靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

整理、あなたは必要とされている

2012-09-16 00:10:00 | 今週の整理
1.月曜日にまた嵐がやってくるという予報。気温も下がり朝は霜も。備えつつ、前回ほど多くの人が大変な思いをしないですみますようにと祈りつつ。

2.夫が一週間の出張から風邪ぐしゅぐしゅで戻る。アラスカの北端にある産業タウン、そろそろ雪がと。来週は南の他州へ。生姜たっぷり温かスープ飲んで、週末の間に治そう

3.最近は9時過ぎに子供たちとグーグー眠り込み、朝2時から4時頃の間に起き、書く生活。昼間は座る時間をめったに取れないので、あちらで3分こちらで5分、思いついたことなどメモしつつ、手元にプリントした資料を読みつつ。明け方書いて考えてと積み重ねたものを、日中子供達と飛び回り雑事にと走り回り一旦すっぱりと忘れる時を経ることで、また新しく向き合うことができる

4.子供達に何度も何度も伝えていきたい土台は、「あなたは必要とされている」ということ。「誰もがその人にしか築くことのできない道を歩くために生まれてきた」ということ。「今あなたの踏み出す一歩は、常に世界に影響を与える」ということ。そんな話を昨夜のファミリーディナーで。「あなたが目の前のレモンを食べるかりんごを食べるかまで、世界にとっては関係あるのよ」と。
目先の物質的な現ればかり見つめる目を、心の奥に向けて。心の奥に感覚を澄ますのならば、この人には価値があるけれどあの人には価値がない、そんな縦の線は消える。小さな子供であるほど、こんな言葉をすっと受け入れられるもの。ずっと知っていた当たり前の事実のように。大人は、子供たちの澄んだ目を前に、ただ思い出させる

5.マザーテレサがカルカッタの貧民街でし続けたのは、ごみのように扱われ続けた死ぬ間際の病人達に、「あなたは必要とされている」と思い出させること。最後の最後に、人の温もりを通して

6.「怒ると叱るは違う」とはよく聞く言葉だけれど、「怒る」が「感情に任せたリアクション」とするならば、「叱る」は「怒っている姿勢を意図的に選択している状態」なのだろう。子供は無邪気に境界を越える。「本気で怒っている姿勢」を見せることは時に必要。シンプルなルールを作るといい。自分を人を傷つける、自分が人が大切にしているものを踏みにじる、それが我が家での「叱る」時のルール。「叱った」後は、ジャッジを引きずることなく、切り替えて再び「温もり」を前面に。「叱っている」のならばその切り替えができる、そして伝えたいことが子供の心に届く。

7.本屋にずらりと並ぶ育児書には、様々な教育法が掲げられている。私自身も五人の子育てを通し、様々な方法を試してきた。早期教育、バイリンガル教育、モンテッソーリ教育、ウォルドルフ教育、ホームスクール、「ギフティッド」教育・・・。そして今思う最も大切なのこととは、教育法に拘るよりも、その時のその子自身に向き合い、変化し続けるニーズを感じ取りながら、その子に合った方法を整えていくということ。子供の個性が子供の数だけあるとするのならば、その子にジャストフィットする完璧な教育法というのは、未だかつて開発されていないともいえる。身近に日々接している親が情報を集め、選択し、その子に合った教育法を自ら生み出していく、全ての親がその子にとっての新しい教育法の開発者、そんな姿勢で子供に向かうのがいい。巷に溢れる教育法のいいと思うところを生かし、足りないと感じるところは補い、ドグマに捕らわれることなく、子供自身に真摯に向き合っていくこと。そうしてそれぞれの家庭独自の方法を形作っていく、それが子供を伸ばしていく上での最善なのだろう

8.長男が三歳になり初めて通ったプレスクールが、モンテッソーリ式の学校だった。忠実にモンテッソーリに基づいた教育を行っているアンカレッジに数少ない学校の一つ、そう評判の人気のある学校だった。子供達は、前に立ち講義する先生を見つめながら、一斉に同じことを教えられ学ぶというやり方ではなく、自身の興味に応じ、教室の至るところに置かれた教具を選び、各自で取り組む。アルファベットの読み書き、形の学習、カレンダーを作って数や曜日を学ぶといった全く違った「ワーク」が、教室中のあちらこちらで同時進行に。
 モンテッソーリ教育では、先生は黒子に徹し、子供主体。長男の先生は、「成功したモンテッソーリ式のクラスとは、生徒一人一人が自分のワークに夢中となり、先生などそこにいないというような状態だ」と。自然の素材を用いた独自の教具は、紙に書かれたプリント問題といったものではなく、一つ一つが五感や身体感覚を通して学ぶことを大切に考えられ制作されている。
 貧困家庭の心的障害を持つ子供達を対象とした研究を始まりとして、やがて一般的な子供達も視野に入れ科学者として研究を続けたマリア・モンテッソーリ氏は、整えられた環境という「秩序」を契機として、「ワーク」に没頭する「集中現象」を起こすことで、子供達の心身が健全に育てられると考える。
「私たち現代の人類はひどい混乱の中で暮らしています。そこで私たちは、子どもには安定、秩序、調和、愛について語り、教育しなければなりません。子どもは、本来的に秩序を愛する資質を持っているのです」という氏の言葉には、考えさせられる。氏は、子供が本来持っているはずの「秩序」を回復することこそが、将来の平和に繋がるのだと言う。
 モンテッソーリ教育では、「雑然とした破壊的でとりとめもない雑念や妄想」「外からの画一的なイメージの注入」などの「秩序」を乱す要素を取り去るため、「人形遊びやごっこ遊びや童話」は否定される。「子どもは遊びを本質とせず、むしろワークを欲している」と。長男を受け持つ先生に、「動物が洋服を着て話しをしたりといった、実際にあり得ないような絵本は避けてください」と言われたことがある。モンテッソーリ氏の目指した地点を理解するならば、この先生の言葉も納得がいくもの。
 モンテッソーリ氏の考える、人類は混乱していて秩序を戻す必要がある、子供本来が持つ秩序を回復させ、混乱した大人が邪魔をするべきでない、という立場にはとても共感する。整えられた環境の中で、良質の教具を用い集中することが、子供が本来持つ「秩序」を育てるというモンテッソーリ氏の見出した手法は、現代の子供達を取り巻く情報溢れる混乱した環境において、とても有効かもしれない
 と同時に、子供達が目を輝かせて童話を聞き、人形を抱きながらそっとララバイを歌い、あらゆる存在になり切ってごっこ遊びをしている時の様子から、「人形遊びやごっこ遊びや童話」は子供の成長にとって良い影響を大いに与え得るとも思う。むしろそんな想像的な遊びにこそ、未来の世界への可能性が秘められているのではないかと感じもする。環境を整えつつ、時に「ワーク」に集中、時にごっこ遊び、とコンバインしていけたら。
 モンテッソーリ氏は晩年、「祝祭や象徴的伝達などに、精神の創造性を見出すようになっていった」とも言われている。もう少し長生きし研究を続けて欲しかったとも思いつつ、一人一人の親が既成の教育法から「選択」して、子供と共に各自の形を作っていくことの大切さをかみ締めつつ。

参考資料:
モンテッソーリ教育 第39号
http://wwwc.dcns.ne.jp/~montessori/montessorikyouiku39.pdf#search
『モンテッソーリ教育の精神 』by クラウス・ルーメル


9.内に広がる地平と共に


黄金色! 秋のアンカレッジより。

Have a wonderful weekend!

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4 コメント

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Unknown (旅人パンダ)
2012-09-17 00:54:42
勉強になります!
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旅人パンダさんへ、コメントありがとうございます! (マチカ)
2012-09-21 22:20:10
こうして少しずつ私なりにまとめることで、また勉強になってます! まとめていきたいことが洪水状態なのですが、少しずつ少しずつ日々取り組んでます。読んで下さってありがとうございます! 良い週末をお過ごしくださいね。
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Unknown (yo-ki)
2012-09-25 02:03:53
モンテッソーリ教育は子供中心の教育法で素晴らしい教育だと思います。日本でもカンセリングを学ばれた先生がやられていましたが、一人一人の生徒と向き合というのは筆舌では現せられないくらいの努力と深い愛情と真心がなければ成果は上がらないようです。その点両親の子供をおもう「深い愛情」こそが教育には一番大切な事だと思います。そのような先生が必要ですが、本当の教育とはということの解っている先生が現代の社会情勢の中に何人いることでしょう。非常に残念でなりません。
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yo-kiさんへ、コメントありがとうございます! (マチカ)
2012-09-30 00:46:50
>「深い愛情」こそが教育には一番大切、

本当ですね。これさえあるのならば、メソッドが多少どうであれ、大丈夫なのだろうな、と感じてます。

今の教育、社会の在り方では、この感覚を掴み取るのはなかなか難しいのかもしれませんね。

私も日々精進していきたいです。
ありがとうございます。
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