』を開いたかどうかは定かではありませんが、経済と科学技術とが融合した現代文明の転換期にあって、桜沢が、とりわけBergsonの一方の指摘について強い共有意識を持っていたことは、彼が名づけたマクロビオティックという標語の語源が、現代文明の礎となったギリシャ語(哲学)に由来していることからも理解できます。
端的に言えば、現代社会が直面している様々な問題解決の手段として、啓蒙思想家のRousseau(1712-1778)が掲げた?「自然に帰れ!」を、桜沢は、「人間は土の化け物」という視点から、人間を形成している元となっている食べ物に注目し、日本の前近代の自然食と食養法の再評価と実践によって、人間社会の平和と幸福を追求することにありました。
幸い桜沢の少し前の時代には、日本近代の転換期となった明治時代の軍医であった石塚左玄(1851-1909)がいました。彼は玄米・食養の先達であり「医食同源」「一物全体」を説いていました。更に遡れば、今日の日本食(和食)の食養法の基本ともいうべき「主食中心、腹七、八分目」を説いた『養生訓』の著者であった、江戸期の儒学者で医者でもあった貝原益軒(1630-1714)との再会に恵まれただけでなく、中国古代の儒教の一つ「周易」を通じて「陰陽五行説」をマクロビオティックの中心命題に据えることによって、それが桜沢の実践活動を一層説得力あるものに深化させたのです。正に桜沢はBergsonと並ぶ「温故知新」の実践者であったと言うことです。
実は、マリオさんを初め、その仲間たちには必ずしも好感されなかったであろう小生のスピーチの内容は、具体的には触れなかったものの、エーコの『薔薇の名前』も背景にあったのです。好感されなかったであろうとするのは、前回の時もそうであったのですが、桜沢=マリオを称揚する余り、他の分野(音楽・文学・哲学等)への関心が薄く、時にはプロフェサー・スドウは博識だからと言って、議論が進展しないこともあったからです。
以下、2016年2月19日、ローマの日本文化会館で開かれた「桜沢如一記念講演会」でお話した内容のあらましをご紹介しましょう。
哲学としてのマクロビオティック
桜沢と同世代人であったフランスの哲学者Bergson(1859-1941)は次のように言っています。「我々の過去は我々に従い、その途上で現在を拾っては絶えず大きくなっていく」と。その一方で「過去が現在の中で生き残ることがなければ、持続というものはなく、ただ瞬間があるばかりである」とも指摘しています。
桜沢がBergsonの『哲学入門』を開いたかどうかは定かではありませんが、経済と科学技術とが融合した現代文明の転換期にあって、桜沢が、とりわけBergsonの一方の指摘について強い共有意識を持っていたことは、彼が名づけたマクロビオティックという標語の語源が、現代文明の礎となったギリシャ語(哲学)に由来していることからも理解できます。
端的に言えば、現代社会が直面している様々な問題解決の手段として、啓蒙思想家のRousseau(1712-1778)が掲げた?「自然に帰れ!」を、桜沢は、「人間は土の化け物」という視点から、人間を形成している元となっている食べ物に注目し、日本の前近代の自然食と食養法の再評価と実践によって、人間社会の平和と幸福を追求することにありました。
幸い桜沢の少し前の時代には、日本近代の転換期となった明治時代の軍医であった石塚左玄(1851-1909)がいました。彼は玄米・食養の先達であり「医食同源」「一物全体」を説いていました。更に遡れば、今日の日本食(和食)の食養法の基本ともいうべき「主食中心、腹七、八分目」を説いた『養生訓』の著者であった、江戸期の儒学者で医者でもあった貝原益軒(1630-1714)との再会に恵まれただけでなく、中国古代の儒教の一つ「周易」を通じて「陰陽五行説」をマクロビオティックの中心命題に据えることによって、それが桜沢の実践活動を一層説得力あるものに深化させたのです。正に桜沢はBergsonと並ぶ「温故知新」の実践者であったと言うことです。