のんスケの‥行き当たりバッタリ!

ぐうたら人生を送ってきた私が、この歳になって感じる、喜び、幸せ、感動、時に怒りなどを、自由に書いていきたいと思います。

古稀の誕生日は、友との永訣の日に‥。

2014-11-06 11:47:05 | 日記

 Tさんは、私とは小学校と中学校を共にし、ここ数年は大阪で、(他の同郷の友だちも一緒に)お花見や食事を楽しんだりしてきた、かけがえのない幼馴

染みだ。

 Tさんは、中学時代からバレーボール部で活躍され、大阪で結婚された後も、ずっとママさんバレーを続けておられた。

 すぐ疲れる私なんかと違って、疲れを知らぬタフな体力と気力の持ち主だった。

 

 その彼女が昨夏、突如大腸がんを宣告され、手術を受けられることになった。

 かなりの大手術だったと思うが、彼女は術後も元気で、引き続く抗がん剤やX線治療にも、しんどさを表には見せず耐えられた。

 しかし、手術前から転移があった骨の癌が、徐々に牙をむき出してきて、今年の夏頃からは、激しい痛みとなって彼女を苦しめ始めた。

 その間も彼女はしんどい体に鞭打って、気丈に一人で病院に通われ、辛い治療を続けられた。

 私(たち)は、時々お家にお邪魔し、或いは近くのレストランに行って、ランチを一緒にしながら他愛無いお喋りをした。

 私と同じくらいお喋りが好きなTさんは、お喋りをしているときだけはしばし痛みを忘れられるように見えた。(実際は痛かったと思うけど…)

 

 その彼女が、10月頃から、次第に病院に一人では行けなくなった。

 家が割と近い私は、たまに彼女の病院行きに付き添ったりもした。

 

 (前のブログに書いたように)10月20日は、中学時代の同窓会。

 私なんかより数段故郷の友だちと繋がりが強かったTさんは、さぞかし同窓会に参加したかったに違いない。

 でもそれはとても叶う状態ではなかった。

 それにもかかわらず彼女は、同窓会の途中で友だちから掛かってきた電話に、「病気を治して又大阪で同窓会をするからね!」と、元気に話されていた

とのこと。

 

 彼女の様態が急変したのは、同窓会から程なくの10月30日のこと。

  (同窓会から帰ってきてからも、私は2,3度は電話で話したりメールのやり取りをしていた。そのときは、以前とそう変わりはなかった。)

 でも30日のお昼過ぎに電話したときは、彼女の様子が今までと全く違っていた。

 それまでは、多少喋りづらそうだったものの意思疎通に問題はなかったのに、その日は、彼女が何を言っておられるのか、全く聞き取れなかったのだ。

 私はビックリ仰天して、迷ったあげく「喋るのしんどいやろから、今はユックリ休んで。」と言って電話を切った。

 その後の数時間、私の心臓はドキドキと激しく打ち続けた。 (彼女の様子を知ろうにも、彼女の携帯以外連絡のしようがなかったから…。)

 そしてその日の夕方5時半、息子さんが彼女の携帯を使ってメールを送ってくださって、彼女の入院を知ったのだった。

 

 私は、(やはり幼馴染みの)Aさんに連絡して、翌日(31日)早速病院に行った。

 私たちはTさんの状態がどうか分からず不安な気持ちでいっぱいだったが、極力心を落ち着けて病室に入った。

 恐る恐るカーテンを開けた私たちの正面のベッドに、Tさんは点滴を受けながら横たわっておられた。

 私たちの怖れと違って、点滴で痛みが和らいでおられるのか、Tさんの表情は穏やかだった。

 物は言えない(食べ物も水も飲み込めない)ものの、表情はしっかりしていて、私たちが言ったことに、手の動きと表情で、しっかり答えてくださったの

だ。

 Aさんと私は、ホッとして病院をあとにした。

 

 ところが‥

 その翌日の11月1日の夕方、息子さんからメールが来て、「部屋が変わったので、よかったら顔を見せに来てほしい」とのこと。

 そこで私は、翌日の2日の午後、病院に行くことにした。

 

 


 

 

 2日、私が慌ただしく病院へ行く準備をしているところに、玄関のチャイムが鳴って、宅急便が同時に2つ届いた。

 実は翌3日は、私の誕生日。(今年は古稀の誕生日だ!)

 なので、宅急便の一つは花束、一つは果物のプレゼントだった。

 本来だったら、喜びをかみしめてプレゼントを開くところなのに、この日の私にはその余裕がなく、もどかしく包装をほどき、花束はそのままバケツに、果

物は分けて冷蔵庫に入れて、家をとび出した。

 (でもその前に写真だけは撮っておいたのは、いつもの習いか…?)

                   

 

 病室(個室に変わっていた)に入って、私は愕然とした。

 なか一日しか経っていないというのに、Tさんの姿は全く変わっていた。

 鼻には酸素のチューブを付けられ、眼はうつろに開かれている。

 目を時々つむられることもあるが、眠るわけでもなく朦朧とした感じ…。

 それでもこの日は、私が彼女の顔の正面から呼びかけると、うなずいたりの反応はあった。

 私は息子さんと二人で、時に彼女に呼びかけたり手を握ったり、顔の汗をぬぐったりして、娘さんが来られるまでの間、5時間くらい彼女につき添った。

 娘さんが来られたあと、「また明後日来るからね!」と言って、病院をあとにした。(明後日と言ったのは、翌日は親しい友人のUさんが来られると聞いて

いたから)

 


 

 

 翌3日…私の古稀の誕生日。

 私はこの日は、前から家でユックリ過ごすつもりでいた。(家でしなければならない事が山ほどあったし…)

 朝も公園に行くつもりはなかったが、あまりのお天気の良さに公園にだけは出掛けることになったけれど。(前のブログ)

 

 公園から帰ってきた私は、お祝い電話を掛けてくださった方と喋ったり、お祝いメールに返信したりして、お昼頃までグウタラ過ごしていた。

 

 ところが、午後1時半過ぎ、息子さんからメールが来た。

 「お母ちゃんが危なそうです、良かったらお願いします。」(原文のまま)と。

 私は、取るものも取りあえず、病院に急いだ。

 

 病室に入ると、3人の子どもさん(息子さん2人と娘さん)が、お母さんのベッドの周りを、悲愴な顔で囲んでおられた。

 チューブが酸素マスクに変わり、マスクの中で、彼女は必死に呼吸を続けられている。

 喉に痰がからまっているのか、呼吸される度にゴロゴロと喉が鳴って苦しそうだったが、体全体の痛みがなさそうなのが、せめてもの救いだった。

 

 同じ状態がかなり続いて、夕方になった。

 夕方になって、「長いこと来られなくてごめんね!」と、以前ご近所だった友だちがお見舞いに来られ、それからしばらくしてUさんが来られた。

 それから程なくして、喉のゴロゴロの音が少し静かになった。

 私は愚かにも、呼吸が楽になったのかと喜んだ。 それが、呼吸ができなくなる前触れだということも知らずに‥。

 

 それから間もなくして、呼吸も心拍も、完全に止まった。

 2014年(平成26年)11月3日、午後6時17分永眠。 享年70歳。

 眠っているような、安らかなお顔だった。

 

 私は何よりも、子どもさん3人に囲まれて彼女が逝かれたことを、ヨカッタと思った。

 そして、(私も含めて)友だち3人が子どもさんと一緒に彼女を見送ることができたのも、賑やかで(?)よかったのでは‥とも思った。

 

 斎場がいっぱいで、通夜・葬儀はずいぶん遅くなるもよう。

 通夜…7日、葬儀…8日。家族でこじんまり行われるそうだ。

 大阪在住の花見仲間4人は、7日のお通夜に行かせてもらうことにした。

 


 

 

 今日は6日。

 Tさんが逝かれてからもう3日が経つことになる。

 その間、私は何もする気にならず、呆然と過ごした。(何もする気がしないのは、彼女の死のためだけではなく、私にはよくあることだけれど‥)

 

 昨日になって私はやっと、バケツに放りこんであった花束を、3つの花瓶に分けて入れた。

                 

                  玄関                     (花瓶の手前のイヤリングも誕生日のプレゼント)

 

                    

              (左上の壁に掛けてあるのは、白内障手術の折にKさんから戴いたお見舞いの時計) 

 

 

 こうして、私の古稀の誕生日は、はからずもTさんの旅立ちの日になった。

 今のところまだ、彼女の死のことが頭を占めていて、古稀を迎えた感慨などというものには心が行かない状態だ。

 まあ、しばらくはボーッとユックリ過ごすことにしようと、思っている。