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にしみの鉄道情報局付属ブログ

赤と青のガウン SNSでバズって文庫化された留学記

2024-08-25 | 書評

三笠宮家の長女彬子女王のオックスフォード留学期。2015年に出版されたのですがSNSでバズって、文庫化されることになりました。自分もそのSNSを読んで気になっていて、文庫を購入しました。女性皇族では初めて博士号を取得して、現在は日本美術の研究者となっています。

 

皇族とはいえ、英国への留学や欧州内の移動は、護衛が付かず、単独で行動するそうです。英国には世界各国の王族が留学してくるので、わざわざ護衛を派遣しない、警護を依頼しないそうです。生まれて初めて街を一人で歩いたのがオックスフォードだったのは、そのような事情があったためです。

オックスフォードの大学院時代にフランスで日本美術の展覧会を学芸員の補佐として開いたエピソードや、皇族用の外交パスポートで格安航空に乗って空港で怪しまれる話、エリザベス女王に面会した話など、読みやすい文体で面白く書かれています。

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田村駅と米原田村間の電化

2024-08-24 | 

 

田村駅、現在長浜市郊外の普通の中間駅ですが、かっては交流電化の起点で運転拠点として機関車交換が行われた駅です。

1957年に北陸本線が交流電化されたとき、米原~田村間のみ非電化で残され、この駅で蒸気機関車と電気機関車が交代していました。そのため、交直流電車が普及する前は、ほとんどすべての列車が停車していました。(唯一の例外が気動車準急のこがね・しろがねで、後にキハ80系気動車使用の白鳥も田村駅を通過)

1950~60年代の北陸本線は電化と並行して順次複線化などの改良が行われており、この駅も複線化時に上下線間に留置線がある機関車交換を前提とした駅として整備されています。

交流電化後の米原田村間の牽引は、他に適当な使用場所がなく持て余していたE10形蒸気機関車が使われ、後にはD50・D51形になり、無煙化後はDD50形ディーゼル機関車が担当していました。その後ED30形交直流電気機関車が1962年に1両試作されましたが、結局最後は、米原操車場の入れ替え用のDE10形に落ち着きました。この交直接続は北陸本線の急行きたぐにのけん引機がEF70形からEF81形に変更になる1983年まで続きました。

 

ところで米原田村間の直流電化開業及び田村駅南側へのデットセクション設置は、正式には1962年12月28日という事になっています。しかし、実際には1960年10月には同区間の電化及びデッドセクション設置が行われています。同年3月に米原機関区に暫定配置された関門トンネル用のEF30の試運転のためで、翌年4月まで北陸本線で試運転が行われ、貨物列車を敦賀までけん引したこともあったようです。

となると1962年12月28日はなんだということになりますが、おそらく北陸本線初の交直流電車の471系急行形電車による、営業列車運転開始日ではないかと思われます。

 

475系急行形電車 撮影 敦賀駅

471系は1962年7月に敦賀区に配置されています。正式に定期運用に入るのは、翌年4月の改正からですが、ダイヤ改正に先立って、年末年始の大阪福井間の臨時急行に使用されています。おそらくこの臨時急行が初めて、田村駅南側のデットセクションで車上切り替えを行った営業列車で、この運転をもって、米原田村間の電化開業日としたと思われます。

 

 

現在、北陸本線は敦賀まで直流電化に変更され、この区間も普通列車は直流電車が行き来するようになり、留置線のあとの上下線の間の空間のみが往時を忍ばせます。

 

撮影 2018年5月27日 2007年3月10日

 

参考文献 鉄道ファン1987年9月号 交流・交直流電機出生の記録3

     JTBキャンブックス 国鉄急行型電車物語

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大糸線の全通

2024-08-15 | 鉄道

8月15日は1957年に大糸線が全通した日です。大糸線は松本糸魚川間の路線ですが、信濃大町以南は1937年に信濃鉄道を国有化した名残で、松糸線ではなく大糸線となっています。国有化以前に、信濃大町以北の建設が始まっていて、信濃大町中土間と糸魚川小滝間が開通していました。当時は大糸南線、大糸北線でした。

戦後、中土小滝間の建設が行わ、1957年8月15日に全通しています。松本信濃大町間は信濃鉄道時代に電化されていましたが、順次電化区間が伸びて、1967年には南小谷まで達しています。それ以来、南小谷は電化区間と非電化区間の境界駅になり、そのままJR東日本とJR西日本の境界駅になりました。

 

電源開発は大糸線と深い関わりがあり、黒部ダムの建設の時期は資材搬入の貨物列車が多数運行されました。黒部ダム建設は、よく知られているように大町側から関電トンネルを建設して、資材搬入が行われました。この大町側からの関電トンネルの開通は1958年で、この開通から黒部ダム本体の建設が本格化しました。大町と宇奈月の間の黒部ダム建設関係者の行き来のために、大糸線の全通が急がれたとも言われています。

現在、大糸線の大町糸魚川間はアルペンルートの周遊きっぷの区間にも含まれていて、北陸新幹線の開通で以前に比べて観光客の利用も多いようです。

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