nishimino

にしみの鉄道情報局付属ブログ

敵に塩を送る

2017-06-27 | テレビ番組
大河ドラマ直虎で、今川氏から武田氏への塩止めの話が出てきました。

1567年、武田信玄は今川氏との同盟を一方的に破棄しました。北条氏とも同調して、武田氏への今風に言うと経済制裁を行うことにしました。これがいわゆる塩止めで、これによって武田氏の領国である甲斐信濃は、塩が無くなり困ることになりました。
人間の生存には塩は不可欠ですので、甲斐信濃の領民は相当困ったわけです。
そこで長年敵対関係にあった越後の上杉謙信は武田に塩を送ることにしました。これが世に言う敵に塩を送るです。

これは上杉謙信の義の心という事で、美談にされていますが、上杉側の視点から見るとまた異なってきます。
甲斐信濃では塩が不足して、需要があるわけです。足元を見たわけではないのですが、相場よりも高い価格で塩を売れ、駿河系の商人の顧客を獲得出来るわけです。別に無償で塩を譲渡したわけではないと思います。
イラン革命後の欧米の経済制裁をかいくぐって、イランの港にタンカーで乗り付けた出光興産ではないのですが、越後の商人はビジネスチャンスと捉えていたのではないかと。
上杉謙信は資金を得るために、甲斐信濃の武田領内での塩の販売を推奨していたのか、それとも商人の力が強くそこまでの統制が効かなかったかは定かではありませんが、織田信長と並んで上杉謙信も商業重視政策を取っていたと言われています。
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モバイル環境が整備されたHOT7000系

2017-06-20 | 鉄道


智頭急行のHOT7000系ですが、2015年から試験的にWi-Fi環境とコンセントが装備されて、明らかに外国人観光客を意識したモバイル環境が整備されました。
コンセントは明らかな後付感がありますが、ともかくこれ以外の既設特急車両にも広がってほしいところです。



このHOT7000系ですが、JR西日本鳥取鉄道部が管理していますが、智頭急行所有車ということもあり、このようなサービスが出来たようです。JRだと新幹線のような有料サービスか、色々面倒な手続きが必要になるのかどちらかだと思います。

ところで、Wi-FiはNTTの4G回線を使っているらしく、トンネルの中では通信できないようです。

撮影 2008年12月13日 2017年6月10日
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三江線遠征

2017-06-17 | 旅行


来年の3月末に廃止される三江線に乗ってきました。1ヶ月ほど前から、時刻表を引っ掻き回して、結局京都7時06分発スーパーはくと1号に乗車し、鳥取からは11時40分発スーパーまつかぜ5号で江津14時22分着、江津からは15時15分発の429Dで三次着18時59分、三次からは芸備線広島行き1881Dで19時03分発20時56分着、広島からは21時19分発のさくら572号で新大阪着22時49分、これより先の新幹線はないので、ここからは新快速で山科まで移動しました。
帰りの新快速から乗り継げば米原まで到達できましたが、広島からの新幹線の時間によっては米原まで最終がなくなるので、高速で大津まで行き、浜大津の駐車場に駐車しました。

よく言われているように三江線は全線通して乗車できるのは往復3本しかありません。うち1本は早朝で、三次もしくは江津浜田での宿泊が必要になります。これらの始発には夜行高速バスからの乗り継ぎもかなり難しいと思われます。

というわけで、京都からはスーパーはくとで鳥取へ。新快速と並行ダイヤなのですが、停車駅が6駅も少ないので姫路まで余裕の走りといった感じです。
はくとは倉吉行きですが、次のスーパーまつかぜ5号は鳥取始発なので、鳥取で下車。

まつかぜ5号までは1時間以上の間がありますが、実を言うと、新快速で相生乗り継ぎで上郡からのいなば3号でもまつかぜ5号には間に合います。更に言うと、岡山まで新幹線で移動して、やくも7号に乗車すればまつかぜ5号には間に合います。
浜大津には朝の6時前に到着しましたが、朝8時に大津に到着しても十分まつかぜ5号には間に合います。ただ、山陰本線の鳥取伯耆大山間と、米子浜田間が未乗だったので、江津までの移動でまとめて乗ってしまおうという考えが多少ありました。

鳥取から2時間半で、江津へ到着。江津駅前にはコンビニや飲食店も無いという情報でしたが、ここで何か買っておかないと、ここから三次まで4時間弱、乗り継ぎで広島までさらに2時間の6時間弱なにも食料を調達できなくなります。調べた所、駅から600mほど国道を西へ行った所にコンビニがあり、飲食店も何店かあります。

ここから4時間近い三江線への乗車、数名の地元の方以外は、殆どが同業者。地元の方でも所要がある人ではなく、記念的に行楽で乗車している人で、実質的な地元利用者は一桁の下の方でした。沿線にはそれなりに人口がありますが、さすがに遅すぎる、本数が少なすぎるで使いたくても使えない状況にあります。
途中駅で下車する人、乗ってくる人もほぼ同業者で、大半の人は三次まで乗り通しました。
建設が新しい浜原口羽間はそこそこ速度を出しますが、それでも至る所に徐行区間あります。山手側を車内から見ると、間伐材などの間引きがあまりされておらず、雨が降るとヤバそうな所が多数。


三次には18時59分着、わずか4分の乗り継ぎで芸備線の広島行きに乗換。ここから広島までは2時間かかりますが、こちらも長かった。この乗り継ぎが一番厳しく遅れたら、最終の新大阪行きの新幹線に間に合わないので、心配していたのですが、定刻通り乗り継ぎが出来ました。
結局スムーズに乗り継ぎが出来ましたが、三江線日帰りはやるものではないなと。ただ夜行バスとの組み合わせも、広島宿泊もあまり効率の良いスケジュールが組め無かったので結局日帰りになりました。
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飲むシュークリーム

2017-06-12 | 清涼飲料水


永谷園が発売したビアードパパの飲むシュークリーム。永谷園は味噌汁などの温かい缶入り飲料を出していましたが、同社がコールド向け飲料に進出した初の製品のようです。

飲むシュークリームということでやっちゃった感がありますが、ミルクセーキーに近い味ではないかとおもいます。

http://www.nagatanien.co.jp/product/detail/779/
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ED76-500番台の謎

2017-06-01 | 鉄道


小樽市総合博物館に保存されているED76-500。
もともとED76形は九州地区用の電気機関車として1965年から製造されました。メカニズム的には、整流器などの機器はED75とほぼ同じで、蒸気発生器SGを追加しています。SGを搭載した重量増加と、軸重の制限がある区間に入線するため中間台車を追加しています。また九州内では貨物列車の重連運用が無いため、重連総括制御も装備されていません。

函館本線の小樽旭川間が1968年に電化され、北海道向けにも電気機関車を製造されることになり、これが九州用と同じED76形の500番台として製造されました。
当初は東北向けのED75形を北海道仕様にしたED75-500番台が試作されたのですが、全サイリスタ制御だったため、誘導障害の問題があり、SGを搭載していなかったため、旅客列車のけん引には不向きで、量産は見送られました。
北海道向けのED76形は九州向けのED76形と異なり、位相制御は磁気増幅器(マグアンプ)から、サイリスタに変更になっています。ただし、ED75-500番台やED78形・EF71形のような全サイリスタ制御ではなく、誘導障害を考慮してタップ切り替え式のサイリスタ制御をしています。また北海道内では重量貨物列車の牽引を計画していたため、重連総括制御を装備しています。
結局、九州向けのED76形基本番台との共通点は、SGを装備していることと、中間台車があるぐらいで、別形式といっていいぐらいの差があります。

ED76形に無理やり押し込めた感がある、北海道向けの500番台ですが、独立した新形式にしなかった理由ははっきりしていません。
1980年登場のEF64-1000番台が組合対策で別形式にならなかったと言われており、同様にED76-500番台やDD51-800番台(DD51形のSG省略バージョン)も別形式にしなかったと言われています。
しかし、ED76-500番台やDD51-800番台が製造された1968年は、EF64-1000番台が製造された1980年に比べて国鉄の労使関係がそれほど悪化していた時期ではないので、組合対策ではないのではという説もあります。国鉄の労使関係が決定的に悪化したのは1970年のマル生運動あたりからではないかと思います。
となると、なぜDD51-800番台とED76-500番台は新形式にならず、番台区分ですませたのかは諸説あります。

DD51-800番台はSG以外の性能は全く同じですし、それ以前にSGを省略した500番台が製造されたこともあります。またEF64の基本番台には電気暖房用のMGを省略した貨物専用機があり、蒸気暖房用のSGが形式の変更点にならなかったのではないかと思います。

ED76-500番台の場合、DD51-800番台とは別の事情があるようです。国鉄の交流機は70台ですが、D形の場合、ED76-500番台登場時、70から78まですべて埋まっていました。
ED76-500番台を別形式にすると、番号が枯渇してしまうという問題が有ったのではないかと想像しています。北陸本線用ED70(1957年)から始まり、東北本線用のED71(1959年)、九州用のED72(1961年)、ED73(1962年)、北陸本線用のED74(1962年)、東北本線・常磐線用のED75(1963年)、九州用のED76(1965年)、磐越西線用のED77(1967年)と、77まで埋まっていました。
1968年10月改正での、板谷峠仙山線用のD形交流電気機関車と北海道用のD形交流機関車が運用開始する予定でした。板谷峠仙山線用のD形交流電気機関車はED78形として生産されましたが、北海道用はED76-500番台となりました。ED78形は1968年から使用開始されましたが、一部の車両は1967年ごろから製造されています。一方、ED76-500番台は1968年に入ってから製造されています。

おそらくED76-500番台は、今後の新形式を考慮して、79番を開けるために無理矢理ED76形に押し込まれたのではないかと想像します。
ただ、結局D形交流電気機関車の新形式は、1986年の青函トンネルのED79形まで生まれることはありませんでした。

 

参考 2014年11月12日 ED75-500の謎


撮影 2014年10月18日

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