東京の地下鉄が東京メトロと都営地下鉄の2者体制なのはよく知られていますが、なぜ異なる経営主体の地下鉄が2者併存しているのかはあまり知られていません。
東京メトロの前進の帝都高速度交通営団は戦争中の国策によって誕生した会社で、他の都市の地下鉄が自治体主体で運営しているのに対して、国主体で誕生しています。
東京都もある程度営団には出資していましたが、当然、東京都は面白くないわけで、一億総動員と言われていた戦争中でさえ、東京都(当時は東京市)による地下鉄運営を主張し、国と対立していました。陸上交通事業調整法が出来た時、東京市は直営による市電、バス、地下鉄の一元経営を考え、国は国鉄の電車区間、市電、地下鉄、私鉄、バスを含めた特殊会社の設立を考えていました。
結局、バスは当時の東京市の市域の民営バスを東京市が買収し、一元化しましたが、地下鉄は国と都、各私鉄が出資する帝都高速度交通営団が設立されました。
戦後、営団地下鉄は国鉄が6割、東京市の後継の東京都が4割の出資で運営されてきました。出資しているとはいえ、国の意見が通り都の意見が通りにくい営団のため、戦後も都は営団地下鉄の都営運営を主張してきました。
しかし1953年頃から都は営団とは異なる独自の地下鉄運営を行う方針に転換しました。この時期、戦後の復興期でかなり交通事情が悪化してきて、営団と国鉄だけでは都心の交通が賄えないと言われ始めていました。この時期、営団だけでは地下鉄の建設は不可能と言われ始め、営団の資金調達とは異なる都にも、建設させるべきという意見も増えてきました。
こうした意見は運輸省をも動かし、陸上交通事業調整法の方針転換が行われることになりました。都は1956年に軌道法基準の地下鉄を申請して営団を揺さぶりをかけましたが、都市交通審議会は行政指導のもと、営団の路線免許の1路線、都に譲渡させる方針を提示しました。都としては1路線でも路線免許を受けられれば、大成功だと考えていたようです。
営団としても、公道の下に地下鉄を建設するため、道路管理者の都に楯突くわけにはいかず、路線免許の譲渡で妥協したと言われています。
こうして建設された建設されたのが浅草線で、その後都営地下鉄は4路線にまで増えています。
なお、営団出資の国鉄分は分割民営化によって、国が受け継いでいます。
営団地下鉄は民営化されて東京メトロになり、国は株式上場を目指していますが、未だ都は地下鉄運営の一元化を目指しています。都が4割の株式を持つ会社の上場は、難しいですし、都は国の持ち分が株式市場に放出された場合、買い増して過半数の株を都で持つ事を考えていると言われています。
参考文献 日本の地下鉄 和久田康雄著 岩波新書刊