靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

整理、子供達の純粋さを大切に

2012-10-21 01:08:01 | 今週の整理
1.毎日朝から晩まで走り回っている。そんな日常がおくれることに感謝。様々起こる日々の出来事に、気づきの機会が溢れている。見慣れた景色が、全く違ったものに見え始める瞬間。日々の感動、驚きを大切に。心柔らかく、目を開いて。

2.次男プレスクール二週目、「ママに会いたい」とスナックの時間に泣き始めたと。迎えの時間、抱き上げて顔を覗き込む。まだ涙目の次男。「泣いちゃったんだ」と聞くと、「うん、ママ、ママって」と困った顔をしてうつむく。
 三歳すぐでプレスクールに通い始めた長男は初めの三日間泣いた、三歳ちょっと前だった長女は長男が一緒のクラスだったこともあり笑顔でバイバイ、五歳四歳だった次女と三女は年が上だったこともあり笑顔でバイバイ、三歳三ヶ月の次男、初めてのケース。普段ママと二人が多いからなあ。さてどうしたものかと先生に相談すると、携帯電話で話せるようにするといいと。次男が悲しそうになったら電話をかけて下さると。いつでもママと繋がっている、ママは必ずかえって来るもの、そう少しずつ慣れていくものよと。昔では考えられなかった新鮮なアイデア、なるほど! 週に二日三時間、様子を見守り少しずつ。

3.長女の六年生クラスで「いじめ」についての話し合い。誰か特定の子に皆でよってたかってということではなく、私が小中学校時代は日常茶飯事だったと思うような友達間のちょっとしたいざこざ程度の出来事。それでもこちらの対応はいつも思うけれど徹底している。何人かの生徒が個別に呼ばれ事情聴取、そして社会感情面専属カウンセラーの方が、ある村の学校でいじめられ続けた子がある日銃を持ち出し相手を打ってしまったという実際の体験を涙を流しながらクラスで話す。最後に六年生全員が契約書にサイン。契約書には:言語的、社会的(仲間はずれ、ネガティブな評判うわさをたてる)、身体的いじめがあるという「いじめの定義」。そしていじめを先生やスタッフに告げる、被害に合っている子のために立ち上がる、リスペクトをもって他者に接するよう促し合う、学校を皆が聞かれ安全であると思える場にする、という誓いの言葉。最後に、どんないじめも放課なしから停学まで、あらゆる段階の処分が与えられると記されていた。周りの大人そして子供達で一丸となって何としてでも止めさせる、そんな姿勢が満ちていると改めて感じた。

4.昨日、次女が三年生になって親しくなった友達の家を初めて訪れた。玄関を開けると漢字で書かれた大きな石の札。「楽育小中学校」白人のアメリカ人夫婦、アジア研究を専門とし中国に詳しい旦那さんが中国の村でいただいたのだそう。「ハッピーで楽しい学校!」、玄関で迎えてくれた母親が明るい笑顔で。何だか楽しい気分になって帰宅。

5.今、身近な身内を含め、知り合いの数人が癌。昨夜は次男と同じ年の子を持つ友人と話す。キーモセラピーを受けている彼女、頭を覆う毛糸の帽子が良く似合う。「今までの私の生き方を見直していてね。ストレスと怒りがたまっていたんだなあって。環境をがらりと変えたのよ。」治療に専念するため一旦仕事を止め、今は子供といるのが最高の癒しだと言う。微笑みながら、隣でカップケーキを食べる息子君の頭を撫でている。これから頻繁に子供達を遊ばせようね、と約束し別れる。帰り道、夕陽を見上げて歩く。次男の小さな手を引き、ふざけ合う子供達の笑い声を聞きながら。祈りつつ

6.聖書などの聖典は、科学的にあり得ない作り話だと退けたり、字面どおり信じ込んでしまうものでもなく、どうこの21世紀の現代に生かせる解釈をするか。先週に引き続き「ノアの箱舟」についてもう少し。「箱舟」とはヘブライ語で「テイバ」、「船」の他に「言葉」という意味もある。「一人一人の内の箱舟」は、知恵溢れる「言葉」によって築かれるとも解釈される。
 野獣猛獣から小さくか弱い動物まで隣り合わせに食物を分け合い、完璧なハーモニーの保たれた奇跡の場「箱舟」、洪水が収まると、ノアを初め皆出るよう命じられる。嫌がる動物も皆外へ出すよう、ノアも外へ出るよう。箱舟は閉じこもる場ではないのだと。外へ出、「箱舟」のエッセンスを少しでも広げていくために。内に箱舟を、そして箱舟で取り戻したピースを、外へ。

5.こちらには、後ろにステッカーが張られた車が多い。信号待ち時、前の車のステッカーが目に入り、はっとさせられることがよくある。先日、自分の今までのあることに対する姿勢を反省しかなり落ち込んでいたら、「Something wonderful is about to happen(何か素晴らしいことが起ころうとしている)」という言葉が目の前に。ああ、確かにこうして自分に向き合い痛い思いをすることが、どれほど自分を謙虚に成長させてくれるかと、ぱっと照らされた思いがした。一昨日は、「You may say I am a dreamer, but I am not the only one」そんなジョンレノンの歌詞のステッカーに元気づけられたり。その時置かれた状況と出会う言葉の組み合わせがいつも絶妙!

7.自分の内に「貴い場」があると共に、他の全ての人々の内にも、その本人が意識しているいないに関わらず、同じように「貴い場」がある。とてもシンプルなことだけれど、実際の生活では様々な要素がそのシンプルな仕組みを見えにくくする。人は様々。見かけも、肩書きも、所属も、持っているものも、育った環境も、考え方も、何を善しとし何を望まないのかの価値観も、信じるものも。それら目に見える表れによって、人は他者をジャッジし、分類し、上下に振り分ける。それでも一人一人の内に宿る「貴い場」には、誰の場が正しく優れていて、誰の場がより劣っているというようなことはない。一人一人に宿る「貴い場」の前に「ものさし」は必要ではない。他者と交わる上で、まずは全ての人々に等しくかけがえのない「貴い場」があるという前提を、覚えておく必要がある。その前提の上に関係を築いていく。
赤ちゃんは「ものさし」を持っていない。高級車から降り立つ華やかなドレスを着た女性にも、道端に破れた衣服を着てしゃがみこむ老婆にも、同じように微笑みかけるだろう。子育てをしつつ、赤ちゃんの澄んだ瞳に、屈託なく誰にでも話しかける幼児の笑顔に、はっと気づかされることが何度あっただろうか。大人は、この子供達の持つ純粋さを大切に育てていく必要がある。この純粋さが、他者と交わる力の源となる子供達はやがて大きくなり、知識をつけるにつけ、様々なものさしを身につける。かっこいいかっこ悪い、お金持ち貧乏、偏差値の高い学校低い学校、ステイタスのある仕事皆に見向きもされない仕事。これらのものさしを手にしつつも、全ての人々が横並びであるという一見矛盾して見える視点を、手放さないよう思い出させる必要がある。そして上下に区切られたこの現実社会の中で、かつて赤ちゃん時代に持っていた視点を、少しでも生かしていけたら。
生まれたばかりの赤ちゃんは、「貴い場」と一体。大きくなるにつれ、見失い忘れてしまうことのあるこの場に、太い架け橋を築いていくこと。自身がこの貴い場に繋がるほど、安心する力が強くなり、安心する力が強ければ強いほど、他者の貴い場を尊重する余裕が生まれる。自身の貴い場がしっかりとしていればいるほど、他者の貴い場を踏みにじるような行為や考えはなくなっていくもの。なぜなら他者を攻撃し、他者への許容力を狭める大きな要因は、自身の内にある「不安や恐れ」に他ならないから。「貴い場」を失った「不安」な人々は、ますます「ものさし」のみに依存するようになる。そして狭いものさしの中での競争を通し、勝者敗者という枠組みにがんじがらめに。狭いものさしの中では、他者と深く繋がることはできない。
 「不安や恐れ」に基づくことのない関係からこそ、新しい創造が生まれる。子供の内に、「貴い場」への架け橋を。それはより良い世界を創造する上で、最も必要とされること。

8.言葉の先へ

今日は早朝から長男長女スイムチームの水泳競技会。長男は途中抜けて航空技術関係ミーティング。あちらこちら運転しつつ、プールサイドでちびっ子追いかけながら応援、そんな週末になりそうです。

雪の舞うアンカレッジより。

Have a wonderful week!

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