ダライ・ラマ法王が脳科学者の茂木氏に語った言葉(11月4日茂木氏「クオリア日記」より)。
「私は、あなたにもうすでに言ったかもしれないけれども、仏陀は、自分の言葉を、決して、信者として信じろ、とはおっしゃらなかった。仏陀がむしろ強調したのは、探究すること(investigate)の大切さでした。自分の言うことを鵜呑みにするな。必ず、自分で探索せよ、と。」
「そういう意味においては、仏陀は、一人の科学者だったのです。」
「だから、瞑想をするにしても、心の状態にどのような要素と成り立ちがあって、それが実践によってどのように変化するか、ということをきちんと見つめなければ、ただ目を閉じてぼんやりする、ということになってしまいます。」
「ある場所で、瞑想センターをつくるというので、訪問したのですが、その建物を見て、私はこう言いました。ここではどんな瞑想をするのか。もし、仏教の瞑想をするのならば、ただ単に座って目を閉じる、というだけではなく、講義があり、実践があり、話し合いがあるという風に、心の成り立ちを探究するのでなければ意味がない。そうでなければ、単に、忙しいビジネスマンが休みにくる場所になってしまう。」
「魂」(ソウル)というのは、仏教の伝統の中から出てきた言葉ではありません。仏教の中では、セルフ(自己)しかない。そのセルフが、連続した心(mind)の上に成り立っている。」
「脳は大きくて複雑です。だけど、心は、もっと大きくて複雑でしょう。」
鵜呑みにせず自身で探究せよ、その探究の中で気づきがあり、その気づきを実際に試し、また気づきが生まれ、そうして繰り返していく。自分で探究していくという意味において「仏陀は科学者だった」というダライ・ラマ法王の言葉、心に響いた。
「私は、あなたにもうすでに言ったかもしれないけれども、仏陀は、自分の言葉を、決して、信者として信じろ、とはおっしゃらなかった。仏陀がむしろ強調したのは、探究すること(investigate)の大切さでした。自分の言うことを鵜呑みにするな。必ず、自分で探索せよ、と。」
「そういう意味においては、仏陀は、一人の科学者だったのです。」
「だから、瞑想をするにしても、心の状態にどのような要素と成り立ちがあって、それが実践によってどのように変化するか、ということをきちんと見つめなければ、ただ目を閉じてぼんやりする、ということになってしまいます。」
「ある場所で、瞑想センターをつくるというので、訪問したのですが、その建物を見て、私はこう言いました。ここではどんな瞑想をするのか。もし、仏教の瞑想をするのならば、ただ単に座って目を閉じる、というだけではなく、講義があり、実践があり、話し合いがあるという風に、心の成り立ちを探究するのでなければ意味がない。そうでなければ、単に、忙しいビジネスマンが休みにくる場所になってしまう。」
「魂」(ソウル)というのは、仏教の伝統の中から出てきた言葉ではありません。仏教の中では、セルフ(自己)しかない。そのセルフが、連続した心(mind)の上に成り立っている。」
「脳は大きくて複雑です。だけど、心は、もっと大きくて複雑でしょう。」
鵜呑みにせず自身で探究せよ、その探究の中で気づきがあり、その気づきを実際に試し、また気づきが生まれ、そうして繰り返していく。自分で探究していくという意味において「仏陀は科学者だった」というダライ・ラマ法王の言葉、心に響いた。
有難う御座いました。
誰かの影響や外から与えられたものではなく、自分で深く探っていくしかない、
つくづくそう思います。へこたれることもあるけれど。
それは、とっても辛く厳しく、出口のない迷路かもしれないけれど。
脳みそも迷路、心も体もそれ以上に複雑な巨大迷路。
そこに挑まなければ、自分で気づきをつかむことなんてできませんね。
私にとってもとてもハッとさせられる言葉でした。こちらこそいつもありがとうございます。
自身の内面整理探究、終わりなき旅、自身の内面整理探究を続けることで、他者や外からの情報にも生き生きと学ぶことができるのかもしれません。
「脳みそも迷路、心も体もそれ以上に複雑な巨大迷路。」
本当ですね。私もこの迷路に日々向き合っていきたいです。こうして日々迷路に向き合うことのできる躍動と喜び(joy)をかみ締めつつ。
気づきをありがとう。