1.夫出張続き怒涛の二週間が無事終わる。ほっ。学校送り迎え、習い事、プロジェクト、宿題、テスト勉強、身の回りに必要なもの、感情面ケアなどなど、五人多様なニーズを満たすには、やはり一つの身体では物理的に難しいと実感。
2.早朝書くことを続けつつも、なかなかブログにアップできる形を整えられず。更新が滞りがちになるかもしれませんが、書き溜めているものを一気に発表できる日に向けて、こつこつと歩いています。こうしてブログに日々の気づきを書き留めることで、また歩き続ける力をもらい。ブログ、ポツリポツリとなろうとも長く続けていきたいです。読んで下さる皆様に感謝を込めて。
3.確か随分前に次男のトイレットトレーニングを始めるぞ!と書いた記憶があるのですが、引越し夏休みでのば~しのばしに。実はようやく先週から・・・。上三人は二歳半、四人目は三歳になってすぐ、五人目は三歳二ヶ月にして。やはり三歳になってからだとマスターが早い。小さければ小さいほどまずはトイレに何分かおきに座ることを繰り返し身体に習慣づけていくのだけれど、三歳にもなると本人の意志意識がより働き本人自身が何とかしようとあれやこれや工夫しているのが分かる。一時は漏らしたら嫌だからと水分を拒否し始めたり・・・。それまで意識していなかった排泄を、意識的にするようになるというのは、子供にしてみたらものすごい変化なのだろう。オムツからパンツへ、峠を越えコツを掴み、「僕はもうbig boy」と自信に満ちた次男の笑顔。とうとう13年ぶりのオムツフリーな家、実現! 感慨深いです。
五回目のおむつはずし。自分の姿勢の違いに改めて気が付く。一人目はとにかく必死、二人目三人目は大変大変と大変さが先、四人目から楽しさの芽が、五人目はうきうきと共にトイレへ向かうことを楽しむ自分がいる・・・。(笑) 何でも続けることで新しい境地が見えてくる。
4.長女がピアスの穴を開けたいと。六年生のクラスの女の子でピアスを開けていないのは四分の一もいるかいないかという驚きの割合のこちら。今のところ「成人してからね」と返答。「マニキュア買いたい」「う~ん爪が呼吸できないのよ。育ち盛りにいいとは思えない」そんな会話も。友人宅に遊びに行くと、皆できれいにマニキュア塗り合って帰ってきたり。
「美」は相対的なものでもあってね、その時代や文化によって何を「美」とするかは随分と違うのよと、纏足や首長族などの話もしてみたり。その時代その社会での「美」を試したい気持ちも分かるけれど、なるべく自然に近く身体に無理の無いものをねと、マニキュアは一ヶ月に多くて一回塗るのみという条件で自然系のものを購入したら、爪にうまく張り付かなない・・・。
外側を飾ることも楽しいけれど、内側を磨いていこう、それが時代や文化の違いを超える「美」への道。どんな格好をしていたって、内側の美は必ずその人を包む雰囲気となって外へと滲み出る。今日も鏡の前に立つ年頃の娘&息子に何度も思い出させたいこと。
5.子供たちの通う小学校の廊下を歩いていると、感情社会面のカウンセラーの女性とすれ違う。黄色のTシャツには、「”Failure is an event, not a person”(失敗は出来事、人ではない)」と大きな文字。子供たち、様々な心理ゲーム満載のこの先生の授業が大好き。多くを学んでいるよう。
6.上四人とも、期間の長い短いはあれど、皆ウォルドルフ(シュタイナー教育)のプレスクールに通った。
ウォルドルフから学んだことはたくさんあるのだけれど、まず挙げるとすれば、子供と共に今を楽しむ姿勢ということだろう。「子供って完全に今にいる(present)でしょ」、長男長女の先生だったAさんがそう微笑んでいたのを思い出す。ウォルドルフでは親だけが集まる会が何度かある。そこではクラフト作りをしたり、詩を詠んだりリズムに合わせて歌ったり身体を動かしたり、日常の雑事から離れ「遊ぶ」ことで、「童心」を思い出す。子育てに必要なのは、あれもこれも教えなければと凝り固まった姿勢ではなく、こんな「遊び」の心でもあるのだと気づかされた。子供は遊びの天才。目の前に小枝や石ころがあれば、夢中になって長い時間過ごすことができるもの。大きくなるにつれ忘れてしまったそんな心を、ウォルドルフは鮮やかに蘇らせてくれた。
そして「子供は模倣を通して成長する」という教えは、自分自身を見つめる習慣と、より少しでも未来の世界を担う子供たちのモデルであれる存在に近づけたら、という方向性を与えてくれた。子供に囲まれて暮らす日々、こんな私だけれど少しでもと背筋が伸びる。私がウォルドルフのプレスクールに子供たちを通わせたいと思うのも、この周りの大人が「自身がモデルである」と自覚しているというのが大きい。教師達は毎朝輪になり、歌い祈り心を整える。口先であれはいいこれはだめと説くのではなく、子供達のモデルであるために、周りの大人が内省し磨き成長していくことを思い出させる仕組みが、ウォルドルフにはある。
(「だめ!」よりも、模倣できるモデルを身体で示すという方法は日常的に使える。木に囲まれた裏庭で、男の子が鋤をフェンスにがんがんと打ち付けて遊んでいると、Aさんは傍に行き、そっともう一つの鋤を手に取り、楽しそうに歌いながら落ち葉を掻き集め始める。いつしか男の子も落ち葉を掻くことに夢中になり始める。鋤はこうして使うものなのよと身体で示す。お友達を叩いてしまった子には、まずはその子の手を両手で包み込んで温め、落ち着いたら人形を静かになでたり、どんぐりの入ったカップを友達に差し出したりと、一緒に遊ぶ。「そんなことしてだめ!」と声を荒げるのではなく、モデルを示すことで、手は叩くものではないのだと身体に染み込ませていく。「だめ!」よりも教える時間はかかるけれど、より深く身につく)
また自然素材手作りの玩具や身の回りの品々に囲まれる時は、創造的な気持ちを湧き上がせてくれると同時に、次から次へと新しいものを与えては捨てといった態度ではなく、一つのものを長い間大切にするといった姿勢の貴さを教えてくれた。外へと向かうイメージが、より内面的な豊かさの溢れるイメージへと。他にもウォルドルフで大切にされる日々のリズムや季節のリズムに触れ、ルーティンから年中行事まで改めて見直す機会をもらった。
シュタイナー教育では、ルドルフ・シュタイナー氏の考えた「人智学」という立場から人間というものが捉えられる。人智学では、人の本性とは物質からなる肉体・生命の源であるエーテル体・感覚感情を司るアストラル体・意識の座である自我の四つからなるとする。そしてそれら四つの本性に適切な時期に働きかけることで、人が本来あるべき健全な姿に育つとされる。
また人の発達は七年周期で訪れるとされる。零歳から七歳まではまずはしっかりとした身体を作ることが、その後強い意志もった行動を取ることのできる人へと成長させると言う。身体作りのためには、知的面の成長は避けるべきだとも。七歳から十四歳までは芸術を通し感情面を発達させ、「世界は美しい」と感じさせる時期。小学校一年生から楽器を習い、オイリュトミーという独自の「運動芸術」が取り入れられる。十四歳から二十一歳になり初めて、抽象概念を操る力や思考面が発達するとされる。こうして意志・感情・思考といった順で時間をかけ発達させることで、二十一歳を過ぎた頃に、健全な自我が完成されるという。
また四つの本性のバランスの偏りによって、人には四つの気質が在るとし、教師は子供一人一人の気質を見極め、対応する必要があるとする。例えば、自分の殻に閉じこもりがちな憂鬱質な子には深い愛情と共感を、おっとりぼんやりした粘液質の子には励ましやテンポの早い遊びなどを、活気に満ち陽気で気まぐれな多血質の子には一つのことをやり通す大切さを、意志が強く自己主張のはっきりとした胆汁質の子には忍耐と深い理解をもって接するといったように。
シュタイナー自身が「人智学を基礎とする教育方法は、本当に独特のものを基盤としている」と言うように、シュタイナー教育とはシュタイナーの描いた特殊な世界観に基づいている。シュタイナー教育の目指す「何にも依存せず、自分が生きている意味を自らしっかりと捉え、人としての一番深い欲求であるはずの他者への献身的な愛から、自覚的に行動できる人、それこそが真に自由を獲得した者である」という人間像に、心から共感する。
それでも随分と悩んだ結果、結局子供達は小学校からは違う学校へ。一つには、アラスカには中学までしかウォルドルフの学校がないということ。十四歳から知的面の発達の加速を始めるというその教育思想から、ウォルドルフの学校で学んだ小学中学生というのは、周りの学校に比べ学力的に遅れている。高校から普通の学校に入れるということで、適応できるかという疑問。またシュタイナー教育における知的面への働きかけ期自体について、三才頃から「なに?なぜ?」と溢れ始める知的好奇心を、空想上の物語などでのみ説明することへの抵抗感が、私の中に根強くあったこと。
「七歳までは夢の中」そして十四歳までは「世界は美しい」と感じられるようにと、ウォルドルフの子供達は、空想上の美しい夢の中に住み続ける。内にしっかりと桃源郷を築いた子供は、どんな環境におかれたとしても力強く歩いていくことができるという考えに基本的には同意しつつも、その子自身に向き合い、いつまでどの程度子供達を守っていくのかのバランスをはかっていきたい。ウォルドルフで学んだ多くのことに感謝しつつ、「何にも依存せず」というシュタイナーの言葉を胸に、家庭で自分なりに生かしていけたら、そう思っている。
参考資料:
『人間理解からの教育』 ルドルフ・シュタイナー著 西川隆範訳 筑摩書房
「シュタイナー教育思想にみる『教師の自己教育』について」
文部省在外報告研究Ⅰ 衛藤吉則
http://ci.nii.ac.jp/els/110000037982.pdf?id=ART0000368137&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1348325604&cp=
「人間教育からの幼児教育 ―シュタイナー教育からー」 後藤恭子
http://ci.nii.ac.jp/els/110000484595.pdf?id=ART0000874755&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1348325756&cp=
7.自分という枠の外を思うとき、流れ出す。
「ホントよく降るよねえ」、最近人と顔を合わせる度互いの口から出る言葉。
しっとりと黄金色のアンカレッジより。
Have a wonderful weekend!
2.早朝書くことを続けつつも、なかなかブログにアップできる形を整えられず。更新が滞りがちになるかもしれませんが、書き溜めているものを一気に発表できる日に向けて、こつこつと歩いています。こうしてブログに日々の気づきを書き留めることで、また歩き続ける力をもらい。ブログ、ポツリポツリとなろうとも長く続けていきたいです。読んで下さる皆様に感謝を込めて。
3.確か随分前に次男のトイレットトレーニングを始めるぞ!と書いた記憶があるのですが、引越し夏休みでのば~しのばしに。実はようやく先週から・・・。上三人は二歳半、四人目は三歳になってすぐ、五人目は三歳二ヶ月にして。やはり三歳になってからだとマスターが早い。小さければ小さいほどまずはトイレに何分かおきに座ることを繰り返し身体に習慣づけていくのだけれど、三歳にもなると本人の意志意識がより働き本人自身が何とかしようとあれやこれや工夫しているのが分かる。一時は漏らしたら嫌だからと水分を拒否し始めたり・・・。それまで意識していなかった排泄を、意識的にするようになるというのは、子供にしてみたらものすごい変化なのだろう。オムツからパンツへ、峠を越えコツを掴み、「僕はもうbig boy」と自信に満ちた次男の笑顔。とうとう13年ぶりのオムツフリーな家、実現! 感慨深いです。
五回目のおむつはずし。自分の姿勢の違いに改めて気が付く。一人目はとにかく必死、二人目三人目は大変大変と大変さが先、四人目から楽しさの芽が、五人目はうきうきと共にトイレへ向かうことを楽しむ自分がいる・・・。(笑) 何でも続けることで新しい境地が見えてくる。
4.長女がピアスの穴を開けたいと。六年生のクラスの女の子でピアスを開けていないのは四分の一もいるかいないかという驚きの割合のこちら。今のところ「成人してからね」と返答。「マニキュア買いたい」「う~ん爪が呼吸できないのよ。育ち盛りにいいとは思えない」そんな会話も。友人宅に遊びに行くと、皆できれいにマニキュア塗り合って帰ってきたり。
「美」は相対的なものでもあってね、その時代や文化によって何を「美」とするかは随分と違うのよと、纏足や首長族などの話もしてみたり。その時代その社会での「美」を試したい気持ちも分かるけれど、なるべく自然に近く身体に無理の無いものをねと、マニキュアは一ヶ月に多くて一回塗るのみという条件で自然系のものを購入したら、爪にうまく張り付かなない・・・。
外側を飾ることも楽しいけれど、内側を磨いていこう、それが時代や文化の違いを超える「美」への道。どんな格好をしていたって、内側の美は必ずその人を包む雰囲気となって外へと滲み出る。今日も鏡の前に立つ年頃の娘&息子に何度も思い出させたいこと。
5.子供たちの通う小学校の廊下を歩いていると、感情社会面のカウンセラーの女性とすれ違う。黄色のTシャツには、「”Failure is an event, not a person”(失敗は出来事、人ではない)」と大きな文字。子供たち、様々な心理ゲーム満載のこの先生の授業が大好き。多くを学んでいるよう。
6.上四人とも、期間の長い短いはあれど、皆ウォルドルフ(シュタイナー教育)のプレスクールに通った。
ウォルドルフから学んだことはたくさんあるのだけれど、まず挙げるとすれば、子供と共に今を楽しむ姿勢ということだろう。「子供って完全に今にいる(present)でしょ」、長男長女の先生だったAさんがそう微笑んでいたのを思い出す。ウォルドルフでは親だけが集まる会が何度かある。そこではクラフト作りをしたり、詩を詠んだりリズムに合わせて歌ったり身体を動かしたり、日常の雑事から離れ「遊ぶ」ことで、「童心」を思い出す。子育てに必要なのは、あれもこれも教えなければと凝り固まった姿勢ではなく、こんな「遊び」の心でもあるのだと気づかされた。子供は遊びの天才。目の前に小枝や石ころがあれば、夢中になって長い時間過ごすことができるもの。大きくなるにつれ忘れてしまったそんな心を、ウォルドルフは鮮やかに蘇らせてくれた。
そして「子供は模倣を通して成長する」という教えは、自分自身を見つめる習慣と、より少しでも未来の世界を担う子供たちのモデルであれる存在に近づけたら、という方向性を与えてくれた。子供に囲まれて暮らす日々、こんな私だけれど少しでもと背筋が伸びる。私がウォルドルフのプレスクールに子供たちを通わせたいと思うのも、この周りの大人が「自身がモデルである」と自覚しているというのが大きい。教師達は毎朝輪になり、歌い祈り心を整える。口先であれはいいこれはだめと説くのではなく、子供達のモデルであるために、周りの大人が内省し磨き成長していくことを思い出させる仕組みが、ウォルドルフにはある。
(「だめ!」よりも、模倣できるモデルを身体で示すという方法は日常的に使える。木に囲まれた裏庭で、男の子が鋤をフェンスにがんがんと打ち付けて遊んでいると、Aさんは傍に行き、そっともう一つの鋤を手に取り、楽しそうに歌いながら落ち葉を掻き集め始める。いつしか男の子も落ち葉を掻くことに夢中になり始める。鋤はこうして使うものなのよと身体で示す。お友達を叩いてしまった子には、まずはその子の手を両手で包み込んで温め、落ち着いたら人形を静かになでたり、どんぐりの入ったカップを友達に差し出したりと、一緒に遊ぶ。「そんなことしてだめ!」と声を荒げるのではなく、モデルを示すことで、手は叩くものではないのだと身体に染み込ませていく。「だめ!」よりも教える時間はかかるけれど、より深く身につく)
また自然素材手作りの玩具や身の回りの品々に囲まれる時は、創造的な気持ちを湧き上がせてくれると同時に、次から次へと新しいものを与えては捨てといった態度ではなく、一つのものを長い間大切にするといった姿勢の貴さを教えてくれた。外へと向かうイメージが、より内面的な豊かさの溢れるイメージへと。他にもウォルドルフで大切にされる日々のリズムや季節のリズムに触れ、ルーティンから年中行事まで改めて見直す機会をもらった。
シュタイナー教育では、ルドルフ・シュタイナー氏の考えた「人智学」という立場から人間というものが捉えられる。人智学では、人の本性とは物質からなる肉体・生命の源であるエーテル体・感覚感情を司るアストラル体・意識の座である自我の四つからなるとする。そしてそれら四つの本性に適切な時期に働きかけることで、人が本来あるべき健全な姿に育つとされる。
また人の発達は七年周期で訪れるとされる。零歳から七歳まではまずはしっかりとした身体を作ることが、その後強い意志もった行動を取ることのできる人へと成長させると言う。身体作りのためには、知的面の成長は避けるべきだとも。七歳から十四歳までは芸術を通し感情面を発達させ、「世界は美しい」と感じさせる時期。小学校一年生から楽器を習い、オイリュトミーという独自の「運動芸術」が取り入れられる。十四歳から二十一歳になり初めて、抽象概念を操る力や思考面が発達するとされる。こうして意志・感情・思考といった順で時間をかけ発達させることで、二十一歳を過ぎた頃に、健全な自我が完成されるという。
また四つの本性のバランスの偏りによって、人には四つの気質が在るとし、教師は子供一人一人の気質を見極め、対応する必要があるとする。例えば、自分の殻に閉じこもりがちな憂鬱質な子には深い愛情と共感を、おっとりぼんやりした粘液質の子には励ましやテンポの早い遊びなどを、活気に満ち陽気で気まぐれな多血質の子には一つのことをやり通す大切さを、意志が強く自己主張のはっきりとした胆汁質の子には忍耐と深い理解をもって接するといったように。
シュタイナー自身が「人智学を基礎とする教育方法は、本当に独特のものを基盤としている」と言うように、シュタイナー教育とはシュタイナーの描いた特殊な世界観に基づいている。シュタイナー教育の目指す「何にも依存せず、自分が生きている意味を自らしっかりと捉え、人としての一番深い欲求であるはずの他者への献身的な愛から、自覚的に行動できる人、それこそが真に自由を獲得した者である」という人間像に、心から共感する。
それでも随分と悩んだ結果、結局子供達は小学校からは違う学校へ。一つには、アラスカには中学までしかウォルドルフの学校がないということ。十四歳から知的面の発達の加速を始めるというその教育思想から、ウォルドルフの学校で学んだ小学中学生というのは、周りの学校に比べ学力的に遅れている。高校から普通の学校に入れるということで、適応できるかという疑問。またシュタイナー教育における知的面への働きかけ期自体について、三才頃から「なに?なぜ?」と溢れ始める知的好奇心を、空想上の物語などでのみ説明することへの抵抗感が、私の中に根強くあったこと。
「七歳までは夢の中」そして十四歳までは「世界は美しい」と感じられるようにと、ウォルドルフの子供達は、空想上の美しい夢の中に住み続ける。内にしっかりと桃源郷を築いた子供は、どんな環境におかれたとしても力強く歩いていくことができるという考えに基本的には同意しつつも、その子自身に向き合い、いつまでどの程度子供達を守っていくのかのバランスをはかっていきたい。ウォルドルフで学んだ多くのことに感謝しつつ、「何にも依存せず」というシュタイナーの言葉を胸に、家庭で自分なりに生かしていけたら、そう思っている。
参考資料:
『人間理解からの教育』 ルドルフ・シュタイナー著 西川隆範訳 筑摩書房
「シュタイナー教育思想にみる『教師の自己教育』について」
文部省在外報告研究Ⅰ 衛藤吉則
http://ci.nii.ac.jp/els/110000037982.pdf?id=ART0000368137&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1348325604&cp=
「人間教育からの幼児教育 ―シュタイナー教育からー」 後藤恭子
http://ci.nii.ac.jp/els/110000484595.pdf?id=ART0000874755&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1348325756&cp=
7.自分という枠の外を思うとき、流れ出す。
「ホントよく降るよねえ」、最近人と顔を合わせる度互いの口から出る言葉。
しっとりと黄金色のアンカレッジより。
Have a wonderful weekend!
自分の経験からマチカ教育法などが生まれてくるかもね。
教育法に絶対法なんてなくて、その子にあった最良の方法を親が見つけ出せるかに鍵があるのでしょうね。
でも、どんな方法でも親が子供を大切にしてたらそれなりに成長していくもんだなぁ、とも思う。
ピアス、金属アレルギーの引き金になること多いから気をつけてね。(って高校の時、化学の先生も言ってたよね)
私もピアスで金属ダメになっっちゃった。でも銀はダメだけどプラチナは大丈夫。セレブっぽい?合金もニッケルとかコバルトとか入ってるから要注意って。
そうですね、子供の数だけの教育法があったらいいのかもしれませんね。土台を創り、その子に向き合いながら日々練り直し。
ありがとうございます。今日もよい日を!
まさしくですね。鏡に囲まれているように感じることもあります。私も、あの子のあの反応の仕方、この子のこの態度・・・、と反省の毎日です。
少し大きくなれば、「取捨選択して、いいところを真似してね」なんて言葉もかけたりしますが、言葉や頭で分かったとしても、習慣として身体に染み付いたものを変えるのは時間がかかるものですね。
私も日々精進していきたいです。だめなところがいっぱいながらも、少しでも良くなろうと歩いている姿を見せることに意味があるのだろうなと思いつつ。
本当ですね、絶対法などなく、その子自身に向き合うことで必ず法とのズレが出てくる。その都度柔軟に対応しつつ、その子にとっての最良の道を見つけていけたら、そう思っています。ありがとうございます。
太陽の降り注ぐ地へ、初雪のアンカレッジより。
今週もよい日々をお過ごしください!
あの方法がいいこの方法はよくないというよりも、あの方法にはこんないい面がある、この方法にはこんな気をつけたい面があると言った方が、しっくりきます。時代も移り変わり、子供の個性も色々で、全て鵜呑みにできる完璧な方法論なんてものがあるのかと疑問に思うよ。
それでも普遍的な土台というものはあるのだろうね。テッサーさんの言うように、「親が子供を大切にしてたら」というのはその土台の根幹なのだろうね。
金属アレルギー、そうなんだね。こちらは六年生にもなると、ピアスしてない子を見つける方が難しいくらいなのよ。赤ちゃんからしている子もいるからね。
私は19の時に開けたけれど、しばらくして膿んでだめだった。今はふさがってるけれど、膿んだときのしこりみたいなのが残ってるよ。その後確かに、合金の指輪とかでも指がかぶれたりしてたかも。そういうこともあってね、身体にとって無理があることなんだろうな、と思って。テッサーさん、プラチナはOKなのね。合金も要注意なんだ。ありがと、勉強になったよ。
こちらは雪よ雪。早いわ、今年。これから五月まで雪景色なのだろうか。子供達初雪に大はしゃぎで転げまわってます。
いつもありがとうね。いつかプラチナつけたテッサーさんに会える日を楽しみにしてるよ。今週もよい日々をね。アディオ~ス!
今回の記事でちょっと違うかなと思ったのが、シュタイナー学校での学力のことですね。シュタイナー学校のカリュキュラムは独自の発達観に基づいているので、アカデミックはゆっくりと始まりますが、6年生くらいになると、公立学校のレベルに追いつきます。そしてその後は子供それぞれですが、勉強することに疲れていない分成績の伸びる子が多く、シュタイナー学校の7.8年生などはハイスクールレベルです。
シュタイナー学校の問題は、学費がとんでもなく高い為、ごく一部の裕福な子供たちしか来られないことです。また、きつい厳しいアメリカ社会というものを体験せずに、守られ過ぎた枠の中で育ってしまうことに問題があります。
モンテッソーリとシュタイナーはいろんな意味で正反対ですが、もしかしたら、深い人間観では繋がっているのではと感じています。
またお話しましょうね。 りん拝
シュタイナー教育に十年以上教師として携わってきたりんさんの言葉、とてもためになります。
シュタイナー学校の学力面について、そうなんですね。理論的には14歳からアカデミックを加速、高校卒業時には公立学校の学力を追い抜いているとは読んだのですが、実際には中学に入った時点で学力的に公立の高校レベルに伸びる子も多いのですね。
机上の詰め込みでなく、五感や身体を元にした学びの土台を築いた上に、中学生くらいから複雑で抽象的な考えを操る力がすくすくと育っていくのですね。
私立のウォルドルフ小学校に通う息子をもつ友人が、今日は農場に見学、二日後は浄水場に見学、フィールドトリップが多くてね、と先週言っていました。ゆっくりと、頭でっかちでない、身体とのバランスの取れた知恵や知識を身につけていくんだなと話しながら思っていました。
りんさん家もウォルドルフを卒業した息子君二人、頼もしく歩いていますね。
「学費がとんでもなく高い」、本当に! ドイツのタバコ工場の労働者対象に始まった学校が、今こうして北米で特に小学校からは裕福層にしかとても通わせることのできない学費になっているというのはおかしなことですね。長男長女のプレスクール、皿洗いに掃除にと次女を背負いながら手伝うことで月謝をディスカウントしてもらっていたことを思い出します。
そして確かに素晴らしく守られた環境で子供時代の大半を過ごすことで、外の世界への免疫力のようなものがついてないということもあるのかもしれませんね。お伽噺に出てくるような夢のような環境、そう子供たちのウォルドルフスクールを見ながら思ったものです。
モンテソーリとシュタイナーは同時代を生き、共にガンジーなども出入りしていた神智学の集まりに参加していたと読んだことがあります。互いの生まれ育った環境などの影響でアプローチは随分と違うけれど、「深い人間観では繋がっているのでは」というりんさんの感覚、なるほどと思いましたよ。
また是非。今日は終日陶芸かな。ありがとう。良い週末を!
この言葉、しかと覚えておきますね。りんさんが試行錯誤しながら育んだ息子君たちとの時間、そこで掴んだ一つの答え、大切にします。
一通り練習してから、というわけにはいきませんものね、親も子供も互いの人生をかけたぶっつけ本番。しかも長丁場。
まだまだ続く子育てですが、右も左も分からないまま子育て生活に突入して一三年、初めの頃を振り返ると、あらら・・・、ということばかり。そのあららの失敗を何とか生かそうと、やっと四人目くらいから、まだまだですが、初めに比べると少しずつスムーズになってきたかなという感覚です
一番上とはまだまだ試行錯誤の道を突き進み中です。(笑) また相談にのっていただくこともあるかもしれません、その時はどうぞよろしくお願いします。
お孫さんももうすぐだったりするかもしれませんよ~。りんさんと遊んで楽しめる次男は幸せです。どうぞよろしくお願いします!感謝を込めて。