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にしみの鉄道情報局付属ブログ

ニューブルートレイン

2019-02-18 | ブルートレイン
1971年から製造された14系24系以降の寝台車を総称して、ニューブルートレインという通称があります。
それ以前のブルートレインの主力車種の20系のB寝台の幅が52cmなのに対して、14系以降はB寝台の幅が70cmに広がるなど大幅な改善がされました。20系はブレーキの関係で牽引機に制約がありましたが、14系以降はブレーキの対策がされていて、牽引機に制約はありません。
20系の編成内の放送や照明、冷暖房などに用いる電源は、電源車を設けてここから供給しする集中電源式でしたが、14系では床下の発電エンジンから給電する分散電源式となりました。そのため途中で分割併合する、多層建て列車の運行も容易になりました。20系時代の行き先が複数ある分割併合の場合、わざわざ別に簡易電源車マヤ20形を用意して、分割した一方の編成に連結していました。


撮影 京都駅 2008年2月10日


このニューブルートレインの一族は、いろいろな事情で、マイナーチェンジを繰り返して、4種類のグループに分かれています。
14系は試作車が10両製造されたあと、1971年から翌1972年に量産車が188両が製造されました。その後、北陸トンネル火災事故により、14系の床下エンジンが問題視されたため、20系と同じ集中電源方式の24系が1973年に118両製造され、改良された24系25形が1974年から1980年にかけて415両製造(編入車及び夢空間を除く)されています。24系25形はB寝台2段になるなど、接客設備が改良されています。24系25形がニューブルートレインの決定版となりました。
ただし、行き先が複数ある列車の増発で14系が不足して、14系のB寝台を2段化した床下エンジンの14系15形が1978年に63両製造されています。

それで後天的な改造をされた車両を除くと、B寝台は14系24系が3段、24系25形と14系15形が2段となっています。また車体の帯は、14系24系が白帯2本に対して、24系25形と14系15形は省力化からステンレス帯2本になっています。

24系25形以降はB寝台が2段化されたこともあり、定員が大幅に減少しました。そのため14系と24系に対して24系25形と14系15形のエアコンは小型化しています。
JR化後に北斗星用に14系座席車の車体を大幅に作り変えて、24系に編入した車両が出現していますが、すべて小型のクーラーを搭載しています。


上 オロネ24 大型のAU76を搭載
下 スロネフ25 小型のAU77を搭載
撮影 2018年3月17日 京都鉄道博物館


さて、14系が製造打ち切りになり、24系に製造が移行した決定的理由は、よく北陸トンネル火災事故が原因だと言われています。北陸トンネル火災事故の発生が1972年11月6日、24系の初期車の新製配置が翌1973年8月末から9月にかけてで、24系初期車の予算区分が昭和47年(1972年)第3次債務負担なのでメーカーへの発注は、おそらく年度末の1973年2月から3月ごろだったのではないかと推定されます。わずか数ヶ月で、難燃化対策と集中電源式への設計変更、電源車の設計を行ったことになります。時間的に不可能ではないのですが、かなり厳しいスケジュールです。

また、14系でも寝台車は1972年に製造打ち切りになっていますが、14系の座席車は1974年まで継続生産されています。座席車なので、火災が発生しても寝台車に対して避難が容易だといえばそれまでですが、14系座席車の夜行急行列車は当時から多数運転されていました。

ここからは疑った見方なのですが、寝台特急用の車両の24系への移行は、国鉄内部では北陸トンネル火災事故以前から既定路線だったのではないかと。
14系の発電エンジンの騒音、とくにそのエンジンを搭載するスハネフ14の評判が悪く、20系と同じ集中電源式への回帰を検討していたのではないかと考えられます。
1978年に床下の発電エンジンに対する防火対策がされた、分散電源式の2段寝台の14系15形があかつき明星に投入されましたが、それ以降も1980年に24系25形が製造されています。
電源車がないため14系の方が輸送力は大きいのですが、国鉄は騒音を考慮して集中電源式をブルートレインの本命として考えていたのではないかと思われます。
また、ブルートレインの電源車は一部の例外を除いて、荷物室を持つ荷物車となっています。ブルートレインの荷物室では主に新聞輸送を行っていました。24系の製造が始まる1973年頃は、まだ全国誌の新聞輸送のかなりの割合を鉄道が行っていましたので、ブルートレインの荷物車を無くす選択肢は難しかったのではないかと考えられます。
なお、当時は急行列車以下の夜行列車へは、新聞輸送のため、わざわざ荷物車を連結していました。
ただこの新聞輸送も、高速道路の発達と、全国誌が印刷拠点を増やしたことなどから、減少して平成に入ってからは、印刷拠点の少ないスポーツ新聞や業界紙などの利用が続いていただけでした。

14系寝台車が使われた列車の多くは、14系座席車と併結する急行ブルートレインを除くと、さくらやあかつきのような多層建て列車か、それらと共通運用を組んでいた列車です。14系寝台車使用で、分割併合をしないのは、JR移行時点では紀伊と併結してた名残ともいえる出雲2・3号と、北陸ぐらいです。


撮影 門司 2007年1月6日


ところで、1975年に新幹線が博多まで開業したことによる乗客の移行、この頃の度重なる運賃値上げ、飛行機の発達によって1980年頃から東海道山陽本線のブルートレインを含む夜行列車の衰退が急速に始まっていましたが、東京発着の九州方面のブルートレインはあさかぜが3往復から2往復になった以外は見かけ上は本数が維持されていました。
ただ、1978年までにあさかぜ、はやぶさ、富士が3段寝台で定員の多い20系から、2段寝台で定員の少ない24系25形への変更によって、実際の輸送力はかなり下がっていました。ナハネ20の定員が54人なのに対して、3段寝台のオハネ14が48人、オハネ25が34人と輸送力は大幅に減少しています。1980年代後半からはさくら、みずほに使われていた14系の2段寝台への改造が始まり、更に輸送力は下がっています。

大阪発の九州方面のブルートレインは、あかつき1往化され、明星がはなに変更になった以外は大きな変更は無いように見えますが、並走していた583系使用の電車寝台特急の彗星明星などや14系座席車を使用していた夜行急行を廃止して、ブルートレインだけを残した状態でした。このような状態でJR化を迎えたわけです。
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